27 二千枚の示談金
クレイスが廊下の角を曲がるまでリリアは扉口に立ち、名残惜しげな笑みを向けていた。
だが、金色の髪が視界から消えた途端、その笑みは一瞬で消える。
バタン――。
後ろ手に扉を閉め、手元の封筒をすぐさま裏返した。
「サレマ・アルディス……。」
そこに記された名を目にした瞬間、声が低くなる。
ヴァレンシュタイン家を追われ、今は実家で使用人同然の暮らしをしているはずの姉。その姉が、なぜ今さらレオルドへ手紙など寄越すのだろうか。
封筒を持つ指先に、じわりと力がこもった。
『レオルド・ヴァレンシュタイン様』
リリアはもう一度、封筒の表へ目を落とした。宛名を見つめるうち、胸の奥が小さくざわつき始める。
「主人宛のお手紙ってことはぁ。」
ぽつりと呟く。
そして、自分へ言い聞かせるように微笑んだ。
「妻である私が先に内容を確認するのは、当然のことよね?」
もし伯爵家へ不利益をもたらす内容だったら?それを未然に防ぐのも妻の務めではないか。
納得したように頷くと、封筒の縁へそっと爪を差し込んだ。
ぺり……。
ほんの少しだけ剥がれる。
「……。」
もう一度。
ぺり……。
なかなか開かない。
「もうっ!」
苛立ったリリアは、封筒を両手で掴む。
次の瞬間。
ビリリリリッ!!
部屋へ豪快な音が響いた。
「まったく……最後まで癇に障るんだから。」
破れた封筒を放り投げ、中から一枚の書類を取り出す。
その表題を見た瞬間だった。
「離婚……示談書?」
怪訝そうに眉をひそめる。
「何よ、これ。」
追放した姉と今さら何を示談するというのか。
呆れたように鼻を鳴らしながら、視線を下へ走らせる。
そして。
ある一文を見つけた瞬間、指先が止まった。
『婚姻解消に伴い、慰謝料として金貨二〇〇〇枚を支払うこと』
「あはっ……たったの二百——」
思わず目を瞬かせる。
もう一度、その数字を見直した。
二〇〇〇。
見間違いではない。
「に、二千枚ですって?」
喉がひくりと鳴る。
次の瞬間。
「冗談でしょ!?」
部屋中へ甲高い声が響き渡った。
「なんで、あんな追放女に金貨二千枚も払うのよ!?」
示談書を握る手に自然と力が入る。
紙がくしゃりと音を立てた。
「レオルドったら、私には『鉱山が苦しい』『しばらく我慢してくれ』なんて言っておいて!」
壁一面に並ぶドレスへ視線を向ける。
どれも、一度着たものばかり。首飾りを替え、耳飾りを替え、毎朝、少しでも違って見えるよう工夫を重ねてきた。
それもこれも、伯爵家のため―――。
それなのに。
「お姉様には二千枚……?」
信じられなかった。
伯爵家のために尽くいているのは自分だ。主人を支えているのも自分だ。なのに、その追放された女に金が渡る。
「しかも私に内緒で! レオルド……これは裏切りよ!」
怒りで肩が震える。
その時だった。
床へ散らばった破れた封筒が目に入る。
「……そうだわ。」
主人はまだ、この手紙を読んでいない。そもそも、この示談書が届いたことすら知らない。クレイス先生だって、中身までは見ていないはず。
なら――。
この手紙さえ主人の目に触れなければ、二千枚を払う話そのものが存在しなかったことになる。
リリアの瞳がゆっくりと輝き始めた。
「急がなきゃ。」
示談書を胸へ抱き寄せると、勢いよく部屋を飛び出した。
・・・
リリアに手紙を渡したクレイスは廊下の角を曲がってすぐに足を止め、胸元へ指先を添えた。
「サレマ様。」
すぐに穏やかな声が返ってくる。
『おはよう、クロード。』
「おはようございます。」
モニターの向こうでは、サレマがいつものように椅子へ腰掛け、その後ろにはヴィクターが静かに控えていた。
「先ほど、手紙の件の手はずを整えました。」
『ありがとう。』
サレマは満足そうに頷く。
『なら、そろそろね。』
その言葉と同時に、衣裳部屋を映していたモニターの扉が勢いよく開いた。
リリアが慌ただしく部屋を飛び出してくる。辺りを見回しながら廊下を急ぎ、クレイスの姿を見つけると、ぱっと表情を明るくした。
「あっ、クレイス先生!」
駆け寄るなり、抱えていた手紙の束を差し出す。
「急に用事ができてしまったの。やっぱり先生から主人へ渡していただけます?」
クレイスは微笑みながら受け取る。
「承知しました。」
リリアは満足そうに頷くと、そのまま玄関へ向かって駆け出していった。
その背中を見送ってから、クレイスは手紙の束へ目を落とす。一枚ずつ確認していくと、すぐに違和感へ気付いた。
「……サレマ様からのお手紙がありません。」
・・・
地下の研究室。
「早速、喰い付いたわね。」
サレマは少しも驚いた様子を見せなかった。
その落ち着きぶりに、ヴィクターは思わず目を丸くする。
「まさか……レオルド様宛ての手紙を、勝手に抜き取ったというのですか?」
「ええ、そうなるわね。」
サレマは穏やかに頷いた。
「ヴィクター。貴方ですら、レオルドから私に来た中身が気になって仕方なかったでしょう?」
図星だった。
「確かに、お恥ずかしい限りで。」
ヴィクターは気まずそうに視線を逸らし、小さく苦笑する。
「なら、リリアごときが我慢できるわけないわ。」
くすり、とサレマは微笑んだ。
そして彼女は再びモニターへ目を向ける。
リリアはすでに屋敷を飛び出し、玄関前へ停められた馬車へ向かっていた。
その様子を見守りながら、ヴィクターはなおも首を傾げる。
「ですが……それで今から何が起こるのです?」
手紙を隠すだけにしては、リリアの行動はあまりにも性急だった。
「慰謝料を払わせたくないだけなら、この手紙を処分されて終わりでは……。」
サレマの口元がわずかに緩んだ。
「それだけで終わればまだいいけど。」
一呼吸置き、モニターから視線を外さないまま続ける。
「あとはリリアが、自分で続きを考えてくれるわ。」
ヴィクターは顎へ手を当てた。
サレマの言葉の意味を頭の中で何度も組み立て直す。しかし、どこまで考えても二人の思考は繋がらなかった。
「申し訳ありません……私には、まだ見えません。」
その返事を聞くと、サレマは静かに笑った。
「だから、面白いのよ。」
モニターの中で、リリアが使用人に馬車の準備を呼びかけた。サレマはその後ろ姿を眺めながら、小さく目を細めた。
「欲に駆られた人間は、想像よりいつも、一歩先まで勝手に転がっていくものよ。」
・・・・
馬車の手配を待つ間も、リリアは落ち着かなかった。玄関前を行ったり来たりと歩き回り、胸へ抱えた示談書をぎゅっと抱き締める。
その時だった。
「奥様、お待たせいたしま――」
「遅いっ!!」
使用人の言葉を最後まで聞かず、リリアは馬車へ飛び乗る。
「王都百貨店よ!飛ばして!!」
その言葉に、御者が恐る恐る振り返った。
「ですが奥様。旦那様より、百貨店へは行かぬよう申し付かっておりますが……。」
「うるさいですわ!」
リリアは窓を勢いよく開け放つ。
「四の五の言わず、今すぐ出しなさい!」
「し、しかし……。」
「逆らうならクビにするわよ!!」
御者は肩を震わせると、慌てて手綱を鳴らした。
ドドドドド———
馬車が石畳を軽快に駆け抜ける。
窓の外を流れていく街並みを眺めながら、リリアはもう一度、くすりと笑った。
二千枚。
その数字を思い浮かべるだけで、頬が自然と緩む。
それだけあれば新作のドレスと靴が買える。ずっと欲しかった髪飾りだって、もう我慢しなくていい。
リリアは一人、小さく頷く。
伯爵夫人である自分が美しく着飾ることは、伯爵家の威信になる。社交界で笑われないためにも必要な出費だ。
それならお姉様へ渡すより、ずっと有意義なお金の使い方ではないか。
「ふふっ……。」
思えば思うほど、名案だった。
「私って、本当に頭がいいわ!」




