15 狙うべき相手
応接間を出ると、リリアは弾むようにクロードに振り返った。
「クレイス様、まだお時間はございますわよね?」
「ええ。」
ベルガモットが香るような上品な笑みで、クレイスも応えた。
「でしたら、このお屋敷を隅々までご案内させてくださいませ。」
気になる相手との時間を少しでも長く過ごしたい。少女のような浮き立った足取りで、リリアは中央階段へ向かった。
クロードはリリアの目を盗むと、サレマにそっと囁いた。
「お屋敷、拝見させていただきます。お嬢様。」
『いいのよ。そこはもう、わたしの住む場所ではないのだから。』
通信越しの返事は、いつになく落ち着いていた。
「では。」
クロードは”クレイス”として前を向き直し、ゆっくりとリリアを追うように、中央階段を上っていく。
階段中央の踊り場に差し掛かると、数人の職人が慌ただしく作業をしていた。
「もう少し右だっ!」
「おいそっち、気を付けろ!」
十年間、ヴァレンシュタイン家を見守り続けた巨大な家族肖像画が、今まさに壁から降ろされようとしていた。
中央には、産まれたばかりのレオンを抱くサレマ。その傍らには、公爵家当主レオルドが立っている。
誰の目にも、幸せな家族と映っていた頃の肖像画だ。
その時。
「奥様ー!。」
壁に張り付いた職人が、額縁をはずしながらリリアへと振り返った。
「古い肖像画は、どちらへお運びいたしましょう。」
リリアはそれを一瞥すると、興味もなさそうに目線をそむけた。
「もう必要ありませんわ。」
職人達は顔を見合わせる。
「では、倉庫までお運びし――。」
「額縁も含めて、処分してください。」
(……っ!?)
クロードはその言葉に一瞬だけ目を見開いた。
なぜなら、爵位を継ぐ家では歴代の肖像画は家の歴史そのものだからだ。
描かれた人物が、例え罪人に成り果てようと、家を去った者であろうと、むやみに処分することは禁忌とされていた。
(公爵家ともあろう家が……。)
だが今は、家庭教師クレイスでいなければならない。
そんなクロードの横目に、取り外した旧肖像画を抱えた職人二人が、慎重に階段を降り始めた。
その時だった。
「う、うわっ!」
職人の一人が階段を踏み外し、額縁から手を離してしまった。
運び手を失った肖像画は、階段を滑るようにガタガタと落ちていく。
そして階段下まで滑り落ちた肖像画の上を、新しい額縁を持った職人たちがドカドカと靴底で肖像画を踏み越えていく。
肖像に描かれたサレマがみるみると黒い靴跡で埋め尽くされていく。
「……っ。」
クロードは、サレマが見る魔導モニターに”それ”が映らないように咄嗟に視線をはずした。
しかし。
『クロード。』
耳元からサレマの落ち着いた声が聞こえた。
『……褒めなさい。』
「え?」
『前よ。新しい肖像画を見るの。』
クロードはゆっくり息を吸うと、今まさに飾られんとする、ひと際豪華な額縁に目をやった。
豪華なドレスに身を包んだリリアが、まるでこの屋敷の主役であるかのように中央で微笑んでいる。
その両脇を、レオルドとレオンが支える構図だった。
見る者の視線は、自然とリリアへ集まる構図になっている。
(こ、これを褒めろと……?)
もはや家族肖像画ではない。リリアを讃えるための肖像画だ。
そして、再び聞こえるサレマの声。
『さあ、クレイス先生。』
『リリアを気持ちよ~くして差し上げなさい。』
『……これでもかというくらいに、ね。』
クロードは軽くうなずくと、肖像画へゆっくりと目を向けた。
リリアの一歩後ろに立ち、しばし沈黙に身を任せる。
そして。
「これは……見事です。」
口角を上げて、振り返るリリア。
「……と、申し上げたいところですが。」
「え!?」
期待に輝いていた長い睫毛が、一瞬だけ戸惑うように揺れた。
「何か、お気に召しませんでしたの?」
そんなリリアに、クロードは静かに首を横へ振る。
「失礼……。
肖像画では、奥様の美しさを描き切ることは不可能かと。」
その一言は、まるで甘い蜜のようにリリアの心へ染み渡った。
これまで幾度となく褒められてきた。
しかし、目の前の青年に贈られた賛辞は、今まで聞いたどの言葉よりも心地よく、彼女の虚栄心を満たしていた。
リリアは照れ隠しに、再び肖像画を見上げる素振りをした。それでも、込み上げる嬉しさは隠し切れていなかった。
・・・
パチ……パチ……パチ……。
アルディスの地下の研究室に響く、サレマの乾いた拍手。
「……お上手。」
サレマの皮肉に、モニター越しのクロードは小さく肩を竦めた。
・・・
窓から差し込む光が色を帯びてきた頃。
ふたりは屋敷を一周し終え、玄関ホールに差し掛かっていた。
不意に飛び込む、騒がしい声。
「せめて、奥様に確認だけでも取っておくれよ!」
一人の女が、赤く透き通ったワインを片手にメイドへ詰め寄っていた。
「このラズベリーワインは、毎年欠かさず納めてる品なんだってば!」
「ですから、今年からは必要ないと……。」
ワイン商の女は頭を抱えながら大きくため息をつく。
「そんなはずあるかい!?当主様のお気に入りだからって、毎年最優先で押さえてきたんだよ!」
必死に訴える女に、若いメイドは何度も頭を下げることしかできない。
ちょうどその時だった。
「あっ!」
女がリリアへ視線を向ける。
「その身なりは、奥様で!?」
ぱっと表情を明るくすると、小走りでリリアへ駆け寄った。
「ラズベリーワインです!今年は何とか三本ご用意できました!」
嬉しそうな笑顔で頭を下げる女。
しかし。
リリアは露骨に眉をひそめた。
「……なんですか、それは。」
冷え切った声が玄関ホールへ響く。
「うちは公爵家です。最高級のワインだけあれば十分です。」
「でも、毎年奥様もお喜びになってるって聞いて、あたい嬉しくて……。」
リリアは興味を失ったように背を向ける。
「もう結構!持ち帰ってくださいませ。」
呆然と立ち尽くすワイン商の女。
毎年この季節を楽しみにしてくれていたという"奥様"のイメージとは、まるで別人だった。
クロードはそんな彼女の横顔を見つめながら歩き続けた。
「お見苦しいところをお見せして、申し訳ないですわ。」
リリアは困ったように肩を竦める。
「こういう家ですから。口先だけで取り入ろうとする者が多くて。」
「名家ゆえの気苦労、お察しいたします。」
理想通りの反応で返す。
「そういった輩を見極めるのも、公爵夫人の務めですわ!」
しかし、聞くに堪えなくなったサレマが、通信の向こうで小さくぼやく。
『……どの口が言うのよ。』
(……っ!)
耳元から聞こえたサレマの一言に、クロードは危うく吹き出しかけた。
だが、リリアの機嫌が最高潮に達したことは見逃さない。
「実に勉強になりました。奥様から学ぶことは尽きません。」
営業用の笑顔をさらに磨き上げると、今日一番のキメ顔で微笑んだ。
・・・
研究室の椅子へ深く腰掛けたサレマは、真っ赤なワインをグラスで軽く揺らした。
魔導モニターの向こうでは、身なりを整えに上機嫌で席を外すリリア。
その背中が見えなくなったところで、クロードはようやく一息ついた。
『屋敷は、おおよそ把握できました。』
「……ええ。」
サレマは小さく頷きながら、クロードに任務を告げた時のことを思い出していた。
――数日前。
・・・・・
「クロードには、レオンの家庭教師としてヴァレンシュタイン家へ潜り込んでもらうわ。」
「屋敷の様子を私へ知らせて。」
「承知しました、お嬢様。」
・・・・・
それが、クロードをこの家へ遣わした目的だった。
「……でも。」
サレマはグラスを静かに傾ける。
「クロード。お願いしたいことが一つ増えたわ。」
『……なんなりと。』
続きを静かに待つクロード。
「あなたの魅力で、虜にしてほしいの。」
『……っ。』
魔導モニターの向こうで、クロードは一瞬戸惑いながらも静かに頷いた。
『……やはり、そうきましたか。』
サレマは小さく微笑む。
「あなたにしか頼めない役目よ。」
『……任務と割り切ります。』
かつて自分を見下していた者に、甘い言葉を囁くのは決して容易ではない。
それでもクロードは静かに覚悟を決めた。
『では、リリア様を虜に——』
その瞬間だった。
魔導モニターの向こうで、玄関の大扉がゆっくりと開く。
「ただいま、リリア。」
低く落ち着いた男の声。
着替えを済ませたリリアが、花が咲いたような笑顔で男に駆け寄っていく。
「今日はお早いお帰りですのね。」
上着を脱ぎながら、その男はふとクロードへ顔を向けた。
・・・
「来たわ。」
サレマは空のグラスを静かに机へ置く。
「あなたが虜にする標的。」
その瞳は、モニターに映る男を真っ直ぐ見据えていた。
「レオルド・ヴァレンシュタインよ。」




