35 ヴァレンシュタイン家、崩壊
一方その頃、オレンジに染まる王都の大通りを、リリアはイライラした足取りで歩いていた。
期待に満ちて始まった授業参観。その中心で輝くはずだった、このドレス。
それなのに。
神童と呼ばれたレオンの敗北と、観客たちの冷たい視線。
「まったく……何が神童よ。」
苛立ちを隠そうとしないまま、吐き捨てるように呟いた。
「お姉様ったら、一体どんな教育をしたのよ。」
誰にぶつければいいのか分からない怒りだけが、どんどん募る。
「あー、最悪……。」
だが、いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。
「とりあえず、注文してたドレスだけでも受け取って帰りましょ。」
切り替えが大事。
そう自分へ言い聞かせると、見慣れた高級仕立て屋の扉を押し開けた。
—ラグジュール洋装店—
カラン――。
シックな店内に、鈴の音が静かに響く。
いつもなら店員たちが慌てて駆けつけ、笑顔で迎えてくれる。
しかし、その日は違った。
店内へ漂う空気は重く、誰一人として近寄ってこようとしない。
(なに?もう神童失墜の噂が広まったわけ?)
「ま、いいわ!注文していたドレスを受け取りに来たの。」
気を取り直したリリアが店員に告げると、店の奥から責任者が静かに歩み出てきた。
その顔に笑みはない。
「……ヴァレンシュタイン様。」
責任者は、頭を下げなかった。
「ご注文の品は、お渡しできません。」
「はぁ?それ、遅すぎではなくて?」
注文してから、かなりの日数がたっている。
「いえ。仕立ての問題ではなく、代金がお支払いされておりません。」
「それどころか、これまでのお品代もいまだに未払いとなっております。」
リリアは思わず吹き出した。
「ちょっと、何を言ってるの?」
呆れたように肩を竦める。
「私はヴァレンシュタイン伯爵夫人よ?伯爵家へ請求すればいいじゃない。」
責任者は静かに首を横へ振った。
「その請求が未払いなのでございます。」
店内がざわつき始めた。
「当店では、これ以上のお取引はお受けできません。」
「はぁ?」
そのやりとりを見ていた店内の客。
「あの人、お金払ってなかったの?」
「伯爵家を騙った詐欺じゃないか?」
囁き声がリリアの耳へ届くと、その頬がみるみる赤く染まった。
「ふ……ふざけないで!」
店内へ怒鳴り声が響く。
「伯爵家に向かって、なんて口の利き方なの!」
しかし誰も怯えない。
店員たちは淡々と立ったまま、責任者も表情一つ変えなかった。
「お引き取り下さい。これ以上は営業の妨げになります。」
「んなっ……!?」
リリアはなおも食い下がろうとしたが、いつの間にか数人の店員が静かに周囲を囲んでいた。
有無を言わせぬ空気に、結局、店の外まで促される。
そして、呆然とするリリアの目の前で扉が閉まった。
カラン……カラン……ラン――。
鈴の音だけが虚しく響く。
「覚えてらっしゃい!」
お決まりの捨て台詞だけを残し、リリアはラグジュール洋装店を後にした。
・・・
その頃。
伯爵邸ではレオルドが借金取りとの話をひとまず終え、疲れ切った表情で書斎へ戻っていた。
「旦那様。」
若い執事が一礼する。
「鉱山の収益をありったけ返済へ回せ。掘り尽くしてでも支払うんだ。」
レオルドは迷いなく命じたが、執事は苦しげに目を伏せた。
「あのー、旦那様。申し上げにくいのですが。」
レオルドの右眉が動く。
「鉱山は、すでに採掘できる状態ではございません。」
「採掘費用の方が高くつき、掘れば掘るほど赤字になります。」
「残されていた鉱石の在庫も、もう底を尽きました。」
立て続けに突きつけられた鉱山の惨状。
最後の希望だった。
レオルドが父から受け継ぎ、その父も父の父から受け継いだ、金のなる木だった。
その伝統ある財源が、静かに底を尽こうとしていた。
「はっ……はは。」
一礼して書斎を後にする執事にも気づかないレオルド。
——こうしてヴァレンシュタイン公爵家は、本当の意味で破綻への道を歩み始めた。
・・・
それから数日後のヴァレンシュタイン家。
その二階にある書斎では、レオルドとクレイスが山積みになった書類を前に黙々と作業を続けていた。
返品できそうな品物。
借金返済に充てる資産。
売却できる財産と、どうしても手放せない財産。
その一枚一枚を確認しながら、整理していく。
そんな重苦しい沈黙の中、不意にクレイスが口を開いた。
「失礼ながら、お尋ねしてもよろしいでしょうか。」
レオルドは疲れた表情のまま、クレイスの視線に合わせる。
「……何だ。」
「なぜ、ここまで奥様のやりたい放題自由にされてこられたのですか。」
当然の疑問。
その問いに、レオルドは苦く笑った。
「今となってはなぁ……。」
力なく息を吐く。
「……自分でも分からん。」
それ以上、答えようがなかった。
・・・
そしてついに、その時は訪れた。
ガラガラガラ……ギィィ。
ヴァレンシュタイン伯爵家に、何台もの荷馬車が横付けされる。車輪が止まるより早く、商会の人間たちが次々と屋敷へとなだれ込んだ。
「箱だっ!箱を用意しろ!」
「換金できるものは全て運び出せ!」
使用人たちが茫然と見守る中、高級家具が運び出されていく。
さらには豪華な食器や名画、彫刻、高価な花瓶。
屋敷を彩ってきた調度品が、次々と荷馬車へ積み込まれていった。
騒ぎを聞きつけたリリアが慌てて階段を駆け下りてくる。
「ちょっと騒がしい……って、何よこれ……!」
飛んできた勢いはどこへやら、青ざめた顔で辺りを見回した。
「次、この絵だ。」
「ちょっとその絵!これから値が上がるって教えてもらったものなのよ!」
誰からの返事もない。
「ねえ聞いてるの!?金貨七百枚もしたんだけど!?」
そもそもリリアの姿すら見えていないように、商会の者たちは淡々と作業を続けるだけだった。
やがて、一人の業者が宝飾品をまとめた箱を持って現れた。
「それは私の私物よ。勝手に持ち出さないでくれる?」
「こちらは全て差し押さえになります。以後、ドレスや靴なども勝手に持ち出さぬよう。」
問答無用。
リリアの顔色が変わる。
「じゃあ、全部はだめ!せめて半分は残してぇぇぇ!」
悲鳴にも似たリリアの叫びがホールに響く。
だが、止まった時間はほんの一瞬だった。
我に返ったように動き始めた商会の男に、ついにリリアは膝間づいて懇願する。
「一つだけでも!ピンクの髪飾りだけは返して!」
しかし商会の者は無言で一礼し、そのまま荷馬車へ運び込んでいく。
リリアはその場へ膝をついた。
——が、怒りに任せて立ち上がると、一直線に書斎へ向かう。
「レオルド!!!」
そこには、書類の山へ埋もれたレオルドと、静かに整理を続けるクレイスの姿があった。
「家がめちゃくちゃじゃない!どうなっているの!?」
怒鳴り声が書斎中へ響くと、レオルドはゆっくり顔を上げた。
「めちゃくちゃ、だと?」
言った瞬間、力なく鼻で笑った。
「もう限界だと言ったはずだ。このままでは、伯爵家そのものを失うぞ。」
そこにはもう感情は無かった。
レオルドの様子を見て、リリアはようやく状況を理解した。
「わ、分かったわ。」
慌てて言葉を繋ぐ。
「私も協力してあげる。不要なものは、手放してもいいわ!」
リリアはレオルドの顔色を伺うように、慌てて身を乗り出した。
「それに、レオルド!」
「お姉様へ払うはずだった示談金があるじゃない。その金貨二千枚を返済に回せばいいでしょう?」
レオルドの動きが止まる。
「……なぜ、お前が示談金の事を知っている?」
「なぜって……示談書を見たからよ。」
リリアは悪びれた様子もなく答えた。
「安心して。私には内緒だったんでしょうけど、もう怒ってないわ。それに――」
「――私、千枚も使ってないから。」
凍り付く書斎。
クレイスだけが、俯いたまま肩を小さく震わせている。
「おい……今、何が……何、だと……言った?」
「私が、金貨を、千枚も使ってないって、言った。」
レオルドの手から、書類がハラハラと舞い落ちた。
「だって二千枚も浮くなら、少しくらい使っても平気でしょう?ちゃんと半分以上は残して――」
「この………馬鹿者ぉぉぉっ!!」
机を叩く轟音が書斎へ響いた。
「何が二千枚だ!!私はあの示談書に二百枚としか書いていない!!」
「……は?」
リリアの笑顔が固まる。
「二百……?」
「それに!そうだとしても、なぜお前が使っていい道理になるのだ!」
「だって、姉の示談金なんて踏み倒せばいいでしょう?」
名案と言わんばかりに、得意げなリリア。
「そういう問題ではない!王侯貴族の間では妻に対し最低の保証額があるのだ!」
リリアの得意げな顔が、一転する。
「それが、二百なのだ。」
「じゃ、じゃあ……あの二千枚は……。」
「知らん!」
レオルドは頭を抱える。
「それになぜ、アルディスからの返答を私へ渡さなかった!そのせいで返答も確認もできなかったのだぞ!」
———コホン。
クレイスは、咳払いで二人の話を割った。
「失礼します、旦那様。」
手には、黒く重厚な封筒。
その中から、新たな書類を差し出した。
「伯爵様宛に、王都百貨店より新しい請求書が届いております。」
興奮のまま、レオルドは無言で受け取り目を通す。
「ハァ、ハァ……特別販売……フロアだと?」
その額を見た瞬間、こめかみがぴくりと震えた。
「金貨……九百八十枚!!?」
静かな声だった。
「何の請求か、お分かりになりますか。」
クレイスは淡々と尋ねると、レオルドはゆっくりと顔を上げる。
「リリアァァ……お前、一体何を買ったのだ。」
リリアの顔色が変わる。
「……まさか。授業参観で着ていた、あのドレスか!?」
「だめ……だめよ、あれだけはだめ!王女殿下とお揃いの―――」
「まだそんな悠長なことを言っているのか!!!!」
書斎が静まり返る。
レオルドはスッと立ち上がり、真っ直ぐリリアを見据えた。
この家に不要なのは――
「お前だ、リリア!!」
怒声と共に突き付けられた指先。
伯爵家が積み上げてきたものは、今まさに音もなく崩れ始めていた。




