29 借り物の魔力
ガラッ―――
そのとき、突然開いた教室のドア。
「シールドっ。」
教室に気の抜けた声が響いた。
男子生徒の目前へ、半透明の防護壁が瞬時に展開される。
防護壁に火球が激突し、はじけた火の粉が周囲へ飛び散ると、近くの机が倒れて生徒たちから悲鳴が上がった。
炎は防護壁によって防がれたものの、弾けた火の粉のひとつが男子生徒の腕を掠める。
「あちっ……!」
男子生徒は腕を押さえ、その場へ膝をついた。制服の袖がわずかに焼け、その下の皮膚が赤く腫れている。
教室の入口には、いつの間にかノアールが立っていた。
いつもの眠たそうな表情は消え、真っ直ぐにレオンを見つめている。
「はい全員、その場から動かないでくださーい。」
声は普段と変わらず穏やかだった。
ノアールは負傷した男子生徒のそばへ膝をつき、火傷の状態を確かめる。
「浅い火傷ですね。すぐ対処すれば跡には残らないかも。」
そう告げて簡単な氷結魔法を施すと、赤く腫れていた皮膚が少しずつ元の色へ戻っていく。
レオンは立ち尽くしたまま、自分の掌を見つめている。
なぜ魔法を放ったのか、自分でも分からなかった。ただ、あの無邪気な問い掛けを聞いた瞬間、胸の奥に押し込めていたものが一気に溢れ出した。
「レオン。」
ノアールの声に、レオンの肩が小さく揺れる。
ノアールは治療を終えると、ゆっくりと立ち上がった。その顔に、昨日レオンを褒めた時の柔らかな笑みはない。
「今の魔法が当たっていたら、軽い怪我では済まないよ。」
「……。」
「分かってんの?」
いつもと違うノアール先生の口調。
レオンはただ教室中から向けられる怯えた視線の中で、ひとり立ち尽くしていた。
・・・
事件はすぐに学園内で問題となった。
授業開始前の教室で、生徒へ向けて攻撃魔法を放った。それだけでも重大な規則違反だが、ノアールの防護魔法が間に合わなければ、命に関わる怪我を負わせていた可能性すらある。
その日のうちに双方の保護者へ連絡が入り、放課後、学園長室の隣にある応接室で面談が開かれることになった。
約束の時間を迎えると、火傷を負った男子生徒は母親に付き添われ、緊張した面持ちでソファに座っていた。向かい側にはレオンが一人で腰掛けている。
しかし、隣の席はいつまで経っても空いたままだった。
壁掛け時計の針が、予定の時刻を十分、二十分と過ぎていく。
「ヴァレンシュタイン伯爵夫人から、何かご連絡は?」
学年主任が事務員へ尋ねると、返ってきたのは小さな首振りだけだった。
「いいえ。先ほども使いを向かわせましたが、ご不在とのことで……。」
正確には、不在ではなかった。
学園から届いた呼出状は、確かにリリアの手元へ渡っていた。だが、彼女は一度目を通しただけで、化粧台の端へ置いたまま忘れてしまっていた。
授業参観で着る王女殿下とお揃いのドレスと、それに合わせて買った装飾品。
今のリリアの頭を占めているのは、そのことばかりだった。
応接室には、重苦しい沈黙が流れている。
被害生徒の母親は、空席を見つめるたびに眉間の皺を深くした。
「こちらは予定を調整して参りました。それなのに、加害者側の保護者がいらっしゃらないというのは、どういうことでしょうか。」
「申し訳ございません。」
学年主任が頭を下げる。
「学園としても、改めて厳重に連絡を――」
「連絡の問題ではありません!」
母親の鋭い声が室内へ響いた。
「うちの子は、何もしていないのですよ。ただ休暇の予定を尋ねただけと聞きました。それなのに、突然魔法を向けられたのです。もし防護魔法が間に合わなければ、どうなっていたと思っているのですか!」
隣に座る男子生徒が、包帯の巻かれた腕を胸元へ引き寄せた。
レオンは俯いたまま、何も言わない。
「本人からも、まだ謝罪の言葉をいただいておりません。」
その言葉に、室内の視線が一斉にレオンへ向けられた。
レオンは膝の上で拳を握り締める。
悪かったとは思っている。
だが、あの場で何を言えばいいのか分からなかった。自分でも理解できないまま魔法を放った理由を、他人へ説明できるはずもない。
ましてや、家族の予定を聞かれたことが悔しかったなど、口が裂けても言いたくなかった。
沈黙が長引く中、部屋の隅に立っていたノアールが静かに前へ出た。
「申し訳ありませんでした。」
いつもの気の抜けた口調ではなかった。
被害生徒とその母親の正面に立ち、深く頭を下げる。
「担任として、生徒の異変に気づくのが遅れました。教室へ入るのがあと僅かでも遅ければ、取り返しのつかないことになっていたと思います。」
「いえ、先生に謝って頂いても……。」
母親はそう言いかけたものの、ノアールは頭を上げなかった。
「いいえ。学園内で起きた以上、私たち教師にも責任があります。」
それから、負傷した男子生徒へ視線を向ける。
「怖い思いをさせてしまいました。本当にごめんなさい。」
男子生徒は戸惑いながらも、小さく頷いた。
ノアールは、火傷の経過を学園の治癒術師が責任をもって診ること、治療費は学園側で一時負担すること、レオンには当面の間、教師の監督なしに魔法を使わせないことを一つずつ説明した。
さらに、保護者が欠席している以上、この場だけで処分を決定せず、改めて正式な協議を行うと約束する。
母親は最後まで納得した様子ではなかったものの、ノアールの謝罪と対応を受け、ひとまずその場で声を荒らげることはなくなった。
面談が終わる頃には、窓の外はすっかり夕暮れに染まっていた。
被害生徒と母親が学年主任に付き添われて退室すると、レオンも黙って席を立つ。
結局、リリアが姿を見せることはなかった。
レオンは無言のまま鞄を掴み、誰とも目を合わせないまま扉へ向かう。
「レオン。」
背後から呼び止められた。
レオンは足を止め、不機嫌そうに振り返る。
応接室には、もうノアールと二人きりだった。
「何ですか。」
ノアールは壁際へ寄り掛かることもなく、真っ直ぐにレオンを見ていた。
「そんな力の使い方ばかりしてると、そのうち痛い目を見るぞ。」
レオンの眉が僅かに動く。
「……恩でも売ったつもりですか?」
「別に。」
ノアールはあっさりと答えた。
「僕が助けなかったら大変なことになってた、とでも言いたいんでしょう。」
「全然違う。」
「じゃあ、何ですか。」
苛立ちを隠そうともせず、レオンは睨み返した。
ノアールはしばらく黙っていた。
だが、やがて覚悟を決めるように、小さく息を吐くと席を立ちレオンに向き合った。
「よく聞けレオン。」
「その魔力は……お前のものじゃない。」
レオンは眉をひそめた。
「……はい?」
「それ、借り物の魔力だから。」
静かな声だった。
けれど、その言葉だけが、妙にはっきりと耳へ残った。
「レオン自身の力じゃない。お前はチートを使って威張ってるだけだ。」
一瞬、空気が止まる。
レオンは呆然とノアールを見つめていた。
やがて、その口元が小さく震える。
「……ふっ。」
次の瞬間、堪えきれないように吹き出した。
「あははっ。意味分かんない。」
肩を揺らしながら笑い、目の前の教師を見上げる。
「僕の魔力が借り物?」
「そうだ。」
「誰から借りてるっていうんですか?」
ノアールは答えなかった。
その沈黙を、レオンは答えられないのだと受け取った。
「負け惜しみはやめてくださいよ。」
入学試験を主席で通過し、高位魔法さえ容易く使える自分の力が、借り物であるはずがない。
ノアールは、自分の魔法を止めた程度で優位に立ったつもりなのだろう。そう考えると、先ほどまで抱いていた僅かな動揺さえ馬鹿らしくなった。
「先生が僕を気に入らないのは分かりました。でも、くだらない嘘をつくのはやめてください。」
そう言い捨てると、レオンは扉を開けて廊下へ出ていった。
遠ざかっていく足音を、ノアールは追おうとしなかった。
ただ、閉ざされた扉を見つめたまま、静かに呟く。
「……嘘じゃないんだけどな。」
・・・・
その日の夜。
久々にアルディス子爵邸へ戻ったノアは、屋敷に入るなりサレマの私室に向かった。
机ではサレマが書類へ目を通している。
いつもなら、軽い調子で姉へ声を掛けるはずだった。しかし、その日はなかなか言葉が出てこなかった。
「どうしたの、ノア。」
サレマが書面から顔を上げる。
ノアは一度視線を落とし、それから姉を真っ直ぐに見た。
「ねーさん、ごめん。」
「何が?失敗でもしたの?」
ノアは少しだけ困ったように笑った。
「レオンに言っちゃった。」
サレマの指が、紙の上で止まる。
「魔力のこと。」
驚きはしなかった。
いつかは知られることだった。
むしろ、レオンが自分の力を疑うことなく育ち続ける方が、不自然なのだと分かっている。
「そう。」
サレマはそれだけ答えると、再び書面へ視線を落とした。
だが、ノアはその場から動かなかった。
「ねーさん。」
「何?」
「もう終わりにしなよ。」
サレマは顔を上げない。
「共鳴を切りなよ。」
室内に、紙をめくる音だけが響いた。
「今切ったら、計画に影響が出るわ。」
「そういう話じゃないでしょ、もう。」
ノアの声から、いつもの軽さが消える。
「今日、レオンは同級生に魔法を撃った。」
サレマの睫毛が、僅かに揺れた。
「家族の休みの予定を聞かれただけで、だよ。たまたま僕が近くにいたから止められた。でも、間に合わなかったら、相手の子は大怪我じゃ済まなかったかもしれない。」
「……聞いているわ。」
「だったら分かるだろ。」
ノアは机へ一歩近づいた。
「今のレオンは、自分の魔力なら何をしても許されると思ってる。誰かを傷つけても、力で押さえつければいいと思ってる。」
サレマは黙っている。
「でも、その魔力を与えてるのはねーさんだ。」
「与えているわけではないわ。共鳴しているだけよ。」
「なにそれ、ねーさんらしくないね。」
ノアは即座に言い返した。
「ねーさんが繋いでいる限り、レオンは自分の力だと思い続ける。」
「今ここで切れば、あの子は――」
「困る?」
ノアの言葉に、サレマが初めて顔を上げた。
「魔法が使えなくなって、傷ついて、苦しむから?」
「当然でしょう。」
「本当に、それだけ?」
静かな問いだった。
それでも、サレマの表情が僅かに強張る。
ノアは姉から目を逸らさなかった。
「それ、レオンのためじゃない。」
サレマの唇が、微かに開く。
「ねーさん自身が、十年間を……レオンを捨てられないだけだ。」
静かな部屋に、その言葉だけが残った。
レオンへ注ぎ続けた魔力。
教えた言葉。
眠れない夜に抱き上げた小さな身体。
初めて歩いた日も、初めて魔法を使えた日も、そのすべてが共鳴の糸で繋がっている。それを完全に切ることは、サレマにとって自分が母親だった十年間そのものを手放すことだった。
「レオンを罰するために切れって言ってるんじゃない。」
ノアは静かに続ける。
「ねーさんが繋ぎ続けるほど、あいつは自分の足で立てなくなる。」
サレマは返事をしなかった。
ただ、ゆっくりと目を閉じる。
そしてなにかを胸の奥へ沈めるように、小さく息を吐いた。
・・・・
それから数日後――。
王都中央魔法学園では、授業参観を兼ねた魔法実力審査の日を迎えていた。




