28 神童の暴走
その日の午後。
レオンの家庭教師をするクレイスは、教材を閉じながら穏やかに微笑んだ。
「一旦休憩にしましょう。」
「はい。」
レオンは素直に頷くものの、どこか上の空だった。その様子に気づいていたクレイスは、椅子から立ち上がりながら首を傾げる。
「今日は集中できませんね。何か気になることでも?」
「あの……。」
レオンは少し考えるように視線を泳がせた。
「学園にいる、魔法の先生なんだけど。」
クレイスの動きが一瞬だけ止まる。
「めずらしいですね。君から先生の話とは。」
「ノアール先生っていうんだけど。」
(ふふ……ノア様ですね。)
もちろん表情には出さない。
「その先生、少し変なんです。」
「変、と申しますと?」
まがりなりにも自分の当主が、小さな子に”変”と言われていることが何処か可笑しかった。
「僕の魔法を簡単に止めたり、なんだか僕を見透かしてるみたいで。」
レオンは腕を組む。
「腹が立つんです。でも……。」
一度言葉を切る。
「なんか、すごく気になるんです。」
クレイスは静かに笑った。
「それは悪いことではありません。」
「え?」
「人は、自分と違う価値観や考え方に出会うと反発します。しかし、その反発は時に自分が成長する入口でもあります。」
レオンは黙って聞いている。
「気になるということは、心のどこかでその方から学べるものがあると感じているのかもしれません。」
「学べるもの……。」
「答えを急ぐ必要はありません。ただ、その違和感を簡単に嫌いだと切り捨てなければ、それだけでも十分に価値があります。」
レオンは少し考え込み、……分かったような、分からないような?という感じで曖昧に笑った。
「それで構いません。」
クレイスも優しく微笑み返した。
その時だった。
屋敷の外から馬車の止まる音が聞こえてきた。
「奥様がお戻りのようですね。」
クレイスは問題を解き始めたレオンを置いて、ひとり玄関へ向かった。
正面玄関では使用人たちが数人並び、馬車を迎えている。
馬車の扉が開くと、ゆっくりと降りてきたリリア。
(……?)
クレイスは僅かに目を細めた。
何かが違う。
歩き方。
顎の上げ方。
視線。
言葉遣い。
どれもが今朝より一段、堂々として見える。
まるで長年その世界で生きてきた貴婦人のような、不思議な威厳が漂っていた。
「お帰りなさいませ。」
「ええ。ご苦労様。」
返事まで、どこか気品を帯びているように感じる。
その後ろでは御者と使用人たちが次々と荷物を降ろしていた。
箱が一つ、二つ……。
合計五つの積み重ねられた箱を見て、クレイスの視線が止まる。
(この箱の紋章は……。)
静かに息を呑む。
「私がお運びいたします。」
クレイスがそう申し出ると、リリアは満足そうに頷いた。
「ええ、お願いするわ。」
・・・・
一方その頃。
地下研究室では魔導モニターに、その玄関の様子が映し出されていた。
いつもと同じリリアの買い物帰りの光景。箱が少し多いことを除けば、ごくありふれた光景だった。
「これは、普通に買い物をしただけでしたか。」
ヴィクターは肩をすくめながら映像へ目を向けた。
『サレマ様……。』
通信越しに聞こえたクレイスの声は、普段よりわずかに低かった。
「ええクレイス、見てるわ。」
サレマも小さく返事を返す。
映像の中、クレイスは箱を抱え上げるとその視線が箱の紋章へ落ちた。そして何事もなかったように歩き出し、衣装室へ運んでいく。
しばらく無言でその様子を見つめるサレマ。
そして階段を上がり切ったあたりで口火を切った。
「どう?クレイス。その箱の持ち心地は。」
サレマの物言いに、ヴィクターは首を傾げた。
「何かあるんですか、あの箱に。」
しかし、クレイスは何も答えない。
サレマが見守る映像の中、リリアは待ちきれない様子で衣装室へ入り、そのまま姿を消した。
クレイスがすべての箱を衣装室に運び込むと、衣装室の扉が静かに閉まる。
そこでようやく、クレイスが口を開いた。
『ふう。私も実際に手にしたのは初めてですが……。』
『……八百はくだらないかと。』
衣装室の扉を背にしたクレイスの静かな声が研究室へ届いた。サレマは映像を見つめたまま、小さく息を吐く。
「そうね。おそらく金貨千枚近く、いっているでしょう。」
「なっ……⁉」
ヴィクターは思わず映像を見返した。
「金貨千枚⁉たった、あの箱だけでですか?」
「ええ。」
ヴィクターは首を振った。
「いや……理解できません。」
映像に映っていたのは、ただ衣装室へ運ばれていった箱だけ。どれほど目を凝らしていても、クレイスに運ばれた箱は、何も語っていなかった。
サレマがヴァレンシュタイン家の財政へ揺さぶりをかけようとしていることは理解できる。
だが、なぜたった一通の手紙が、この結果を生んだのか。
それだけは、ヴィクターには理解できなかった。
「近頃の彼女は、むしろ買い物を我慢しているような気配すら感じましたが……。」
だからこそ、この結果が結びつかない。
「サレマ様は一体何を……?」
衣装室の扉は閉ざされ、画面の中には静かな廊下だけが映っている。サレマはその光景を見つめたまま、小さく口元を緩めた。
「何も。」
「……え?」
ヴィクターは思わず聞き返す。
あまりにもあっさりとした返事だった。
「ただ、示談書の金額に零を一つ付け足して送り返しただけよ。」
「零を……?」
なおも理解が追いつかない。仮にその示談書をリリアが盗み見ただけで、ここまで散財が加速するものなのか。
ヴィクターの視線は再び魔導映像へ戻る。
「どう?リリア。ありもしない金貨で買い物をする気分は。」
実際、リリアは金貨一枚も手に入れてなどいない。でもサレマの一筆により、手に入れたように錯覚させられただけなのだ。
そして。
「分不相応なお金を手に入れた人は、金銭感覚を見誤るんじゃないの。」
サレマはゆっくりと椅子へ背を預けた。
「自分の価値を、見誤るのよ。」
ヴィクターは黙ってその言葉を噛みしめた。
しかし、その意味をまだ完全には理解できずにいた。
・・・・
数日後――。
王都中央魔法学園では、もうすぐはじまる連休の話で持ち切りだった。授業が始まるまでの教室には、いつも以上に浮き立った声が飛び交っている。
「授業参観が終わったら長期連休だね!」
「僕は母上の実家へ行くんだ。大きな牧場があって、馬にも乗せてもらえるんだよ。」
「いいなぁ。私は家族で南の湖へ旅行に行くの。水上ホテルに泊まるんだって!」
誰もが待ち遠しそうに、自分の予定を話していた。
母親が作ってくれるお菓子。
父親と一緒に釣りをする約束。
家族全員で乗る長距離馬車。
そんな何気ない話の一つひとつが、レオンの耳へ無理やり入り込んでくる。
レオンは席に着いたまま、教本を開いていた。けれど、文字はほとんど頭に入ってこない。
『お父様と一緒に……三人で、ピクニックに行きたい。』
勇気を出して伝えた、たった一つの願い。しかし、リリアは王都百貨店の話を始め、レオルドは鉱山と金のことで怒鳴り始めた。
誰も、レオンの言葉を聞いていなかった。
いや。
聞こえてはいたはずなのに―――
「……オン君。」
「レオン君ってば!」
名前を呼ばれたことに気づき、レオンは顔を上げた。近くの席にいた男子生徒が、屈託のない笑顔でこちらを見ている。
「レオン君は、休みにどこへ行くの?」
「……え?」
「家族で旅行とかするんでしょ?伯爵家なら、すごいところへ行きそうだよね。」
周囲にいた生徒たちも興味を引かれたように、レオンへ視線を向ける。
「外国へ行くの?」
「貴族の秘密のビーチとか?」
「レオン君のお母様の実家とか行くのかな?」
悪意などなかった。
ただ、自分たちと同じように、レオンにも家族との予定があると思っているだけだった。
「僕は……。」
父親の予定など知らない。
母親が考えているのは、新しいドレスと宝石のことばかり。
自分から願ったピクニックでさえ、まともに返事をしてもらえなかった。
「……別に。」
レオンは教本へ視線を落とした。
だが、男子生徒はレオンが聞き取れなかったのだと思い、少しだけ顔を近づける。
「まだ決まってないの?」
「……。」
「じゃあ、これから決めるのかな。僕はね、母上の実家で――」
「うるさい。」
小さな口から低い声が漏れた。
男子生徒はきょとんと目を瞬かせる。
「え?」
「うるさいって言ったんだ!」
レオンが勢いよく立ち上がった。
椅子が床を擦り、教室中へ耳障りな音が響く。
先ほどまで騒がしかった生徒たちが、一斉に口を閉ざした。
「家族、家族って……!」
レオンの握り締めた指先から、紫の光が滲み出す。
「そんなに家族の話がしたいなら、勝手にしてればいいだろ!」
「レ、レオン君……?」
「僕にいちいち聞くな!」
次の瞬間、レオンの掌から魔力が弾けた。
「《火球――》」
魔法陣が展開され、火の塊が男子生徒へ向かって放たれる。
放った直後だった。
(……あ。)
レオンの頭から怒りが一気に引いていく。
しまった。
そう思った時には、もう遅かった。
火球は真っ直ぐ男子生徒へ迫っていく。
男子生徒は目の前へ迫る炎を見つめたまま、その場に立ち尽くしていた。




