2 命を削る魔法
リリアの忘れ形見を迎えてから数日。
伯爵邸の毎日は、新しい家族中心の生活になっていた。
「この子は、今日からヴァレンシュタイン伯爵家の跡継ぎだ。」
そう言って、頬を緩ませながら赤ん坊を高い高いする夫。
ヴァレンシュタイン伯爵家当主、レオルド・ヴァレンシュタイン。
名門ヴァレンシュタイン家。
伯爵家ながら、王家を支える大魔導師を輩出したこともあり、その血筋は『希代の魔導一族』として王国に知るものも少なくない。
「それで、この子にふさわしい名ですが……。」
サレマは、そんな夫に慎重に言葉を紡いだ。
「サレマ。実は名はすでに決まっているのだ。」
レオルドは目を伏せながら、そう言い放った。
その家の名を継ぐ以上、個の名もまた軽々しく決めることは許されない。
生涯を共にする祝福であり、時に呪いにもなり得るもの。
だからこそ貴族は、幾日もかけて名を選ぶ。間違った名を与えれば、その子の運命さえ狂うと信じられていたからだ。
「……ですが。」
サレマはレオルドからそっと赤ん坊を受け取ると、物憂げに赤子を抱き寄せる。
「リリアはこの子に名前を残していたのだ。」
サレマから視線を逸らすレオルド。
「リリ……君の妹は、最期までその名を呼んでいたそうだ。」
気がつけば、サレマは優しく微笑んでいた。
「ならば、変える必要はありません。」
『レオン――。』
レオン・ヴァレンシュタイン。
「これは、リリアが命を懸けて紡いだ、最初で最後の贈り物です。」
こうして。
レオンは正式にその名を授かり、ヴァレンシュタイン伯爵家の跡継ぎとして迎え入れられた。
・・・・・
そして一年後。
レオンは、貴族の子にとって人生最初の儀式、魔力洗礼の日を迎えた。
サレマは執事長と数人の使用人を従え、王国最大の聖堂へと訪れる。
小さなレオンを抱きながら祭壇に上がると、大神官の前にそっと差し出した。
「ふむ、良い子じゃ。」
厳かな空気の中、王家直属の神官が幼子の胸へ手をかざす。
———ポゥ……。
淡く小さな緑色の光がレオンの身体を包み込んだ。
サレマは祈るような目で、執事長と共にそれを見守った。
(お願い……。)
しかし。
その淡い光は、とぎれとぎれに瞬くと、そのまま静かに消えていった。
(……え?)
執事長と目を合わせるサレマ。
「弱い……。」
考え込む神官。
やがて、神殿にざわめきが走る。
「……魔力が、少なすぎないか?」
「ヴァレンシュタイン家の子とは思えぬ。」
周囲の囁きは、次第に疑惑へ変わっていく。
そう。
この子は妹リリアの忘れ形見。
父親が誰かも分からないという。
ヴァレンシュタイン家の血を引いているわけではない。
——のであれば、仕方のないこと。
その事情を知らない神官たちに、この結果は理解できるはずもなかった。
「奥様、残念ですが……。」
神官は静かに首を横へ振る。
しかしサレマは何も言わなかった。
ただ静かに、その小さな背中を抱き寄せ、聖堂を後にした。
(大丈夫よ、レオン……。)
・・・・・
その夜、サレマの私室。
眠るレオンをベッドに寝かせると、サレマはその前に静かに立ち、ゆっくりと両手を重ねた。
「……魔力、展開」
サレマの足元に巨大な魔法陣が浮かび上がる。複雑に絡み合う古代文字が幾重にも広がり、部屋一面を覆い尽くしていった。
「……魔力、解放」
次の瞬間。
サレマの身体から、夜空を溶かしたような紫色の魔力が溢れ出し、眩い光が部屋を埋め尽くす。
対照的に、レオンの身体から漏れる光は淡く小さな緑。
今にも消えてしまいそうな、か細い輝きだった。
「……さぁ、これを掴みなさい。」
サレマはレオンの額へ、そっと指先を添える。
キィィィ………ン———。
紫と緑。
二つの光が一本の魔力の糸となり、静かに結ばれた。
その瞬間――。
サレマの美しい赤髪が、ほんの一筋だけ、雪のように白銀に染まる。
「……くっ。」
サレマは一瞬、体勢を崩しかける。
それでもサレマは、震える腕でレオンへ手を伸ばした。
「あなたは……私が守る。」
———魔力共鳴。
そっと頬へ触れ、優しく微笑むと、レオンの身体はその言葉に応えるように、サレマと同じ紫色の輝きに包まれた。
・・・・・
月日は流れ、レオンは三歳になった。
伯爵邸の庭園では、レオルドが小さな魔法球を浮かべて見せていた。
「よいかレオン。魔力とは自分の意思で形を作るものだ。」
子と過ごす父親の、ちょっとした遊びのつもりだった。
まだ三歳の子どもに理解できる話ではない。
「どうだ?……まあ、まだ早いか。」
そう思っていた。
しかし。
レオンは父の手元をじっと見つめると、同じように右手を差し出した。
すると淡い紫色の光が、小さな指先へゆっくりと集まり始める。
「……なっ!?」
レオルドの表情が固まった。
そして次の瞬間。
幼い手のひらの上に、小さな魔法球がふわりと浮かび上がる。
「ばかな……おい、見たか!?」
側で控える執事長も、思わず息を呑んだ。
三歳で魔力を制御する者など、王国の歴史を見渡してもほとんど存在しないからだ。
レオルドは震える手でレオンの肩を掴む。
「も、もう一度やってみなさい!」
レオンは首を傾げながらも、小さく頷いた。
今度は一つではない。
小さな紫色の魔法球が三つ。
それは、庭園をゆっくりと舞い、小鳥のようにレオンの周りを旋回する。
「……神童だ。」
誰かが呟いた。
その一言は伯爵邸中を駆け巡り、やがて王都にまで広がっていった。
・・・・・
それからというもの、伯爵邸を訪れる客人は後を絶たなかった。
魔法学園の関係者や王宮魔導師団、果ては神官達までもが、神童を一目見ようと屋敷の門を叩く。
「なんということ力だ!」
「ヴァレンシュタイン家始まって以来の天才だ!」
そんな賞賛は日を追うごとに増え、伯爵邸を訪れる客人の話題はいつしかレオン一色になっていた。
神童。
いずれ大魔導士。
王国の未来。
人々は思い思いの言葉でレオンを称え、その才能に目を細める。
戸惑いながらも、笑顔で愛想を振りまくレオン。
その様子に、サレマは少し離れた場所から静かに微笑んだ。
「レオ……っ。」
手を振ろうとしたサレマの腕が、わずかに震える。
内側から魔力を吸われるような感覚。
それでも表情だけは崩さない。
(大丈夫……なんてことはない。)
レオンが笑っている。
それだけで苦痛など忘れられたから。
・・・・・
——しかし。
レオンが成長するにつれ、サレマの美しい赤髪には白銀の髪が一房、また一房と静かに混じり始めていた。
頬はわずかにやつれ、誰もが見惚れた艶やかな美貌も、季節が移ろうように少しずつ陰りを帯びていく。
「お、奥様!お体の具合でも……?」
メイドが心配そうに顔を覗き込むことも、一度や二度ではなかった。
「ええ、大丈夫よ。」
そのたびにサレマはそう微笑むと、レオンへ歩み寄る。
「ね、レオン。」
「お母様!」
両手を広げて駆け寄ってきたレオンを抱きしめると、サレマの表情から疲れは消えていた。
———だが、人々の視線は少しずつ変わり始めていた。
アルディスの聖女と、その美しさを語っていた者たちも、今では神童レオンの話ばかりを口にする。
屋敷へ招かれた客人も、その瞳が追うのは幼い神童の姿だった。
夫レオルドも、レオンを語る時間が増え、妻サレマへ向ける眼差しはみるみる減っていった。
そんな日常の中。
それでも、サレマは今日も変わらず優しく微笑んでいた。
・・・・・
七年。
レオンは十歳になっていた。
魔法を教えれば、その日のうちに自分のものにする。その才能は、もはや神童という言葉だけでは足りなかった。
「素晴らしい!さすが我が息子だ!」
レオルドはいつものように満足そうに頷く。
「この調子なら、王都中央魔法学園も主席で入学できる!」
「お父様、主席って?」
レオルドは息子の肩へ手を置いた。
「一番、ということだ。」
「へえ。一番かあ!」
無邪気に笑うレオンの頭を、サレマも優しく撫でる。
「無理はしなくていいのよ。」
「うん、お母様!」
その頃になると、サレマの美貌はすっかり失われていた。
艶やかな赤髪は半分近くが白銀に染まり、痩せた頬には疲労の色が浮かぶ。
だが、そんな彼女を気に留める者は、もはやほとんどいなかった。
誰もがレオンを見つめ、誰もがレオンを語る。
「レオン、入学試験までにあと二つ、新しい術式を覚えよう。」
「はい、お父様!」
期待に満ちた父の声に、レオンは嬉しそうに頷いた。
「……っ。」
サレマは席を立ち、少し離れた場所で小さく咳き込む。
「お母様!?」
真っ先に駆け寄ってきたのは、レオンだった。
「また苦しいの?」
「大丈夫よ。」
サレマはしゃがみ込み、レオンの頭を優しく撫でる。
「少し疲れただけ。」
「本当に?」
頷きながら安心させるように微笑むと、レオンはようやく父の後を追った。
その笑顔を見届けたサレマは、誰にも気づかれないよう静かに息を整えた。




