25 二百枚の示談金
授業を終えたレオンは、公爵邸へ戻ると、そのまま夕食の席へ向かった。
長い食卓には、すでにレオルドとリリアが着席している。磨き上げられた銀食器が柔らかな灯りを反射し、使用人たちが手際よく料理を並べていく。
穏やかな空気の中、静かな夕食が始まった。しばらく食事を進めたところで、レオンは思い出したように鞄から一枚のプリントを取り出した。
「お母様、これ。」
「なあに?」
「学園からご両親へって。」
リリアはプリントを受け取ると、興味なさげに目を通す。だが、その表情は次の瞬間、一気に華やいだ。
「授業参観ですって!?」
弾むような声が食堂へ響く。
「生徒同士で魔法対決するんだって!」
「素敵!またレオンの活躍が見られるのね。」
プリントを胸へ抱き寄せると、早くも頭の中では当日の装いを思い描き始めていた。嬉しそうに話を続けるリリアを見て、レオンは小さく微笑んだ。
その時だった。
コンコン、と食堂の扉が叩かれる。
「旦那様。」
執事が一礼しながら静かに声を掛けた。
「至急、ご確認いただきたい報告書がございます。」
レオルドは手を止め、ナイフとフォークを静かに皿の上へ置く。
「すぐ戻る。」
短く言い残すと席を立ち、そのまま食堂を後にした。扉が閉まると、リリアは待っていましたと言わんばかりに話を再開する。
「そうそう!レオンがどうしてもって言うからぁ、白いドレス買わないとね。」
頬へ手を添えながら、うっとりと目を細める。その横顔を見つめながら、レオンは少しだけ言いづらそうに口を開いた。
「……お母様。」
「なあに?」
「お父様と一緒に……三人で、ピクニックに行きたい。」
リリアの手が一瞬だけ止まる。
「ピクニックぅぅ?」
「うん。」
その言葉に、リリアはどこか訝し気に眉をしかめた。
しかし、それも束の間。
「レオン、そんなことより王都百貨店へ行きましょう!きっと素敵な新作が入っているわ!でも宝石との組み合わせも考えないと……。」
軽く笑ってそう答えると、再びプリントへ視線を戻してしまう。
レオンはそれ以上何も言わなかった。
手元のスープからは温かな湯気が立ち上っている。けれど、その温かさはもう感じられなかった。
・・・
その頃、執務室ではレオルドが届けられた報告書へ目を通していた。
公爵家が代々、当主だけに秘密裏に受け継いできた隠し鉱山。
莫大な利益を生み続け、公爵家の財政を陰で支えてきた鉱脈。その採掘量が想定を大きく下回り、このままでは採掘費用を回収できない事態になりかねない。
普通に生活していればなんの問題もない。しかし、これ以上無駄な浪費を許す余裕はない。
レオルドは報告書を静かに閉じると、深く息を吐いた。
「……よりにもよって、今か。」
重い足取りのまま食堂へ戻る。
扉を開けた瞬間、耳へ飛び込んできたのは、楽しげなリリアの声だった。
「そうだわ!オーダーメイドがそろそろ出来上がる―――。」
「リリア!いい加減にしないか!!」
レオルドの怒号が食堂中へ轟いた。
「な、何よ急に!」
使用人たちが思わず動きを止めると、レオンも肩を震わせ驚いたように振り返った。
「鉱山の収入が激減している!もうドレスなど買っている場合ではない!」
「……なんですって!」
初めて聞かされた事実に、リリアの顔色が変わる。
「どうするのよ!?なんでそんなに減ってるのよ!」
「仕方ないだろう!代々伝えられてきたものだ!いつかは枯れる運命だ!」
レオルドは苛立ちを隠そうともせず言い放つ。
だが、リリアも引き下がらない。
「もっと他に、無限の財源はないんですの!?」
「そんなものあるなら、とっくに手を打っている!」
「じゃあ授業参観はどうするのよ!?」
「服などいくらでもあるだろう!」
「公爵夫人が一度着た格好で出席しろとおっしゃるの!?」
「だから、見栄を張る余裕などないと言っている!」
「これは見栄じゃありません!公爵家の品格よ!」
互いに一歩も譲らず、食堂には怒鳴り声だけが響き続ける。誰一人として料理へ手を付けようとはしない。
レオンは黙ったまま、そのやり取りを見つめていた。
三人で出掛けたい。
ただ、それだけだった。
そのささやかな願いは、誰にも届くことはなかった。
・・・・
一方、アルディス辺境伯家では――。
「サレマ様。」
執務室で書類へ目を通していたサレマのもとへ、ヴィクターが一通の封書を持って現れた。
「ヴァレンシュタイン公爵家より、お手紙です。」
「ありがとう。」
サレマは封書を受け取ると、封蝋を切り、中の書面を静かに読み始める。
その表情は読み進めてもほとんど変わらない。淡々と最後まで目を通すと、静かに紙を畳んで机へ置いた。
その様子を、ヴィクターは落ち着かない様子でちらちらと窺っている。本人は平静を装っているつもりなのだろうが、視線だけは何度も手紙へ吸い寄せられていた。
そんな姿に気付いたサレマは、小さく口元を緩める。
「……見たいの?」
「や、やや!滅相もございません!」
勢いよく否定する。しかし、その目だけは相変わらず封書から離れない。
サレマは小さく笑うと、そのまま手紙を差し出した。
「いいわよ。」
「よろしいのですか!?」
返事を待つより早く、ヴィクターの手が伸びる。
受け取った書面へ勢いよく目を走らせると、その眉間にはみるみる深い皺が刻まれていった。
そこに書かれていたのは、あまりにも事務的な文面だった。婚姻解消に伴い、慰謝料として金貨二百枚を支払うこと。
本契約締結をもって互いに一切の請求権を放棄し、本件を完全に解決したものとすること。
十年間という歳月を、まるで帳簿でも閉じるかのような文章だった。
「……なんですか、これは。」
ヴィクターの声が低くなる。
手紙を握る指へ自然と力が入り、紙が小さく音を立てた。
「サレマ様の十年間を……たった金貨二百枚で清算するつもりですか!」
怒りを隠そうともしない。
だが、その怒声にもサレマは静かなままだった。
何も言わず席を立つと、そのまま私室へ姿を消す。
ヴィクターは納得のいかない表情のまま、その背中を見送るしかなかった。
・・
数分後。
サレマは封をした書簡を一通手に戻ってきた。
「これをお願い。」
ヴィクターは反射的に受け取った。
「突き返すのですね。当然です。」
「いいえ。」
サレマは穏やかに首を横へ振った。
「承諾したわ。」
「……え?」
ヴィクターは目を丸くした。
思わず手元の封筒とサレマの顔を何度も見比べてしまう。
「いくら十年間騙されていたとはいえ……これがレオルドなりの、けじめなのでしょう。」
そう言って目元へ指を添える。
その横顔はどこか寂しげで、過去を断ち切ろうとしている儚い女性に見えた。
「サレマ様。おいたわし―――。」
やがて、何事もなかったようにサレマは棚から一本のラズベリーワインを取り出すと、鼻歌交じりにグラスを抱え込んだ。
「や、あの……サレマ様?」
そして、軽い足取りで地下研究室へと向かう。
残されたヴィクターは、封書を見つめたまま動けない。
(なんか……何でしょう。)
胸の奥に、小さな違和感が残る。
いや、考えすぎだろう。サレマ様は、お金になど執着していない。十年間続いた悪縁を、一日でも早く終わらせたいだけなのだ。
そう自分へ言い聞かせると、ヴィクターも静かにその背中を追った。
地下室へ足を踏み入れると、巨大な魔導通信盤が淡い青白い光を放っている。サレマが魔力を流し込むと、盤面にゆっくりと景色が映し出された。
すると、現れたのは王都の街並み。
潜伏先の高層ホテルの一室から街並みを見下ろす、クロードの姿だった。
「クロード。」
呼び掛けに応じ、クレイスは静かに一礼する。
「はい。」
「レオルドから慰謝料の示談通知が来たわ。」
「はい。」
その返事に迷いはない。
「承諾して、ヴァレンシュタイン家に送り返したから。」
ほんの短い沈黙が流れる。
そして静かに視線を上げた。
「……分かるわね?」
その一言だけで十分だった。
クレイスの表情は微動だにしない。
しかし、その瞳には確かな理解が宿る。
「承知しております。」
一礼すると、淡々と答えた。
「早急に回収し、間違いなく処理させていただきます。」
通信は静かに途切れ、研究室には再び静寂だけが戻った。
そのやり取りの意味を知る者は、まだ誰もいなかった。




