18 黒のルーク
サレマは一人、テラスの椅子へ腰を下ろした。静かに見上げた夜空には、王都では決して見ることのできない無数の星々が広がっていた。
夜風が火照った頬を優しく撫で、張り詰めていた気持ちをゆっくりとほどいていく。
ここ数日、気を休める暇などなかった。
クロードをヴァレンシュタイン公爵家へ送り込み、ノアールも王都中央学園へ潜り込ませた。もちろん安心するにはまだ早い。
盤面へ駒を並べ終えただけで、勝負はまだ始まったばかりなのだから。
それでも今夜くらいは、この静かな夜空を眺めながら、ほんの少しだけ肩の力を抜いてもいいだろう。
サレマは小さく息を吐き、そっと目を閉じた。
その時だった。
庭園の向こうに、小さく揺れる灯りが見えた。
———松明だ。
こんな時間の来客に、サレマは小さく首を傾げる。
やがて灯りは屋敷の前で止まり、一人の男がゆっくりと姿を現した。
「……来たわね。」
サレマは急ぎ階段を下り、玄関の扉へ手を掛けた。
扉を開けると、ヴィクターは小さく頭を下げる。
「夜分遅くに申し訳ございません。」
「いいえ。こうして来てくださっただけでも嬉しいです。」
その言葉に、ヴィクターは一瞬だけ視線を伏せた。サレマはそんな様子に気づきながらも、静かに続けた。
「改めてお願いします。
ぜひ、執事長のお力をアルディス家へお貸しい下さい。」
少しの沈黙のあと、やがてヴィクターは小さく首を横へ振った。
「……申し訳ございません。」
その声は、どこか覚悟を決めたように静かだった。
「私は、この足で旅へ出ようと思っております。」
サレマは思わず目を瞬かせる。
「旅に……?」
「はい。」
迷いのない返答だった。
「でしたらなぜ、このような辺境まで来てくださったのですか?」
ヴィクターはすぐに答えなかった。
ただ月明かりの下で、固く拳を握り締めている。
やがて……。
「本日は……奥様に謝罪しに参りました。」
「……謝罪、ですか?」
ヴィクターは再び深く頭を下げる。
「実はこのヴィクター、いつ頃からか気付いておりました。」
苦しげな声だった。
「……レオルド様が、奥様を利用しておられることに。」
サレマは黙って耳を傾ける。
「ですが、いち使用人の私には、当主に逆らうことが出来ませんでした。」
ヴィクターは自嘲するように小さく首を振る。
「私は、気付いていながら何もしなかった……卑怯者です。」
その言葉には、自分自身への怒りが滲んでいた。
「ですから……。」
ヴィクターは真っ直ぐサレマを見つめる。
「私には、アルディス家でお世話になる資格などございません。」
月夜の下に落ちる静寂の中、サレマは心の中で小さくため息をついた。
(……困ったわね。)
ヴァレンシュタイン家、元筆頭執事ヴィクター。
復讐対象の男を最も近くで見て来た男。
そして、実質的に公爵家の運営のほとんどを担っていた男。
この大きな魚を逃すわけにはいかない。
しかし―――このままでは、本当に行ってしまう。
ならば。
サレマは静かに息を吐いた。
「先ほど、わたしに謝罪に来たと仰いましたね。」
「……はい。」
サレマは一歩前へ出る。
月明かりが、その白銀の髪を静かに照らした。
「でしたら私は、あなたを絶対に許しません。」
ヴィクターは思わず息を呑んだ。
決して、謝って済むと思っていたわけではない。
ただその言葉は、ヴィクターの知るサレマとはあまりにもかけ離れていた。
「謝れば、それで終わりだとお思いですか?」
サレマは静かに微笑んだまま、一歩だけ距離を縮める。
「……いえ……。」
「あなたは今、私に謝って、誰にも迷惑を掛けない場所へ消えていこうとしている。」
サレマは畳み掛けるように続けた。
「ですが、それでは何も償ったことにはなりません。」
「……仰る通りです。」
サレマは穏やかな口調を崩さない。
「私は、十年間奪われました。」
「家族も。」
「居場所も。」
「人生も。」
「その十年は、謝罪一つで埋まるほど軽いものではありません。」
ヴィクターは苦しげに目を閉じた。
「申し開きのしようも……ございません。」
サレマは真っ直ぐヴィクターを見据える。
「旅に出ることも。」
「自分だけ楽になることも。」
「私は許しません。」
「あなたが本当に償いたいというのなら。」
「その十年を、このアルディス家へ捧げなさい。」
ヴィクターの肩が小さく震える。
そんな道が残されているとは、思ってもいなかった。
ただ、この罪を背負ったまま、どこかでひとり朽ちていくのだと覚悟していた。
だが目の前の女性は、許さないと言いながら、このアルディス家へ仕えるための大義名分を与えてくれている。
(こんな私を―――。)
長い沈黙の末、ヴィクターはゆっくりと片膝をついた。
「……このヴィクター。
残りの人生を懸け、奥様へお仕えすることをお誓いいたします。」
……遠くで夜鳥が一声だけ鳴いた。
サレマは跪くヴィクターを見据え、ようやく肩の力が抜ける。
(――落ちた。)
その右手には。
———いつの間にか黒のルークが握られていた。




