26 差出人サレマ・アルディス
朝。
ヴァレンシュタイン公爵邸では、一人の若いメイドが正門脇の郵便受けに届いた手紙を回収していた。
屋敷へ戻ると慣れた手つきで宛名を確認し、レオルド宛とリリア宛の手紙をそれぞれ丁寧に束ねる。あとはいつも通り、それぞれの部屋へ届けるだけだった。
書斎へ向かって廊下を歩き始めた、その時だった。
「お疲れ様です。それは私が持っていきましょう。」
不意に掛けられた穏やかな声に、メイドは顔を上げる。
「あっ……。」
朝日に照らされた金色の髪。柔らかな笑みを浮かべる端正な顔立ちに、メイドは思わず頬を赤く染める。
「お、おはようございます。」
「おはようございます。ちょうど私も向かうところでしたので。」
そう言って差し出された手に、メイドは迷うことなく二つの手紙の束を預けた。
「ありがとうございます。それでは、お願いいたします。」
小さく頭を下げて立ち去るメイドを見送ると、男は静かに歩き出した。
人気のない廊下へ差しかかると、その視線がレオルド宛の束へ落ちた。数通の手紙を指先でめくり、その中から一通だけを抜き取る。
そして何事もなかったかのように、それをリリア宛の束の一番下へ滑り込ませた。
再び歩き始めた廊下の前方に、レオルドの書斎が見えてくる。しかし彼は、その扉の前で足を止めることなく、そのまま静かに通り過ぎた。
向かった先は、屋敷の奥にあるリリア専用の衣裳部屋だった。
・・
部屋の中では、リリアが鏡の前に何着ものドレスを広げ、あれこれと着せ替えを繰り返している。
水色のドレスを身体に当てては首を傾げ、今度は緑のドレスへ持ち替える。そこへ首飾りを合わせ、耳飾りを替えては鏡の前でくるりと一回転した。
「はぁ……。」
小さくため息をついたリリアは、壁一面に並ぶドレスを見渡しながら肩を落とす。
「伯爵夫人だと言うのに、たったこれだけしかないなんて。」
宝石箱へ視線を移しても、新鮮に感じる組み合わせはもう思い浮かばない。
「私って、質素な生活送ってるわぁ。」
レオルドから聞かされた鉱山の話。
伯爵家を裏で支える鉱山の採掘量が落ち込み、しばらくは出費を抑えたい。そう言われて以来、さすがのリリアも新しいドレスや宝飾品を買うのは我慢するしかない。
だからこそ、今ある物だけで少しでも違う装いに見せようと、朝から頭を悩ませていたのである。
コンコン――。
「どうぞぉ?私、今忙しいんだけどぉ。」
気のない返事とともに、リリアは鏡越しに扉へ視線を向けた。
ゆっくりと扉が開く。
「失礼いたします。」
柔らかな笑みを浮かべた家庭教師クレイスが、丁寧に一礼した。
「あらぁ!クレイス先生!」
ぱっと表情を輝かせたリリアは、嬉しそうに駆け寄る。
抱きつかんばかりの勢いで距離を詰めるが、クレイスは一歩も動じることなく、手にしていた手紙の束を静かに差し出した。
「本日届いたお手紙でございます。」
「あら、手紙だったの。」
期待が外れたように肩を落としながらも、リリアは手紙を受け取る。
興味なさそうに一通ずつ差出人へ目を通していくと、束の一番下に紛れ込んだ一通の手紙に目が止まった。
封筒には――。
レオルド・ヴァレンシュタイン様。
「これ、主人宛だわ。」
「っは、それは失礼いたしました。」
クレイスは穏やかな笑みを崩さぬまま、その封筒へ手を伸ばす。
受け取るその一瞬、封筒の裏が自然とリリアの目へ入るように裏返した。
~差出人 サレマ・アルディス~
「……っ!?」
リリアの動きがぴたりと止まる。
なぜ、今さらサレマからレオルドへ手紙が届くのか。
胸の奥がざわつく。
「では、こちらは旦那様へお届けして参ります。」
何事もなかったかのように一礼すると、クレイスは静かに踵を返す。
「お、お待ちになって、クレイス先生。」
背中へ飛んだ声に、クレイスはゆっくりと振り返った。
「はい。」
リリアは一瞬だけ言葉を選ぶように微笑む。
「そのお手紙は、わたくしから主人へお渡しいたしますわ。」
「しかし、そのようなお手間をお掛けするわけには……。」
「いいのです。」
胸へそっと手を添え、慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
「わたくしも妻として、伯爵家のために少しでもお役に立ちたいのです。」
夫を支える献身的な妻の言葉。
クレイスは感心したように目を細める。
「……ご立派です。」
そう言って、静かにその手紙を差し出した。
リリアは笑顔のまま受け取る。
しかし、その指先はわずかに力が入っていた。
平然を装いながらも、その視線は封筒の差出人サレマ・アルディスという文字へ何度も吸い寄せられていた。




