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1 プロローグ ~ 託された命

『婚儀の日に、妹に男を寝取られて追い出されるなんて、とんだ笑い者でしょお?』


 町はずれの小さな病院で、一人の少女が肩を震わせて笑っていた。


『ママーッ!』


『いやぁぁぁぁ!』


 看護師が慌ただしく駆け回り、若い母親たちは赤子を抱えたまま疲れ切った顔で右往左往している。


 髪は乱れ、目の下には隈。服には吐き戻したミルクの跡がこびりついていた。


「きったな……。」


 そこへ、一人の青年が慌てて駆け寄る。


「まだ歩いちゃ駄目だろ!

 誰かに見つかったら――」


「大丈夫よ。

 だからこんな平民の病院に隠したんでしょ?」


 青年は言葉を失った。


「ねぇ。」


 もう一度だけ廊下を見渡す。


「婚約破棄、やっぱやめ。」


 少女はにぃっと笑う。


「もーっといいこと、思いついちゃったぁ。」



 ・・・・・



 王都から馬車で半日と少し。


 澄んだ湖と森に囲まれた辺境の地、アルディス領。


 王国でもっとも魔力に恵まれたその土地を、辺境伯爵アルディス家は何百年にもわたって治めてきた。

 豊かな自然と優秀な魔導師を数多く輩出してきた名門であり、その名は王都にも広く知られていた。


 アルディス家には三人の姉弟がいる。


 長女・サレマ。

 次女・リリア。

 そして末弟の、ノア。


 中でもサレマとリリアは、その美しさから『アルディスの聖女姉妹』と呼ばれ、社交界でも知らぬ者はいない存在だった。


 だが、その栄華は数年前、大きく揺らぐことになる。


 当主夫妻、すなわち三姉弟の両親が事故で命を落としたのだ。


 十二歳だったサレマは、その日を境に「姉」でいることをやめた。


 幼くして伯爵位を継ぐことになった末弟のノアを支え、亡き両親に代わってアルディス家を切り盛りする。


 まだ少女と呼ばれるその年齢には、あまりにも重すぎる責任だった。


 一つ下の妹リリアは、特に手のかかる子だった。


 甘えん坊で、少しわがままで、放っておけばすぐ迷子になるような子。


 それでもサレマは、泣くことだけは決して見せなかった。


 ――この子だけは、私が守ります。


 それが、亡き両親の墓前で静かに誓った約束だった。


 ・・・・・

 

 そして、数年後――。


 サレマが十七歳になった日、王都の名門であるヴァレンシュタイン公爵家との縁談が持ち上がった。


 まるで、その時を待っていたかのような申し出であった。


 しかし、サレマは迷わなかった。


 この婚姻でアルディス家を守れる。


 辺境伯爵家と公爵家が結ばれれば、ノアが当主となったアルディス家の後ろ盾にもなれる。


 自分の幸せくらい、いくらでも差し出せる。


 恋心などなくても構わない。


 サレマにとっては、胸の内に秘めた政略結婚だった。


 婚礼の日取りも決まり、アルディス家にもようやく穏やかな空気が流れ始めていた。


 その矢先だった。


 ―――妹・リリアが、姿を消した。


 理由も告げず、手紙一枚残さずに。


 サレマは何度も捜索隊を送り、私財まで投じて妹を探し続けた。


 王国中を探しても見つからず、生死さえ分からないまま婚儀の日を迎えた。


 せめて、生きていて。


 それだけが、姉として最後の願いだった。


 ・・・・・


 そして婚姻の儀は滞りなく終わり、数か月が過ぎたある日。


「奥様!」


 屋敷中に響くほど慌ただしい声が廊下から聞こえた。


 同時に、執事が息を切らしながらリビングのドアを開けた。


「旦那様がお戻りです!」


 サレマは読んでいた本を閉じ、静かに立ち上がった。


「予定より随分早いのね。」


「はい。それと……」


 執事は何か言いづらそうに視線を泳がせる。


「旦那様がお一人では、ありません。」


「あら……お客様でも?」


 執事は首を横に振った。


「私の口からは……。」


 ただ事ではない。


 胸騒ぎを覚えながら玄関ホールへ向かうと、重厚な扉がゆっくりと開いた。


 旅装束のまま立ち尽くす夫の表情は、どこか疲れ切っていた。


 そして、その腕には小さな赤ん坊が静かに眠っていた。

  

 サレマは思わず息を呑む。


 まだ産まれて間もないだろう。


 小さな胸が規則正しく上下し、安心しきったように眠っていた。


 サレマの視線は、ふとその子の髪へ吸い寄せられる。


「この子……。」


 絹糸のように艶めく、淡い赤色系の髪。


 それはアルディス家の血を引く者だけが受け継ぐ、誰もが知る特徴だった。


 思わず夫を見上げる。


「この子は、誰なのですか!?」


 夫はしばらく口を開かなかったが、やがて苦しげに息を吐き、静かに目を閉じる。


「サレマ、落ち着いて聞いてほしい。

 この子は、

 君の妹、リリアの忘れ形見だ。」


 その一言が、サレマの思考を真っ白に染め上げた。


「……え?」


 かろうじて漏れた声は、自分でも驚くほど震えていた。


 夫は赤ん坊を抱いたまま視線を落とす。


「……リリアが見つかった。」


 その瞬間、サレマの瞳に光が戻る。


「本当なのですか!?」


 一歩、また一歩と夫へ駆け寄る。


「どこにいたのです!?怪我は!?今はどちらに――」


 しかし、夫はゆっくりと首を横へ振った。


 その仕草だけで、胸が締めつけられる。


「……間に合わなかったようだ。」


 世界から音が消えた。


「長い間、病に侵されていたそうだ。

 発見された時はすでに手遅れだった。」


 夫の言葉は耳には届いている。


 だが、意味を理解することを心が拒んでいた。


「そんな……。」


 夫は赤ん坊へ目を落とした。


「この子だけは守ってほしい。

 それが、君の妹の最後の願いだった。」


 静まり返った屋敷に、小さな寝息だけが響く。

 サレマの視線は、自然と赤ん坊へ向いた。


 穏やかな寝顔だった。


 何も知らず、小さな手をぎゅっと握り締めている。


「この子が、リリアの……。」


 夫は静かに頷く。


「向こうで身元を確認した者から話を聞いた。

 リリアは一人で育てていたらしい。


 サレマは赤ん坊を見つめ続けた。


「そして、この子を産んだあと……。」


(妹は、どれほど心細かったのだろう。)


「父親については、最後まで何も語らなかったそうだ。」 


(どれほど苦しかったのだろう。)


 自分は姉なのに、何も知らなかった。


 守ると誓ったのに、何もしてあげられなかった。


「サレマ、この子を抱いてあげてくれないか?」


 夫がそっと赤ん坊を差し出す―――。


 サレマは震える手を伸ばした。


 恐る恐る腕の中へ迎えると、小さな体は驚くほど軽かった。


 その温もりに触れた瞬間、赤ん坊は眠ったまま小さく指を動かした。


 まるで母の手を探すように。


 その小さな手が、サレマの人差し指をぎゅっと握る。


「……っ。」


 堪えていた涙が、一気に溢れた。


「ごめんなさい、リリア……。

 お姉ちゃん、何も知らなかった。

 一人で苦しかったよね……。」


 赤ん坊を抱き寄せると、安心しきったように静かな寝息を立てている。


 その姿が、かえって胸を締めつけた。


 サレマは涙を拭うと、赤ん坊を優しく見つめた。


「大丈夫。あなたのお母さんは、私の大切な家族だったの。」


 だから――。


 その小さな体を、ぎゅっと抱きしめる。


「今日からは、私があなたを守ります。」


 その誓いが自らの運命を狂わせることになるとは、この時のサレマはまだ知る由もなかった。

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