33 もう、いらない。
「伯爵夫人、お待ちください!」
近くにいた教師が慌てて立ち上がり、階段へ踏み出そうとするリリアの前へ回り込んだ。だが、リリアは制止しようと伸ばされた手を、邪魔だと言わんばかりに振り払った。
「お離しなさいっ!」
リリアは周囲の視線にも構わず、ヒールを激しく鳴らしながら階段を駆け下りていった。
試験場を囲む防護柵の前では、異変に気付いた教師たちが戸惑ったように顔を見合わせる。
試験はまだ終わっていない。
複数の生徒が同時に魔法を扱う実力審査では、わずかな混乱が大きな事故へつながりかねない。そのため、保護者が試験場へ立ち入ることは固く禁じられていた。
しかし、先ほどから観客席を騒がせていたリリアは、今や誰の言葉も耳へ入らないほど興奮していた。
「だめです、伯爵夫人!まだ試験中です!」
「もうレオンは失格なのでしょう!?」
リリアは教師の脇をすり抜け、そのまま試験場へ足を踏み入れた。
突然現れた乱入者に、近くで魔法を構えていた生徒たちが驚いて手を止める。何事かと振り返った生徒も、その剣幕に押されるように距離を取り、次々と道を空けていった。
試験場を取り囲む観客席からもざわめきが広がる。
何百もの視線が一斉に注がれていることなど、今のリリアには見えていなかった。
視線の先にいるのは、ただ一人。
砕けた防護壁の跡へ立つレオンだけだった。
~~~
一方、レオンはその場に立ったまま、乱れた呼吸を整えていた。
優勝できなかった。
試験の途中で負けた。
これまでの自分なら、この結果を受け入れることなどできなかっただろう。
主席で入学し、誰よりも強い魔力を持つ神童として扱われてきた。勝つことは特別なことではなく、初めから決まっている当然の結果だと思っていた。
だが、その力は突然消えた。
それでも、逃げなかった。
使える魔力を探り、相手の動きを見て、自分なりに考えながら最後まで戦った。
負けた悔しさは、確かに胸へ残っている。
けれど、今まで敗北を想像した時に感じていたような、何もかもを奪われたような絶望はなかった。
レオンはゆっくりと自分の手を持ち上げた。
(勝てなかった。)
(でも……。)
自分で考え、自分の意思で組み立て、初めて自分の力だけで魔法を生み出した。圧倒的な魔力がなくても、戦うことも、魔法を使うこともできた。
胸の奥には、敗北とは別の、小さな手応えが確かに残っている。
(これが……。)
レオンは自分の掌を見つめたまま、指をゆっくりと握りしめる。
(これが、僕の本当の魔法なんだ。)
固く握っていた指先から少しずつ力が抜けていく。
次はもっと上手くできるかもしれない。初めから完成された力を振るうのではなく、一つずつ覚え、失敗しながら強くなっていく。
そんな未来を、レオンは初めて自分自身のものとして思い描いていた。
~~~
「レオン!!」
聞き慣れた母親の怒鳴り声が、試験場へ響き渡る。
レオンは反射的に顔を上げた。
「お母さ――」
――パァァァンッ!!
乾いた音が、静まり返った試験場へ鋭く響いた。
叩かれた勢いでレオンの顔が横へ弾かれる。何が起きたのか理解できないまま、熱を帯び始めた頬へ手を添えた。
目の前には肩を震わせたリリアが立っている。涙で目元の化粧は滲み、怒りに染まった顔は激しく歪んでいた。
「あなた、私になんて恥をかかせるのよ!」
レオンは呆然と母親を見つめる。
「散々期待させておいて、すぐに負けるなんて!」
「……っ。」
「みんな笑っていたわ!主席入学の神童が聞いて呆れるって!」
試験場は静まり返っていた。
生徒たちは互いに顔を見合わせ、教師たちも止めに入るべきか迷いながら足を止めている。
「どうして勝てなかったの!?」
リリアはレオンの肩を強く掴んだ。
「どうして優勝できなかったのよ!」
「僕は……。」
唇が小さく震える。
自分なりに戦った。
魔力を失っても逃げなかった。
初めて自分自身の力だけで、最後まで戦い抜いた。
そのことを伝えたかった。
けれど、言葉になるより早く、リリアの怒声が重なった。
「あなたが負けたせいで、全部台無しよ!」
肩へ食い込む指先に力が入る。
「私がどれだけ今日を楽しみにしていたと思ってるの!?あなたが圧倒的な力を見せれば、みんな私を羨ましがるはずだったのよ!」
レオンの瞳が、ゆっくりと揺れた。
母は、自分の身を案じているわけではない。
突然魔力が消えたことを心配しているわけでもない。
負けた自分が悔しいわけでもない。
自分が恥をかかせた。
ただ、それだけなのだ。
「お母様は……。」
震える声が漏れる。
「僕を見に来たんじゃ……?」
「あなたじゃない!」
リリアは涙を拭うこともなく言い放った。
「あなたが"勝つところ"を見に来たのよ!」
その言葉を聞いた瞬間、レオンの胸の奥で何かが静かに崩れた。
自分が何を思い、何を望んでいるのか。この人は、そんなことには最初から興味がなかったのだ。
「もう……いいわ。」
肩を掴んでいた手が離れ、レオンはゆっくりと顔を上げた。
そこにあったのは怒りでも悲しみでもない。
すべてを見限ったような、冷え切った視線だった。
「もう、いらない。」
「え?」
短い一言だった。
それは平手打ちよりも深く、レオンの胸へ突き刺さる。
「あなたみたいな役立たずは、もう……。」
リリアはそれだけ告げると、鮮やかなドレスの裾を大きく翻した。
「伯爵夫人!」
教師の呼び止める声にも、リリアは振り返らなかった。
鮮やかなドレスが試験場の出口へ消えていく。
『もう、いらない。』
その一言だけが、遠ざかる背中とともに、レオンの中へ静かに沈んでいった。
・・・・
その頃――。
学園の別室では、レオルドが黒服の男たちと向かい合っていた。長机の上には、持ち込まれた大量の契約書と請求書が並べられている。
「こちらが、現在ヴァレンシュタイン伯爵家名義となっております借入金の一覧です。」
男は淡々と書類を差し出した。
レオルドは苛立った様子で受け取り、その一枚目へ目を落とす。
直後、その顔から血の気が引いた。
「……馬鹿な。」
記載された金額を、何度も見直す。
「こんな額になるはずがない。」
「間違いございません。」
「私は、このような契約を交わした覚えはない!」
「すべて奥様が購入された品になります。」
男は別の書類を取り上げた。
「こちらは王都百貨店で購入された衣装および装飾品。」
続けて、さらに数枚を机へ並べる。
「こちらは王室御用達の仕立て屋への注文品。」
「こちらは宝飾商から購入された首飾り、耳飾り、腕輪。」
「契約書にはすべて、奥様の署名がございます。」
差し出された書類を奪うように受け取る。
そこには確かに、リリア・ヴァレンシュタインの名が記されていた。
一枚ではない。
めくっても、めくっても、リリアの署名が現れる。
「何を考えているんだ、あの女は……。」
レオルドの指が震え始めた。
「返済期限は、いずれもすでに過ぎております。」
「待て。分割で支払う。領地の税収を――」
「そちらもすでに試算しております。」
さらに一冊の資料が置かれる。
「通常の領地運営を維持しながら返済を続けた場合、完済までに数年を要します。」
「数年だと……。」
「加えて、今後発生する利息もございます。」
レオルドは椅子へ深く沈み込んだ。目の前に積まれた紙の山が、伯爵家そのものを押し潰そうとしているように見えた。
「何かの間違いだ……。」
掠れた声が漏れる。
「たかがドレスや宝石で、これほどの額になるはずがない。」
「ドレスや宝石だけではございません。」
男は最も厚い書類の束を取り上げた。
「こちら魔導美容医院の回数券、また、競売で落札されたヴィンテージ家具もございます。」
「それに、郊外にある別荘の利用会員権や……。」
「……もういい。やめてくれ。」
レオルドは書類に顔を落とした。
そこに並ぶ数字は、もはや現実味を失っていた。隠し鉱山が健在だった頃でさえ、簡単に支払える額ではない。
「……どうすればいい。」
ようやく絞り出した声だった。
「返済計画については、今後正式な協議を行いますが……。」
男は冷静に答えた。
「返済能力がないと判断された場合、伯爵家が所有する資産の差し押さえとなります。」
「資産の差し押さえ……。」
「購入した品々の返品と売却、宝飾品、美術品、家宝、最悪は邸宅まで。そのほか換金可能な資産すべてです。」
レオルドの脳裏に、伯爵邸の姿が浮かぶ。
代々の当主が守り続けてきた、自分の生まれ育った家。それを、まさか自分の代ですべて失うことになるのか。
「……そんなことは許さん。」
「許可を求めているわけではございません。」
男の声は冷たかった。
「契約に基づき、必要な手続きを進めるだけです。」
レオルドは何も言い返せなかった。
「なお、調査の過程で確認された未払い債務も、こちらへ加算されております。」
これ以上何があると言うのか。
力なく視線を落とす。
すると、積み重ねられた契約書の中に、一枚だけ見覚えのある書面が混じっていることに気付いた。
「これは……。」
震える指で、その紙を引き抜く。
婚姻解消に伴う示談書。
サレマへ提示した慰謝料の金額と、互いに一切の請求権を放棄するという文面。
だが、そこに記された金額を見た瞬間、レオルドの目が見開かれた。
「……金貨二千枚?」
自分が書いたのは、金貨二百枚だったはずだ。だが、何度見直しても、そこには確かに二千枚と記されている。
「これは違う!」
レオルドは勢いよく立ち上がった。
「私は金貨二百枚と記した!こんな金額を提示した覚えはない!」
男は書面へ視線を落とす。
「しかし、こちらは期日までに異議の申し立てがなされておりません。」
「改ざんされている!そもそもアルディスからの返信を受け取ってすら……!」
「それを証明するものはございますか?」
嫌な予感が、背筋を這い上がる。
「まさか、リリア……?」
レオルドは、震える声で妻の名を呟いた。




