16 動き出した盤面
「レオルド・ヴァレンシュタインよ。」
クロードは一瞬、自分の耳を疑った。
確かに、レオルドもまたサレマを裏切った張本人だ。
十年前、リリアとの不貞を隠したまま、サレマを子育てに教育にと利用し続けた。そして目的を果たした途端、妻として尽くしてきた彼女を容赦なく追放した。
サレマにとっては、リリアと同じく断罪されるべき相手。
だが、まさか自分の旦那だった男の名が挙がるとは、さすがのクロードも予想していなかった。
『お嬢様?あの……。』
理由を尋ねようとした、その時だった。
「クレイス様。」
身なりを整えて戻ってきたリリアが、レオルドの腕へ軽く手を添えながらクロードを振り返る。
「こちらは、夫のレオルド・ヴァレンシュタインですわ。」
続いてレオルドへ向き直ると、どこか誇らしげにクロードを示した。
「あなた。こちらがレオンの家庭教師を務めてくださる、クレイス様ですの。」
弾むリリアの声を聞きながら、レオルドはゆっくりと家庭教師クレイスへ視線を移した。
整った顔立ち。柔らかな金髪。立っているだけで玄関ホールの空間が華やいで見える青年。
しばらく眺めた末、レオルドはわずかに眉を寄せた。
「ずいぶんと、見栄えのいい家庭教師を選んだものだな。」
口調こそ穏やかだったが、歓迎の響きはない。
「まあ、あなたったら。」
リリアは困ったように笑いながらも、クロードへ向ける視線を隠そうともしなかった。
「とても優秀な方ですのよ。それに、とてもお話の分かる素敵な方で――」
「ほう。」
レオルドは短く答えると、再びクロードの顔へ目を向けた。
「能力の程は分からぬが、随分と妻に気に入られたようだな。」
これは明らかに皮肉だった。
しかしクロードは表情を崩さず、丁寧に頭を下げる。
「若奥様には過分なお言葉を頂戴いたしました。」
そのまま顔を上げ、当主レオルドの目を真っ直ぐ見つめる。
「このクレイス。家庭教師の身ではありますが、当主様のお役に立てるよう、精一杯務めさせていただきます。」
打算などではなかった。
仕える者として、真っ先にその家の当主への忠誠を示す。それはクロードにとって、ごく当たり前の礼儀だった。
「う……うむ。」
レオルドはクロードを見つめたまま、わずかに眉を動かした。
「レオンの家庭教師に徹してもらおう。それ以上は、わきまえることだ。」
レオルドはそれ以上何も言わず、クロードへ背を向けた。
「承知しております。」
(初対面から、警戒されてしまいましたか。)
だが、それも当然だ。
今日初めて顔を合わせた家庭教師を、すぐに信用できるはずがない。信頼は、この先の働きで積み重ねていけばいい。
クロードは静かに居住まいを正した。
・・・
クロードの一礼を見届けたサレマは、静かに魔導モニターから目を離した。
「……上出来。」
机の片隅に置かれていたチェス盤へ手を伸ばす。
カチ……。
「先手の白。……見事だったわ?」
最奥に並べた、白のクイーンと白のキング。
カチ……カチ……。
そうして、チェス盤に次々と置かれる黒と白のコマ。
乾いた音が、静かな研究室へ響く。
「でも……。」
サレマは奥に配置した白のキングを見つめたまま、手にした黒のナイトをそっと撫でる。
「後攻は、黒なのよ。」
そう言って、黒いナイトをひとマス、白のキングに近づけた。
・・・・・
一方。
ヴァレンシュタイン家を後にした執事長は、人目のない林道で足を止めた。
先ほど、屋敷の前で家庭教師の志願だという青年から手渡された一枚のメモを静かに開く。
「これは……。」
文字を追うたび、険しかった表情が少しずつほどけていく。
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挨拶も出来ずに去ることになり、申し訳ありませんでした。
今後の身の振りがお決まりでなければ、アルディス家でその手腕を振るっていただきたく存じます。
サレマ・アルディス
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「お、奥様……?」
執事長は目を閉じる。
「ご無事で何より……。」
安心と同時に、胸の奥へ押し込めていたものが、一気に込み上げた。
ヴァレンシュタイン家、元執事長・ヴィクター。
彼は握り締めた紙を丁寧に折り、胸の内ポケットにしまうと、その足は、遠く辺境伯爵領行きの馬車停へ向かっていた。
・・・
誰もいない魔道研究室。
魔道モニターに煌々と照らされるチェス盤には、敵陣にあったはずの白のルークがいつの間にか消えていた。




