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餓狼

〈叛乱軍〉

蘇伯《そはく》……冀州河間郡易県の県令。叛乱の首謀者。己の命と引き替えに、鮮卑へ叛乱の介入を約束させる。

田銀《でんぎん》……冀州河間郡易県《きしゅうかかんぐんえきけん》の兵長。叛乱軍の盟主。

〈鮮卑《せんぴ》〉

軻比能《カヒノウ》……鮮卑の魁《かい》。

卑弥《ヒビ》……大人《たいじん》。軻比能に仕える。

〈烏丸《うがん》〉

無臣氐《ムシンテイ》……大人。軻比能に与する。

〈漢《かん》〉

曹操《そうそう》……華北を統べる群雄。漢の丞相《じょうしょう》。田豫《でんよ》の才覚を見抜く。

曹丕《そうひ》……漢の副丞相。曹操の嫡子。

程昱《ていいく》……曹操の謀臣。


 兵棋台《へいぎだい》に広げられたのは、河北一体の絵図面だった。

 叛乱軍の動きを察知した鄴《ぎょう》では、緊急の軍評定が行われようとしていた。

 その中心にあったのは、豪壮な官服に袖を通した、目つきの鋭い若者だった。その面貌《めんぼう》には、どこか曹操《そうそう》の面影がある。父の留守を預かる曹丕《そうひ》だった。

 絵地図を前にした曹丕と、兵棋台をぐるりと囲むように、文武の官が集っている。

「曹操さまが征西に出向いた途端にこれだ。機会をうかがっていたとしか思えぬ」

「何故だ⁉ 何故に叛乱などが起きる――⁉」

「叛乱軍は五万とも聞こえておる。今の鄴には、一万ほどの守兵しかおらぬぞ」

「盟主は、河間《かかん》の田銀《でんぎん》と聞く。心当たりのある者はおらぬか?」

 騒ぎ立てるばかりの諸官をよそに、曹丕は、静かな眼眸《まなざし》を図面にはわせた。

 ――先の敗戦による急激な賦役が、民の不満を招いたか? 副丞相《ふくじょうしょう》とはいえ、父の失策をぬぐうのも楽ではないな。

 曹丕が、皮肉な笑みを浮かせた刹那だった。

「急報でござる! 曹操さまが、兵を取って返し、自ら討伐に向うとのことでございます!」

「おお……」

 辺りは、感嘆の声で、どよもした。

「ならぬ」

 その声の主に、諸官たちの視線が一斉に集った。その視線の先には、目つきに鋭さを増した曹丕があった。

「丞相には、戻るなと急ぎ伝令を放て。還れば、征西をも挫《くじ》かれたように映る」

「されど、曹丕さま、今やこの鄴には守兵が一万。それも、万の兵を動かせる将は、賈信《かしん》どのおひとり。防衛を得手とする将でございますれば、叛乱軍を討ち払うまでには至らぬかと……」

 集った諸官の中から、誰かが声を上げた。

「急報! 曹操さまは、戻りませぬ! 代わって、曹彰《そうしょう》さま、牽招《けんしょう》どのの二将が向かわれておりまする!」

「おお……」

 ふたたび、諸官たちが、うなるような声音《こわね》を立てた。そのうなりには、二種あった。二将の救援と曹丕の明察に対するものだった。

 己の判断が、父と同じであったことに自信を得た曹丕は、冷徹な双眼で地図に見入った。図面上を泳ぐ、曹丕の眸子《ひとみ》が止まった。

「私が、叛乱軍の長ならば……北方異民族と呼応する」

 たちまち、諸官は息を呑んだ。訪れたのは、静寂だった。

「さすがは、曹丕さま。慧眼《けいがん》、恐れ入りまする。ですが、烏丸《うがん》、鮮卑《せんぴ》の北方異民族には、閻柔《えんじゅう》と鮮于輔《せんうほ》が目を光らせておりまする」

 蝟集した諸官たちが波のように割れた。割れた波間を通り、曹丕に歩み寄ったのは、臍まで垂れた白髯の持ち主だった。

「亜父《あふ》か。そうであれば、足りぬのは、もう一手。叛乱軍を討ち返す一手だ」

 曹丕は、白髯をしごく老獪に微笑した。幼い頃より軍学や兵法を教え込まれた曹丕は、その老獪に親しみを込めて亜父と呼んでいた。

「すでに、手は打っておりまする」

「早いな。主だった将は、西と南に出向いているはず。許《きょ》の都にも、この窮地を打開するような将は思い当たらぬが……?」

 亜父と呼ばれる老獪は、白髯をなでる手を止めた。その老獪こそ、曹操の謀臣、程昱《ていいく》だった。

「かつて、曹操さまがその才を見抜き、閻柔、鮮于輔の次代を担う者として、中央にて政《まつりごと》と軍事を学ばせておりました」

「…………」

 得意げな程昱に、怪訝の色を滲ませた曹丕は、小首をかしげた。

 程昱は、目蓋を閉じて続けた。

「地方官として各地で治績の山を築き、軍を掌握する手段《すべ》をも身につけ、今や、本来の地に還る機が、熟したところでございます」

「そのような者がおったか? 誰だ……?」

 期待に瞳を輝かせた曹丕は、程昱に質した。

 ゆっくりと目を開けた程昱は、不敵に顔を歪めた。

「田豫《でんよ》――」

 心当たりのない名に呆然とした諸官たちは、互いに互いの顔を見せ合うばかりだった。


 乾いた風が、背を押すように吹いていた。

 馬上で腕を組んでいる。七千ほどの群れに見えた。

 漆黒に染めた毛皮の外套を翻らせ、騎馬の一群を率いていたのは、軻比能《カヒノウ》だった。黒い胡服《こふく》を着ている者が、所々に散らばっている。七千騎が、怒濤の勢いで疾駈していた。

「近辺に漢兵の姿はありませぬ。難なく長城を越えられましょう」

 軻比能に従騎していた卑弥《ヒビ》が、その背に声を張った。

 軻比能は、後方を一瞥した。

「しばらく戦線を北の丁零《ていれい》に向けていたからな。漢には、我らがおとなしくしているように見えていただろう。閻柔と鮮于輔も、平和呆けしているといいが……」

 軻比能の口辺の傷痕が、別の生き物のように動いた。その笑みを左方に向けた。

 濛々とした砂塵が上がっている。

 左方より、別の一群が寄せていた。三千ほどに見える。白い胡服を着込んだ者が散在していた。先頭を駈ける者も白い胡服だった。

「塞内で暴れるのは、公孫瓚《こうそんさん》を攻めて以来か?」

 浮いた笑みは、残忍だった。恰幅のいい体軀に白い胡服をまとっている。軻比能に轡《くつわ》を並べたのは、三千騎を率いて合流した、烏丸の大人、無臣氐《ムシンテイ》だった。

「そうだな。冀州での叛乱に乗じ、鄴を侵略する」

「叛乱? 曹操って野郎も舐められたもんだな。鄴と言やあ、宝の山のような城郭《まち》じゃねえか。これほど旨い話はねえ。取り分は?」

「各自、総取り」

 無臣氐とは視線も合わせず、前を向いたまま腕組みして疾駈する軻比能が、不愛想に返した。

 軻比能の顔をのぞき込んだ無臣氐に、不気味な笑みが浮いた。

「乗ってやるよ」

 軻比能の口辺の傷痕が、再び別の生き物のように動いた。馬腹を蹴ると、馬の速度が上がった。

 無臣氐と卑弥が追随すると、後続する騎馬群も加速した。

 馬を駈る兵たちは、どれも荒々しい性質《たち》が顔から見て取れた。北方の辺境で揉まれた騎馬軍は、餓狼の群れに似ていた。


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