19 反撃の序曲
『ねーさん!大変!』
地下の魔導研究室に、ノアの慌ただしい声が響いた。
魔力を帯びた通信用の魔石が強く明滅し、向こう側から切羽詰まった気配が伝わってくる。
「どうしたの?」
マイペースなノアがこれほど取り乱すのは珍しい。
『来週、学園に王族が視察に来ることが決まった!』
思わぬ言葉に、サレマの指先がぴたりと止まった。
「……視察?」
『ああ。王城の魔導部門をさらに強化するために、将来有望な生徒を直接見るらしいんだ。各学年から二人ずつ代表を選んで、魔法実技を披露する!』
ノアの声は興奮を隠しきれていない。
『しかも、代表者の保護者も呼ばれるってよ!』
「保護者も学校に?」
ノアはモニターの向こうで首を縦に振った。
『もちろんレオンも代表!つまり、リリ姉と旦那も来るってことだ!』
その一言で、研究室から音が消えた。
静かな地下室に、微かな魔力音だけが響く。
『ねーさん。』
ノアは声を潜めた。
『これ、絶好の機会だろ?』
ノアの言葉に、サレマは何も答えなかった。
『じゃ、とりあえず報告ってことで、またっ!』
「ええ……分かったわ。」
通信はそこで途切れた。
サレマはしばらく通信魔石を見つめていたが、やがて研究机へ視線を戻した。
王族が足を運ぶことなど滅多にない。王都中央学園でも年に一度あるかないかという一大行事だ。
当然、代表に選ばれた者にとっては大きな名誉。逆に失敗すれば、その名は一瞬で王都中へ知れ渡る。
レオンもまた、その舞台へ立つ。
もっとも、どれだけ立派な魔法を披露しようと、その力はレオン自身のものではない。
サレマはチェス盤に置いてあった白のポーンを静かに手に取る。
「……きっと今頃、自信満々なのでしょうね。」
静かにチェス盤へ戻すと、研究室をあとにした。石造りの階段を上るにつれ、地下の静けさは少しずつ賑やかな声へ変わっていく。
「では、こちらの契約書は来週中に。」
「この帳簿も修正しておきます。」
リビングでは執事や使用人たちが大きなテーブルを囲み、何枚もの書類を広げていた。
その中心にいるのは、元ヴァレンシュタイン家の執事長ヴィクターだった。
指示を飛ばすわけでも威圧するわけでもなく、一人ひとりの意見へ耳を傾けながら自然と話をまとめていく。
「むやみに値切るのは得策ではないかと。」
「え、なぜです?」
「代わりに輸送費を負担していただきましょう。むやみに相場を下げれば在庫の資産価値も落ちます。」
執事たちは顔を見合わせた。
「その発想はありませんでした……。」
感心する声が上がる。
ヴィクターがアルディスへ来てからまだ日も浅い。それなのに、今では使用人たちもすっかり打ち解けていた。
つい先日は、ある商会との取引を見直し、収穫物の新たな販路まで切り開いてしまった。おかげでアルディス家の収益は目に見えて伸び始めている。
(私の出る幕はなさそうね。)
誰にも気付かれないよう苦笑すると、そのままキッチンへ足を向ける。
すると、テーブルの上に一本の瓶が置かれているのが目に入った。
陽の光を受けて、赤色の液体が宝石のように輝いている。
「え……?」
思わず歩みを止める。
「これって……。」
瓶を両手で持ち上げ、ラベルを見た瞬間、顔がぱっと明るくなった。
「ラズベリーワイン!?」
「お気付きになられましたか。」
後ろから穏やかな声がした。
振り返ると、ヴィクターが微笑みながら立っている。
「アルディスへ向かう前に旅に一本と思い、王都のワイン商へ立ち寄りまして。」
「ちょうど急なキャンセルが出たとのことで、運良く手に入れることができました。」
サレマは思わず瓶を抱きしめる。
「ああ……ありがとう。」
本当に、この人は抜け目がない。
(まあ、私はそのキャンセルがどこから出たのかを知っているのだけれど。)
心の中でくすりと笑う。
今年、このワインを楽しみにしていた人物はもう一人いる。
(悪いわねレオルド。今年は私が独り占めさせてもらうわ。)
「って、私ったら何を……。」
ほんの少し前までの自分なら、こんな冗談を思い浮かべる余裕などなかったのに。
・・・・・
そして数日後――。
王都中央魔法学園、王族視察当日。
普段は静かな校舎も、この日ばかりはどこか張り詰めた空気に包まれていた。
模擬実践場には各学年の代表生徒、その保護者、教師たちが集まり、開演を今か今かと待っている。
やがて、大きな扉が開いた―――。
「王族の皆様のご入場です!」
一斉に立ち上がる会場。
王族を先頭に、王国を支える重臣たちがゆっくりと入場してくる。
場内は静まり返り、誰もが固唾を呑んでその姿を見守っていた。
そんな中――。
「ねえ、レオルド。」
リリアは嬉しそうに夫の袖を軽く引いた。
「レオンの実技が終わったら、皆さまの前で王族の皆様へご挨拶したいのだけれど。」
レオルドは嫌な予感しかしなかった。
「……何を言い出すんだ。」
「神童の育て方について、お話ししようと思いまして。」
リリアは悪びれもなく微笑む。
「きっと皆様、お聞きになりたいでしょう?」
レオルドは深いため息をついた。
「恐れ多いことを。頼むから、おとなしくしていてくれ。」
「えぇー。」
不満そうに唇を尖らせるリリア。
だが、その表情には余裕すら浮かぶ。
———どのみち今日の主役は、誰がどう見ても神童であるレオンなのだから。
ほどなくして司会の教師が壇上へ上がる。
「それでは、これより代表生徒による魔法実技を開始します。」
高学年代表、一人目。
生徒が詠唱を終えると、大気中の水蒸気が一斉に集まり、空中に巨大な水鏡が浮かび上がった。
「おぉ……。」
王族席からも小さなどよめきが漏れ、模擬実践場は拍手に包まれる。
その後も各学年の代表生徒たちが次々と壇上へ上がり、自慢の魔法を披露していった。どの生徒も将来を期待される逸材ばかり。
王族や重臣たちも満足そうに頷きながら、その実力を見守っていた。
「ふぁ……レオン、まだなの?」
リリアは退屈そうにあくびを噛み殺す。
「他の子なんて、どうでもいいわ。」
時計へ目をやる。
「今のうちにお化粧でも直してこようかしら。」
席を立つと、そのまま講堂の後方へ歩き始めた。
「そうだわ。」
途中でふと足を止める。
レオルドは当てにならない。ならば自分で動けばいい。
「わたしのありがた~い演説、先生に直接お願いした方が早いわね。」
そう呟くと、リリアは会場の隅にある職員席の方へ足を向けた。
その頃――。
職員席のいちばん端で、ノアは人目を避けるように身を潜めていた。
壇上の代表生徒を見つめながら、胸元に忍ばせた通信魔石が淡く光った。
「ねーさん。」
小声で囁く。
「もうすぐだよ。」
・・・
アルディスの地下、魔導研究室。
通信越しにサレマは静かに目を閉じた。
「ええ……。」
レオンはもう間もなく壇上へ呼ばれる。
魔力共鳴を切る、その時が近付いていた。
「……。」
サレマは静かに瞳を伏せる。
リリアたちへ現実を突き付けるためとはいえ、そこまでしていいのか。
一人の母親として育ててきた十年間。どれだけ憎んでも、その子の幼い頃を知っている。
胸が痛まないはずがなかった。
だが――。
(いいえ。)
ゆっくりと首を振る。
(あの子は、一度挫折を知る必要がある。)
成功と賞賛しか知らず育った子どもは、いつか必ずもっと大きなものを失う。
それなら今、まだやり直せるうちに。
通信魔石の向こうで、ノアが思わず声を弾ませた。
・・・
「ねーさん!次だよ、次!」
その瞬間だった。
———ガシッ。
不意にノアの二の腕が、誰かに掴まれた。




