32 敗北が教えてくれたもの
「今なら倒せるわ!」
「うん!同時に行くよ!」
二人の女子生徒は互いに視線を交わすと、示し合わせたように左右へ大きく散開した。レオンを挟み込むように距離を取り、逃げ道を完全に塞ぐ。
その布陣を見た観客席から、どよめきが広がった。
「挟まれた!」
「もう逃げ場がないぞ!」
教師たちも息を呑み、試験場を見守る。
だが左右から迫られても、レオンはむやみに動かなかった。
いや、動けなかったのではない。左右の間合いも、魔法が届くまでの時間も、そのすべてを計算したうえで――その瞬間を待っていた。
(このまま、このままでいい。)
二人の女子生徒が同時に杖を振り抜く。
「いくわよ!氷刃!」
「わたしも!氷刃!」
左右から放たれた二本の氷刃は、寸分違わぬ軌道でレオンへ襲い掛かった。誰の目にも、防護壁へ同時に突き刺さる必殺の一撃に見えた。
「終わった……!」
観客席の誰かが息を呑んだ、その刹那。
「――風よっ!」
レオンは自らへ向けて突風を放つ。
爆ぜるような風圧に身体が真横へ弾き飛ばされると、次の瞬間、それまでレオンが立っていた空間を二本の氷刃が交差するように通過した。
「えっ!?」
二人が気付いた時には、もう遅かった。
狙いを失った氷刃は勢いを殺すことなく互いの正面へ突き進み、そのまま相手の防護壁へ激突する。甲高い破砕音が二度続けて響き渡り、女子生徒二人の防護壁はほぼ同時に砕け散った。
「三名、四名、脱落!」
審判の宣告が響く。
一瞬前まで歓声に包まれていた会場は、水を打ったように静まり返った。
誰もが目の前で起きた出来事を理解できず、陽光を受けて舞い散る結界の破片だけが、きらきらと宙を漂っていた。
・・・
「……おっし。」
サレマの隣で、ノアが思わず小さく声を漏らした。
「あら、あなたレオンを応援してるの?」
不意に向けられた言葉に、ノアは一瞬だけ目を丸くする。
「べ、別に。ただ、一応ボクの生徒だしー?」
わざとらしく肩をすくめるその横顔に、サレマは小さく笑みを浮かべた。
「ふふっ。そういうことにしておくわ。」
ノアは照れくさそうに頬をかきながら、もう一度試験場へ目を向ける。
「……でも、思ったより根性あるじゃん。」
その呟きに、サレマはただ、土埃の中で何度も立ち上がるレオンの姿を、静かに見つめ続けていた。
・・・
その頃には、レオンは突風で転がった勢いを利用して立ち上がると、身体を反転させて次の相手へ杖を向ける。
その時だった。
「レオン君!」
聞き覚えのある声が、試験場へ響いた。
そこに立っていたのは、先日レオンが火球を放ち、火傷を負わせた男子生徒だった。制服の袖からは、治療を終えた腕が覗いている。
「僕が勝ったら、ちゃんと謝ってもらうからね!」
真っ直ぐに向けられた杖を見て、レオンの胸が僅かに揺れた。
あの時、自分へ向けられていた怯えた目とは違う。男子生徒は足を震わせながらも、逃げずに立っていた。
「こっちも……負けないから。」
レオンも堂々と構え、迎え撃つ姿勢。
四人を倒すために魔力を使い過ぎた。それでも、目の前の相手にだけは負けたくなかった。
「火球!」
小さな炎を作り、その周囲へ風を重ねる。
だが、男子生徒もすぐに杖を振った。
「水球!」
放たれた水球が、レオンの火球へ正面からぶつかる。
ジュッ――!
白い蒸気が一気に広がり、二人の姿を覆い隠した。
(見えない……!)
レオンは咄嗟に後ろへ下がると、その足が先ほどの水球で濡れた地面を踏んだ。
「うわっ!」
靴底が滑り、体勢が大きく崩れる。
その瞬間、蒸気の向こうから男子生徒の声が響いた。
「今だ!水球!」
小さな水の弾が、レオンの防護壁へ叩き込まれる。
――ピシッ。
すでに幾つもの亀裂が走っていた結界が、大きく揺れた。
「レオン君、これで終わりだよ!」
「っく、まだ――」
レオンが言い終わる前に、二発目の水球が同じ場所へ正確に命中する。
(……あっ。)
――パリンッ!
大きな音を立てて、レオンの防護壁が砕け散った。
淡い光の破片が、目の前にパラパラと降り注ぐ。
「レオン・ヴァレンシュタイン、脱落!」
審判の声が試験場へ響き渡る。
会場が一瞬、静まり返った。
男子生徒は、自分が勝ったことをすぐには理解できないように、杖を構えたまま立ち尽くしている。
やがて砕けた結界の向こうにいるレオンを見つめ、小さく息を吐いた。
「……僕の勝ちだね。」
レオンは濡れた地面へ尻をついたまま、その少年を見上げた。
以前なら、片手間で倒せた相手だった。
自分が傷つけた相手。
その相手に、今度は正面から負けた。
悔しいはずなのに、不思議と怒りは湧かなかった。
「……うん。」
レオンは僅かに俯く。
「僕の負けだ。」
その言葉を口にしたのは、生まれて初めてだった。
「この前は……ごめんなさい。」
レオンの手を取る少年。
しかし。
「……終わった。」
「本当に、負けたぞ。」
「信じられない……。」
主席入学。
希代の神童。
優勝して当然だと、誰もが信じていた少年。
そのレオンが、決勝を待たずして敗れた。
静寂は、やがて大きなざわめきへ変わっていく。
「今日の魔力量は、入学試験の時とはあまりにも違いすぎる。」
「測定器の故障だったのか?」
「いや、入学後の授業でも高位魔法を使っていたはずだ。」
「なら、なぜ突然……。」
教師たちは困惑を隠せないまま、レオンを見つめながら声を落とす。
「戦い方は評価できる。」
「だが、我々が聞いていた神童とは違うな。」
「確かに。今までどんなトリックを使ってたんだ。」
その言葉は、周囲の保護者たちにも広がっていく。
ひそひそと交わされる声。
その視線は、次第に最前列で一番目立つドレスに集まり始めた。つい先ほどまで、誰よりも誇らしげに胸を張っていたその顔から、すっかり笑みが消えている。
「どうなってるのよ……。」
膝の上に置いた両手が、細かく震えていた。
周囲から聞こえてくるのは、レオンへの称賛ではない。
落胆。
失望。
そのすべてが、神童の母親を名乗ってきた自分へ、疑惑となって向けられているように感じられた。
「でも、レオン君も頑張ったわよね。」
隣に座っていた貴婦人が、気遣うように顔を向ける。
「レオン君のお母様、お気を確かに。」
その言葉さえも、今のリリアには憐れみに聞こえた。
「違う……。」
小さな声が漏れた。
試験はまだ続いている。
教師も観客も、ほんの一瞬レオンへ向けていた視線を、再び試験場で戦う残りの生徒たちへ戻し始めていた。
神童の母親として集めていた羨望が、みるみる自分から離れていく。
それが、リリアには耐えられなかった。
「これは何かの間違いですわ!!」
甲高い叫び声が観客席中へ響き渡る。
試験場の生徒たちまで何事かと動きを止め、リリアは勢いよく立ち上がると、顔を真っ赤にして試験場を指差した。
「レオンは神童なのです!」
教師たちが戸惑ったように顔を見合わせる。
「伯爵夫人、試験中ですのでお静かに――」
「こんな結果になるはずありませんわ!」
制止する声を遮り、リリアはさらに叫んだ。
「あの子は入学試験で主席だったのよ!誰よりも強い魔法を使えるの!何かの間違いに決まっています!」
「しかし、防護結界が破壊された以上、レオン君は失格です。」
「試験結果などどうでもいいわ!」
「どうでもよくはございません。」
教師が毅然と答える。
「すべての生徒が、同じ規則のもとで試験を受けています。」
観客席に、再びざわめきが広がった。
「伯爵夫人、取り乱していらっしゃるわ。」
「お気持ちは分かるけれど……。」
抑えた声で交わされる言葉の一つひとつが、リリアには自分を嘲笑っているように聞こえた。
「ちょっと!何とかしなさいよ!!」
胸元の装飾品を握り締める。
「レオルド!!!」
リリアが叫んだ、その時だった。
「―――ヴァレンシュタイン伯爵。」
低い男の声が、観客席の入口から響いた。
ざわめきが止まり、誰もが一斉に振り返る。
黒い服に身を包んだ数人の男が、観客席の通路を真っ直ぐ歩いてきていた。
胸元には、公的な債権回収を担う機関の紋章が掲げられている。
先頭の男はレオルドの前で足を止めると、懐から一通の書面を取り出した。
「度重なる返済期限の延期にも応じていただけませんでしたので、お迎えに参りました。」
会場が大きくざわつく。
レオルドの顔色が変わった。
「待て。ここでは――」
「お話は別室で伺います。」
「これは何かの間違いだ。私は、そのような借入を――」
「すべて、ヴァレンシュタイン伯爵家名義で正式に契約されております。」
男は淡々と答えた。
「返済期限は、すでに過ぎております。」
レオルドの両脇へ、別の男たちが立つ。
有無を言わせぬ態度だった。
「失礼いたします。」
「待てと言っている!」
レオルドの声もむなしく、男たちはそのまま観客席の外へ連れていく。客席は、もはや試験どころではないほど騒然としていた。
「借金ですって?」
「ならばなぜ、伯爵夫人はあのような高価なドレスを?」
リリアの希望通り、再び視線が集まった。けれどその視線は、羨望ではない。
好奇と憐れみ。
王女殿下のドレスも、煌びやかな装飾品も、今や伯爵家の浪費を象徴するものとして見られている。
リリアの顔から、みるみる血の気が引いていった。
耐えられない。
自分を取り囲むすべての視線が、笑っているように見える。
リリアがゆっくりと試験場へ目を向けると、試験場の端にレオンが一人で立っていた。
肩で息をし、全身を土と汗で汚している。
リリアの中で、羞恥と怒りの行き先が一つに定まった。
「レ~オォォォォン~~~……。」
低く名前を呼ぶ。
そして、ゆっくりと立ち上がると、そのまま試験場へ降りていく。
その顔には、母親の笑顔など欠片も残っていなかった。




