1 託された命
町はずれの産院。
その中で最も豪華な個室で、少女は産み終えたばかりの子を隣に寝かせ、薄いローブのままゴロンとベッドへ寝転んでいた。
「この子がいる以上、お姉様はもう婚約者ではいられないわ。」
婚礼衣装のまま絶望する姉の顔を想像する。
「妹に婚約者を奪われるなんて、とんだ笑いものね……ふふっ。」
堪えきれず、笑い声が漏れた。
しかし。
「ママーッ!」
「ちょっと待ちなさい!」
「いやぁぁぁぁ!」
個室の外から聞こえる、平民どもの騒がしい声。
少女は一言怒鳴ってやろうかと、痛む体を引きずって部屋を出る。
廊下では看護師が慌ただしく駆け回り、若い母親たちは泣き止まない子どもを抱えながら、疲れ切った顔で立ち尽くしていた。
髪は乱れ、目の下には濃い隈。服には吐き戻したミルクの染みがこびりついている。
「うわ、なにあれ。きったなー……。」
そう言って、鏡に映る自分を見る。
(……。)
(……嘘。)
(私も……ああなるの?)
少女の思考が一瞬止まる。
(……冗談でしょ。)
言いようのない嫌悪感が、胸の奥からじわりと這い上がってくる。
そんな少女のもとに、身なりの良い青年が慌てて駆け寄ってきた。
「おい!まだ出歩いちゃ駄目だろう!誰かに見つかったら――」
「ふ、ふん……大丈夫よ。だから私をこんな平民の病院に隠したんでしょ?」
少女の嫌味に、青年は何も言い返せなくなった。
「……ねぇ。」
もう一度だけ廊下を見渡す。
(……やっぱ無理。)
肩を落としかけたその瞬間、少女はハッとして青年に振り返った。
「あなた、お姉様と婚約破棄するのやっぱやめて。」
「はあ?なにを言っているんだ。生まれたあの子はどうするんだ?」
そう言って、すやすやと眠る赤子ベッドを指さす。
そんな青年に、少女はにぃっと笑う。
「わたしぃ、もーっといいこと思いついちゃったぁ。」
・・・・・
——そして時はさかのぼる。
・・・・・
王都から馬車で半日と少し。
澄んだ湖と森に囲まれた辺境の地、アルディス領。
王国でも有数の魔力に恵まれたその土地を、アルディス家は何百年にもわたって治めてきた。
豊かな自然と優秀な魔導師を輩出したこともある名門子爵家であり、その名は王都にも少なからず知られていた。
アルディス家には三人の姉弟がいた。
長女・サレマ。
次女・リリア。
そして末弟の、ノア。
中でも姉のサレマと妹のリリアは、その美しさから『アルディスの聖女姉妹』と呼ばれ、若い男性貴族の間では知らぬ者はいない存在だった。
だが、その栄華は数年前、大きく揺らぐことになる。
当主夫妻、すなわち三姉弟の両親が事故で命を落としたのだ。
十二歳だったサレマは、その日を境に「姉」でいることをやめた。
幼くして子爵位を継ぐことになった末弟のノアを支え、亡き両親に代わってアルディス家を切り盛りする。
まだ少女と呼ばれるその年齢には、あまりにも重すぎる責任だった。
一つ下の妹リリアは、特に手のかかる子だった。
甘えん坊で、少しわがままで、放っておけばすぐ迷子になるような子。
それでもサレマは、泣くことだけは決して見せなかった。
――この子たちは、私が守ります。
それが、亡き両親の墓前で静かに誓った約束だった。
そしてサレマが十七歳になった日、王都の名門であるヴァレンシュタイン伯爵家との縁談が持ち上がった。
まだまだ若く、やりたいことも沢山ある年頃。
しかし、サレマはその申し出に迷わずOKする。
(この婚姻でアルディス家を守れるわ。)
伯爵家と婚姻関係となれば、幼いノアが当主となったアルディス家の後ろ盾にもなれる。恋心などなくても構わない。
自分の幸せなんて、いくらでも差し出せる。
これはサレマにとって、胸の内に秘めた政略結婚のようなものだった。
そして、婚礼の日取りも決まり、アルディス家にもようやく穏やかな空気が流れ始めていた。
その矢先だった。
―――妹のリリアが、突然姿を消した。
理由も告げず、手紙一枚残さずに。
サレマは何度も捜索願いを出し、時には私財まで投じて妹を探し続けた。
しかし―――。
アルディス家を去る朝を迎える。
「リリア。せめて生きていて。」
そんな未練を残したまま、サレマはヴァレンシュタイン家に嫁いでいった。
・・・・・
そして婚姻の儀は滞りなく終わり、数か月が過ぎたある日。
「奥様!奥様ぁぁぁ!」
ヴァレンシュタイン家の屋敷に響く、慌ただしい声。同時に、執事が息を切らしながらリビングのドアを開けた。
「旦那様が、……お戻りです!」
サレマは読んでいた本を閉じ、静かに立ち上がった。
「あら、予定より随分早いのね。」
「はい。それと……。」
執事は何か言いづらそうに視線を泳がせる。
「旦那様がお一人では、ありません!」
「あら、お客様でも?」
執事は首を横に振った。
「私の口からは……。」
ただ事ではない。
胸騒ぎを覚えながら玄関ホールへ向かうと、玄関の扉がゆっくりと開いた。
「レオルド、おかえりなさい。」
「……ああ。」
旅装束のまま立ち尽くす夫の表情は、どこか疲れ切っていた。
そして――。
「……え!?」
その腕には小さな赤ん坊が静かに眠っていた。
サレマは思わず息を呑む。
まだ産まれて間もないだろう。
小さな胸が規則正しく上下し、安心しきったように眠っていた。
サレマの視線は、ふとその子の髪へ吸い寄せられる。
「この子の髪……。」
絹糸のように艶めく、淡い赤色系の髪。
それはアルディス家の血を引く者だけが受け継ぐ、誰もが知る特徴だった。
思わず夫を見上げる。
「この子は、誰なのですか!?」
レオルドはしばらく口を開かなかったが、やがて苦しげに息を吐き、静かに目を閉じる。
「サレマ、落ち着いて聞いてほしい。」
この子は――。
「君の妹、リリアの忘れ形見だ。」
その一言が、サレマの思考を真っ白に染め上げた。
「……え?」
かろうじて漏れた声は、自分でも驚くほど震えていた。
夫は赤ん坊を抱いたまま視線を落とす。
「実は……君の妹、リリアが見つかったのだ。」
その瞬間、サレマの瞳に光が戻る。
「リリアが……!?本当なのですか!?」
サレマは無意識のうちに、ふらふらと夫へ歩み寄る。
「それで、どこにいたの!?怪我は!?今はどこに――」
しかし、夫はゆっくりと首を横へ振った。
その仕草だけで、サレマの胸が締めつけられる。
「……間に合わなかったようだ。」
沈黙の玄関。
(なに?)
(間に合わなかった?)
サレマの世界から音が消えた。
「長い間、病に侵されていたそうだ。」
夫の言葉は耳には届いている。
「発見された時はすでに手遅れだった。」
だが、意味を理解することを心が拒んでいた。
「え、あ……。」
夫は赤ん坊へ目を落とした。
「しかし、『この子だけは守ってほしい』……それが、君の妹の最後の願いだった。」
静まり返った屋敷に、小さな寝息だけが響く。
何も考えられないまま、サレマの視線は自然と赤ん坊へ向いた。
(これが、リリアの子……?)
穏やかな寝顔だった。
何も知らず、小さな手をぎゅっと握り締めている。
「死ぬ前に、産んだというの……?」
夫は静かに頷く。
「向こうで、リリアの身元を確認した者から話を聞いた。」
サレマは赤ん坊を見つめ続けた。
「そして、この子を産んだあと彼女は……。」
そういって目頭を押さえる夫に、ほんのわずかな違和感が胸をよぎった。だが、リリアの死という衝撃が、その疑問を押し流してしまう。
「父親については、最後まで何も語らなかったそうだ。」
自分は、ただ一人の姉なのに、何も知らなかった。
守ると誓ったのに、何もしてあげられなかった。
「サレマ、この子を抱いてあげてくれないか?」
夫がそっと赤ん坊を差し出す―――。
驚きと、不安と、悲しみと、間違いではないかという希望のような、疑いのような、感情。
全てが入り混じった不思議な感情。
そういうものに全て蓋をして、サレマは震える手を赤ん坊に伸ばした。
恐る恐る腕の中へ迎えると、小さな体は驚くほど軽かった。
サレマの温もりに触れた瞬間、赤ん坊は眠ったまま小さく指を動かした。まるで母の手を探すように、その小さな手がサレマの人差し指をぎゅっと握る。
「……っ。」
その瞬間、抱えていた色んな感情は、一気にはじけ飛んだ。
「ごめんなさい、リリア……。」
そっと抱き寄せると、安心しきったように静かな寝息を立てている。
その姿が、かえって胸を締めつけた。
「お姉ちゃん、何も知らなかった。」
サレマは涙を拭うと、赤ん坊を優しく見つめた。
「でも、大丈夫よ。」
だから――。
その小さな体を、ぎゅっと抱きしめる。
「今日からは、私があなたを守ります。」
その誓いが自らの運命を狂わせることになるとは、この時のサレマはまだ知る由もなかった。




