23 苦い珈琲、甘い信頼
夕刻――。
王城での公務を終えたレオルドを乗せた馬車は、ヴァレンシュタイン伯爵邸の門をゆっくりとくぐった。
いつもなら玄関でリリアが迎えてくれる。しかし今日に限って、その姿が見当たらない。
「……出掛けているのか。」
玄関を開けたレオルドは、首を傾げながら屋敷へ入った。
階段を昇り向かった先のレオンの部屋。
ちょうどこの時間は、家庭教師がレオンの勉強を見ている時間だ。
咳払いをひとつすると、軽くノックしてそっとドアを開ける。
「失礼する。」
扉を開けると、家庭教師のクレイスが静かに一礼した。
「旦那様、お帰りなさいませ。」
「お、おぉ…いたのか。」
そう言いながら、レオルドは部屋を見回した。
机ではレオンが課題へ取り組んでいる。
「リリアが不在のようだが……。」
「本日は昼食を召し上がられた後、お一人でお出掛けになられました。」
「まだ戻らぬ、という事か……。」
夫人の寄り合いなどに出向き、昨日買ったドレスでも自慢しに行ったのだろうか。
そんなことを考えていると、不意に窓の外を見たレオンが声を上げた。
「あっ!」
勢いよく窓へ駆け寄る。
「お母様の馬車だ!」
レオルドも窓の外へ目を向けると、かつてサレマが使っていたリリアの馬車が屋敷へ向かってきていた。
だが、その後ろには。
「……なんだ、あれは。」
思わず眉をひそめた。
一台。
二台。
三台。
荷物を満載した馬車が、まるで行列のように後ろへ続いている。
レオルドは嫌な予感を覚えながら部屋を出ると、クレイスとレオンもその後へ続く。
三人が玄関ホールへ着く頃には、ちょうどリリアが満面の笑みで屋敷へ入ってくるところだった。
「ただいまー!」
その後ろでは商人たちが次々と大きな木箱を運び込んでいる。
「それは応接室へ、ドレスはお二階よ!」
「残りはそこに置いておいてちょうだい。」
箱、箱、箱。
玄関はあっという間に荷物で埋め尽くされていく。
「おい……リリア。」
レオルドの額に、うっすらと青筋が浮かぶ。
「なぁに?」
「これは一体、何なんだ。」
低い声が玄関へ響く。
「昨日も買い物をしたばかりだろう!」
リリアはきょとんと首を傾げた。
「昨日は昨日、今日は今日よ?」
悪びれる様子はない。
商人たちはさらに豪華なドレスを運び込み、宝飾品の箱、高級家具、絵画まで次々と並べ始める。
まるで屋敷の調度品を丸ごと入れ替える勢いだった。
そして。
「私のレオン~!」
リリアはレオルドを無視し、明るく笑いながらレオンへ駆け寄ると、小さな箱を開けた。
「あなたにも、お土産があるわよ。」
そう言って取り出した小洒落た帽子を、ぽん、とレオンの頭へ乗せる。
「あら素敵!」
「え……あ、ありがとう、お母様。」
突然のことにレオンは戸惑いながら帽子へ手を添えた。
その様子を見ていたクレイスは静かに目を細める。
(……サレマ様。)
理由は分からない。
だが昨日までとは明らかに様子が違う。
(何か、仕掛けましたね。)
この異常な散財は偶然ではないと、クレイスは確信した。
そして。
「リリアァァァ!!!」
ついにレオルドの怒声が屋敷中へ響いた。
「いい加減にしろ!」
その一言に、リリアの笑顔がぴたりと止まる。
「……は?」
空気が一変した。
リリアはゆっくりとレオルドを見上げた。先ほどまでの上機嫌は消え失せ、その声は冷え切っていた。
「レオルド。あなたこそ、ふざけないでくれる?」
「……な、何?」
眉をひそめるレオルドに、リリアは鼻で笑った。
「まだ、すっとぼける気?」
そして、一歩だけ近付く。
「私、知ってるのよ……鉱山のこと。」
「――なっ!?」
その一言で、レオルドの顔色が変わった。
レオルドは一気にリリアとの距離を詰めた。
「……誰から聞いた。」
低く押し殺した声だった。
だが、その眼差しだけは隠し切れない焦りを帯びている。
リリアは一瞬たじろいだものの、すぐに胸を張った。
「誰だっていいでしょ!」
鋭く言い返す。
「問題は、私だけ知らなかったってことよ!」
「……。」
「夫婦なんでしょう!?なのに、そんな大事なことを私に隠してたの!?」
レオルドは深く息を吐いた。
「……あれは、この家の命綱だ。」
静かに、しかし重く言葉を紡ぐ。
「表向きの事業が順調な間は、おいそれと手を付けるものではない。」
「だから何よ!」
リリアは一歩も引かない。
「結局、私には教えるつもりなんてなかったんでしょ!?」
張り詰めた空気が玄関を支配した。
その様子を見ていたクレイスは、静かにレオンの肩へ手を添える。
「レオン様。」
「……ん?」
「お部屋でお勉強の続きと参りましょう。」
レオンは言葉少なに頷き、クレイスとともに階段を上り始めた。
すると、背後からリリアの怒声が響いた。
「あなた!!独り占めする気だったのね!?」
リリアの金切り声が屋敷中へ響き渡った。
・・・
レオルドの書斎。
テーブルの上には、今日運び込まれた商品の請求書が山のように積み重なっていた。
レオルドは額へ手を当て、深く項垂れる。
「はぁ……。」
その時だった。
———コンコン。
控えめなノックが響く。
(また請求書か。)
レオルドは苛立ちを隠さぬまま、勢いよく扉を開いた。
「さっきので最後だと言っただろう!?」
しかし、そこに立っていたのはリリアではなく、銀の盆へ二つのコーヒーを載せたクレイスだった。
「失礼いたします。」
「あ……。」
レオルドはすぐに表情を緩める。
「すまん。君だったか。」
「お邪魔でなければ、と。」
レオルドはドアを開き、そっと道を開ける。
クレイスは静かに机へコーヒーを置いた。
「恥ずかしいところを見せてしまったな。」
レオルドが苦笑すると、クレイスは穏やかに首を横へ振る。
「いえ。」
「私は、レオルド様のお恥ずかしい姿など一切見ておりません。」
その言葉に、レオルドは少しだけ肩の力を抜いた。
「そう……言ってもらえると、助かる。」
二人は向かい合って腰を下ろし、湯気の立つコーヒーへ口を付ける。
「……美味い。」
思わず漏れた一言だった。
「よく私の好きな豆が分かったな。」
「いえ。これは私の好みで選んだ豆でございます。」
レオルドは感心したようにもう一口飲む。
……。
しばらく静かな時間が流れた。
コーヒーを半分ほど飲んだところで、おもむろにレオルドが口を開いた。
「……さっきのリリアの言っていた、鉱山の件だが。」
「はい。」
「あれは他言無用にしてくれ。」
クレイスは穏やかに頷いた。
「承知しております。」
「もっとも、公爵家ほどのお立場であれば、表に出せぬ財源の一つや二つ、お持ちでも何ら不思議ではございません。」
その言葉に、レオルドは安堵したように息を吐いた。
「そう思うか。」
「はい。代々受け継がれてきた家とは、そのようなものでございます。」
レオルドは静かに頷き、再びコーヒーへ口を付けた。
そして視線は、山積みになった請求書へ移る。
「……とは言え。」
深いため息とともに、請求書の束を乱暴に机へ放り投げた。
バサッ――。
「今度はこちらだ。」
「まったく、好き放題やってくれたものだ。」
クレイスは静かに請求書へ目を向ける。
「失礼してもよろしいでしょうか。」
「ああ、構わん。」
クレイスは請求書を手に取ると、迷うことなく一枚一枚目を通していく。
衣類。
宝飾品。
家具。
あっという間に種類ごとへ分け終えると、最後の一枚を机へ戻した。
「……ざっと金貨三百二十枚ほどでございます。」
「そんなにか!?」
レオルドは力が抜けたように、額へ手を当てた。
・・・
そんなレオルドの書斎の様子は、当然アルディス家の地下研究所にも映し出されていた。
今日はサレマの後ろに、ヴィクターの姿もあった。リリアに追い出されて以来、久々に目にするその光景を、ヴィクターは食い入るように見つめている。
「さあクレイス先生。今が攻め時よ」
・・・
サレマの囁きに、クレイスは静かに頷く。
「鉱山の件につきましては分かりかねますが……。」
顔を上げたレオルドの目を見ると、クレイスは静かに続けた。
「表向きの財政の見直しなどであれば、多少はお力添えできるかと存じます。」
「……必要とあらば、いつでもお申し付けください。」
レオルドは思わずクレイスを見つめた。
家庭教師だけではない。
帳簿も読め、経営にも明るい。
しかも、家の秘匿へ踏み込むことなく、助けられる範囲だけを申し出てくる。
そして、なにより。
家長への尊敬と節度を忘れない。
なんと居心地のいい男なのだろう。
そんな思いが自然と胸へ湧き上がる。
「家を背負う、というのは難しいものだな。」
思わず本音が零れた。
「公爵という立場になれば、なおさらでございましょう。」
「妻には理解されず、息子には弱い姿を見せられん。」
クレイスは、安易な励ましの言葉は口にせず、ただ静かに受け止めた。
「守る者が多い方ほど、ご自身の弱さを見せる場所が少なくなるのは当然です。」
レオルドはつい、目を伏せた。
ヴィクターが去って以来、このような話をできる相手はいなかったからだ。
「お前の淹れたコーヒーは、格別に美味いな。」
何も言わず、小さくお辞儀をするクレイス。
そんなクレイスを見つめながら、最後の一滴をゆっくりと飲み干した。
「……また、一緒に飲んでくれるか?」
「ええ、喜んで。」
・・・
地下研究所の通信モニターを見つめながら、ヴィクターは感嘆の息を漏らした。
「家庭教師だけでなく帳簿まで扱われるとは……クロード様は実に頼もしいお方でございます。」
サレマは小さく微笑んだ。
「ええ。でも、一番効いたのはあなたの情報よ。」
「私の……ですか?」
「レオルドが好きなコーヒーの豆。」
キョトンとするヴィクター。
「あれも立派な武器よ。」
ヴィクターはいまいち理解できないまま、照れ臭そうに頭を下げる。
「長年お仕えしておりましたので……しかし、その程度のことしか……。」
「その程度が、一番大事なの。」
サレマは静かにモニターを見つめる。
「人は、自分を理解し、自分と価値観を共有できる相手を無意識に信頼するの。」
ヴィクターは納得したように頷いたが、ふと首を傾げた。
「ですが……。」
サレマは少しだけヴィクターに顔を向ける。
「このままリリア様へ好き放題お金を使わせておけば、ヴァレンシュタイン家はいずれ立ち行かなくなるのではございませんか?」
「一家ともども、十分窮地へ追い込めるかと。」
サレマは前を向き直ると、静かに目を閉じた。
「……いいのよ、お金のことなんて。」
確かにその隠し鉱山とやらに、どれほどの富が眠っているのか誰にも分からない。
家。
ドレス。
公爵夫人の座。
そんなものはどうでも良い。
欲しいのは、そんな結末じゃない。
「私は十年、この人の言葉を信じてきたわ。」
「夫だから。」
「妹の忘れ形見だから。」
「……この手で育てた子だから。」
ならーー。
「信じていた相手に裏切られる痛み。」
「その痛みを、この人達にも味わっていただくのよ。」
サレマはチェス盤にそっと手を伸ばす。
気がつけば、通信モニターには書斎を出たクレイスの視点が映っていた。
そして現れたのは白のクイーン、リリア。
『クレイス先生!どうかしら、このドレス!』
細い指が、静かに黒のナイトを進めた。




