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21 ラズベリーワインと秘密の部屋

 ヴァレンシュタイン公爵邸は、朝から浮き立つような空気に包まれていた。


 昨日、王族の視察を受けて披露されたレオンの魔法は、居合わせた者たちを大いに驚かせた。神童の名に偽りなし――その評判は瞬く間に学園中へ広まり、屋敷へ戻ってからも、使用人たちの話題はレオンの活躍でもちきりだった。


「よくやったな、レオン。」


 レオルドは珍しく満足げに口元を緩め、誇らしそうに息子の肩へ手を置いた。


「はい、お父様。」


 父親から真っ直ぐに褒められたことが何より嬉しかったのだろう。レオンは少し照れたようにはにかみながらも、隠し切れない喜びを滲ませている。


「さすが私の子よ!」


 隣にいたリリアも負けじと声を弾ませ、上機嫌にレオンの頭を撫でた。


 王族や重臣たちの前で称賛を浴びたのはレオンだが、その母親として羨望の眼差しを向けられた自分もまた、昨日の主役だったと信じて疑っていない。


 その時、玄関の方が急に騒がしくなった。


「失礼いたします。」


 使用人の声とともに扉が開き、屋敷の前へ止まった数台の荷馬車から、大きな木箱や衣装箱が次々と運び込まれてくる。


「若奥様よりご注文いただきましたドレスと宝飾品をお持ちいたしました。」


 見る間に広間の一角が色鮮やかな箱で埋まり、その数を目にしたレオルドの表情から、先ほどまでの満足げな笑みが消えた。


「……リリア。」


「なぁに?」


「これは、何だ。」


 低く抑えた声で尋ねる夫に、リリアは何を聞かれているのか分からないとでも言いたげに目を瞬かせた。


「何って、お買い物よぉ?」


 悪びれる様子は微塵もない。


「少し、買い過ぎではないか。」


「買い過ぎですって?」


 リリアは大げさに目を丸くすると、不満そうに頬を膨らませた。


「じゃあ私に、あれを着ろっていうの!?」


 細い指が示した先には、処分を待つように部屋の隅へまとめられたサレマの衣装が並んでいた。


 白を基調とした落ち着いたドレスには、派手さこそないものの、細部まで丁寧な刺繍が施されている。流行へ安易に迎合せず、公爵夫人としての品格を何より重んじた仕立てだった。


 リリアはそれらを眺めるなり、露骨に顔をしかめた。


「私に、あの地味なお古を着ろと?」


 レオルドは言葉を失った。


 サレマは公爵夫人でありながら、衣装や宝飾品を際限なく欲しがることはなかった。自分に必要な物だけを選び、同じドレスを何年も大切に着続けていた。


 その慎ましさに慣れ切っていたからこそ、リリアの買い方は目に余った。しかし、だからといって前妻の残した衣装を着ろとは、さすがのレオルドにも言えない。


「じゃ、そういうことで。」


 言い返せない夫を見て取ると、リリアは勝ち誇ったように笑った。


「その古い服、全部処分しておいて。」


 命じられた商人たちはすぐに動き始め、サレマのドレスを一着、また一着と屋敷の外へ運び出していく。


 レオンは少し離れた場所から、その様子を黙って見つめていた。


 やがて、一着の白いドレスが目の前を通り過ぎようとする。


 サレマが好んで袖を通し、その裾へ自分が何度もまとわりついたこともある。幼い頃から何度も見てきたものだった。


「おかあさ……。」


 気付いた時には、小さな手がその裾をぎゅっと握り締めていた。


「レオン?」


 リリアは一瞬だけ怪訝そうに眉を寄せたが、すぐにその手を強引に引き剥がした。


「……あ。」


「邪魔しちゃ駄目でしょ。」


 レオンは白いドレスが屋敷の外へ消えていくその姿を、いつまでも黙って見つめていた。


 ・・・・・


 その頃、アルディス家の屋敷には、昼時の穏やかな時間が流れていた。


 銀の盆に冷やしたラズベリーワインとオリーブを載せた若いメイドが、サレマの私室へ向かおうと廊下を歩き始める。その姿に気付いたヴィクターは静かに近付き、足を止めさせた。


「それは私が運ぼう。」


 メイドが一礼してその役目を譲ると、ヴィクターはワインを載せた盆を手に、サレマの私室へ向かった。


 ちょうど扉が開き、中からサレマが姿を現す。


「奥さ――。」


 声を掛けかけたものの、サレマはヴィクターの存在に気付かず、何もないはずの廊下の奥へ歩いていった。


 不思議に思いながら後ろ姿を目で追っていたヴィクターは、やがて思わず息を呑む。


 サレマが足を止めたのは、廊下の突き当たりに置かれた大きな姿見の前だった。鏡面へそっと手をかざすと、何の変哲もなかった鏡が水面のように波紋を広げ、人ひとり通れるほどの暗い穴が静かに開く。


 サレマは何事もないようにその中へ入り、白銀の髪が闇へ消えると同時に、鏡は再び元の姿へ戻った。


「……!?」


 ヴィクターは盆を手にしたまま、その場へ立ち尽くした。


 今見たものは、明らかにアルディス家の秘密だ。使用人として仕える以上、見なかったことにするべきなのだろう。


(いや、いかん。)


 主の私事へ必要以上に首を突っ込むなど、執事としてあるまじき行為だ。そう自分へ言い聞かせながらも、視線はどうしても鏡から離れない。


(しかし、あの先には一体……。)


 同じ屋敷に住み、これからサレマへ仕えていく身として、何も知らないままでよいのか。いや、だからといって秘密を覗こうとするなど――。


「むぅ……。」


 鏡の前で腕を組み、一人で考え込む。


「いや、しかし……。」


 首を横に振って踏みとどまろうとした直後には、また鏡へ顔を近付けてしまう。


「いやいや……。」


 そんな葛藤を何度か繰り返していると、目の前の鏡面が再びゆらりと揺れた。


「……見えてるわよ、ヴィクター。」


 鏡の中から現れたサレマは、呆れたような顔で彼を見上げていた。


「こ、これは奥様!」


 ヴィクターは飛び上がるように背筋を伸ばし、深々と頭を下げる。


「決して覗くつもりでは!ただ、興味がなかったわけではございませんが、それは職務上の懸念と申しますか……!」


「……いいのよ。」


 必死に弁明するヴィクターを見て、サレマは小さく笑った。


「同じ家に住んでいて、いつまでも隠し通せるものでもないわ。」


 開いたままの鏡の向こうへ身体を向けると、地下へ続く階段を示す。


「ついてきて。」


「……はい。」


 サレマに導かれて石段を下りたヴィクターは、その先に広がる光景を目にした瞬間、声を失った。


 広大な地下空間の壁には無数の魔導装置が並び、床や柱には幾重にも重なる精密な魔法陣が刻まれている。正面には青白い光を放つ通信モニターが設置され、複数の魔石が絶えず微かな光を明滅させていた。


 ここは代々アルディス家の当主だけに存在を伝えられてきた魔導研究所であり、領地を支える魔術と情報が集約された、まさしく屋敷の心臓部だった。


「まさか……このような場所が。」


 ヴィクターが圧倒される横で、サレマはすでにいつもの椅子へ腰を下ろしていた。盆の上からグラスを手に取り、当然のようにヴィクターへ差し出す。


「ついでちょうだい?」


「は、はい!」


 慌ててラズベリーワインを注ぐヴィクターをよそに、サレマは手近な魔石へそっと魔力を流した。


 正面の通信モニターに淡い光が走り、やがてヴァレンシュタイン公爵邸のリビングが映し出される。画面は映像を送っている人物の動きに合わせてわずかに揺れ、向こう側から抑えた声が聞こえてきた。


『サレマ様。』


 家庭教師クレイスとして公爵邸へ入り込んでいる、クロードの声だった。


『共鳴は……お切りにならなかったのですね。』


「ええ。」


 サレマは表情を変えることなく、静かにグラスを傾けた。


「まだ、チャンスはあるわ。」


『承知いたしました。ですが本日は、まともな授業にはなりそうもありません。これにて失礼いたします。』


 通信が途切れ、モニターから光が消える。


 再び静けさを取り戻した研究所で、ヴィクターだけが呆然と立ち尽くしていた。


「奥様……今のは、一体……。」


 ここまで見せた以上、もう隠す必要もない。


 サレマはレオンに施した魔力共鳴のことから、ノアとクロードをそれぞれ学園と公爵邸へ送り込んでいること、そして自分を陥れた者たちへ少しずつ報いを受けさせようとしていることまで、順を追ってヴィクターへ語った。


 話を聞き終える頃には、ヴィクターは目頭を押さえ、声を震わせていた。


「ううっ……そうとも知らずに私は……。」


 深々と頭を下げるその姿に、サレマは困ったような笑みを浮かべる。


「感服いたしました、奥様。」


「でも私は、あなたが長年仕えてきた元主も、かつて自分で育てた子どもすら貶めようとしているのよ?」


 問い掛けられたヴィクターは、迷う様子もなく顔を上げた。


「それは当然の報いにございます。」


 レオルドたちの仕打ちを目の当たりにしながら、それでも彼らへ忠義を尽くせるほど、ヴィクターは盲目的な人間ではなかった。


「しかし!」


 決意を固めたように一歩前へ出る。


「そうと分かった以上、このヴィクターもぜひ、お力添えさせていただきます。」


「でも、ヴァレンシュタインにはクロードがいるし、学園にはノアもいるわ。」


 サレマが肩をすくめると、ヴィクターは静かに目を細めた。


 人手として役に立つだけが、協力ではない。


 執事長として長年ヴァレンシュタイン家を支えてきたからこそ、知り得る内情がある。表向きの名声や資産の裏側で、何が公爵家を支えてきたのか。


 今こそ、その秘密をサレマへ差し出す時だった。


「ならば、ヴァレンシュタイン家の裏の財源を突きましょう。」


「裏、ですって……?」


 予想していなかった言葉に、サレマはグラスを持ったまま首を傾げる。


「レオルド様には、先代より当主だけに受け継がれてきた隠し鉱山がございます。」


 ヴィクターは記憶を確かめるように、慎重に言葉を続けた。


「リリア嬢があれほど散財をなさっても、ヴァレンシュタイン家の財政がすぐには揺るがない。その裏には、鉱山から得られる秘匿された収益があるのです。」


 サレマはしばらくグラスの中で揺れる赤色の液体を眺めながら、その情報を頭の中で転がした。


「……なら、脱税で密告でもする?」


「いえ、それは難しいかと。」


 ヴィクターはすぐに首を横へ振った。


「私も鉱山の正確な場所までは把握しておりません。証拠を提示できなければ、レオルド様にとぼけられて終わりでしょう。」


 研究所に短い沈黙が落ちる。


 直接奪うことも、告発することもできない秘密。普通ならば使い道のない情報だが、サレマはやがて何かへ思い至ったように、静かに口元を緩めた。


「……その話、リリアは知っているの?」


「いえ。」


 ヴィクターは迷わず答えた。


「レオルド様が、リリア嬢へそのような秘密を明かす利点はございません。」


 その瞬間、サレマの瞳に冷たい光が宿った。


「じゃあ、その話をリリアに教えてあげましょう。」


 予想外の言葉に、ヴィクターは目を丸くする。


「しかし、どうやって……?」


 サレマは答えず、グラスの中でラズベリーワインをゆっくりと揺らした。


「いいから、見てなさい。」

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