叛乱
〈叛乱軍〉
蘇伯……冀州河間郡易県の県令。叛乱の首謀者。
田銀……冀州河間郡易県の兵長。叛乱軍の盟主。
〈鮮卑〉
軻比能……鮮卑の魁。
卑弥……大人。軻比能に仕える。
〈漢〉
曹操……華北を統べる群雄。漢の丞相。田豫の才覚を見抜く。
曹丕……漢の副丞相。曹操の嫡子。
西暦二一一年が明けた頃――。
冀州河間郡易県の城郭、その官舎の一室には、胡座をかいて対座している県令と兵長の二人がいた。
「ゴホッ……これ以上、疲弊していく民を見ているのは忍びない……ゴホッ……」
官服の姿だった。芳しくない顔色を愁眉に染めた白髪白髯の初老が、咳き込みながら語った。
力強い目つきで初老を瞶めている。対面にいたのは、戦袍を着込んだ、たくましい体つきの男だった。
「俺も、行き過ぎていると思います。兵戸があるにも関わらず、先年の敗戦で冀州の民にまで軍役を課すなど……」
「田銀よ、お前にも……ゴホッ……民の声が聞こえておろう……」
曹操が領有した河北の地では、先の敗戦により、徴兵や賦役が厳しさを増していた。特にも、袁紹の旧領地に住んでいた民は、不満を募らせつつあった。
白髪白髭の初老は、丈夫の田銀を冴えた眼眸を瞶め返した。
「儂は、もう長くない。ゴホッ……このままでは、冀州の民にも未来はない。かつては……ゴホッ、袁紹さまを主と崇めた民。袁家に恩義がある者も多い。曹操の猛政を断たねば、ゴホッ……儂は、死んでも死に切れぬ……」
「蘇伯さま……」
「お主にしか頼めぬ。ゴホッ……どうか、やってくれぬか、田銀」
「袁紹さまに拾っていただいた。恩義があるのは、俺もです」
昂然と胸を張った田銀は、蘇伯にうなずいてみせた。
「立ってくれるか、田銀?」
「はい。蘇伯さまに代わって――」
目尻の皺を深くした蘇伯は、不気味に笑った。
「不思議なことに、ゴホッ……体は病にむしばまれ、衰えるにつれ、ゴホッ……脳漿は澄み渡るものよ……。ゴホッ、入ってくれ」
蘇伯が、戸の向こう側に声を放った。
すると――。
不敵な笑みを浮かべている。田銀に勝るとも劣らない丈夫だった。戸を開け放ち、悠然と部屋に入ってきた者は、黒い胡服をまとい、毛皮の外套を羽織っていた。
蘇伯は、その者を見遣って、田銀に紹介した。
「鮮卑の大人、卑弥だ。ゴホッ……力を貸してくれる……」
卑弥は、冷然とした目つきで、田銀を見下ろした。
「我らが魁、軻比能さまも、今回の話は乗り気だ。久方振りに塞内で暴れられる――とな」
卑弥は、にいっと、笑った。
力の籠った目線で、卑弥を睨め上げた田銀にも、似たような笑みが浮いた。
河北の冀州に、不穏な空気が流れていることなど露とも知らず、曹操は、版図拡大の進路を西に取った。南の孫権と劉備に備えるべく、主力の半分を荊州に割き、残りの兵力で西の遠征に乗り出したのである。
許の都に帝を擁した曹操は、第二の都のように、冀州魏郡鄴の地を基地としていた。かつて、袁紹が本拠としたところであり、許の都との往来もそれほど難しくない。
漢の丞相の地位にあった曹操は、鄴の一切を副丞相かつ息子の曹丕に託し、征西に挑んでいた。
「このままでは、我ら冀州の民は、曹操の猛政に耐え兼ね、無駄に命を落すことになりかねん! 奴は、悪戯に民を喰い者にする乱世の奸雄にすぎぬ! 皆の者、立ち上がれ! 反旗を翻すは、曹操が西に向かった今ぞ!」
易県の城郭で守兵と民を前に、高らかに声を上げたのは、田銀だった。兵たちからも慕われる兵長である。見た目も立派で勤勉だった田銀は、民からの尊敬も厚かった。その田銀が、曹操に反旗の標を掲げた。
「そうだ! これまで我慢してきたが、もう我慢ならねえ!」
「戦がなくなっても、生活が苦しいのは変わらねえじゃねえか!」
不満が高まっていた易県の城郭に住まう者は、意気投合した。
同じようなことが、冀州の各城郭で起きた。
病軀の蘇伯は、各城郭の兵や民を扇動し、一斉蜂起の機会をうかがっていた。
そして、ときは来た。曹操が冀州を留守にした今だった。
各地での蜂起は、かねてより示し合わせていたように、ひとつにまとまると、またたく間に、五万もの勢力に膨れ上がったのである。
「向かうは、鄴だ! もう我慢する必要はない! 我らの怒りで、鄴の地を飲み込むのだ! 進めい――‼」
盟主の田銀が、剣を振りかざした。
怒濤の叛乱軍は、鄴を目指して南下し始めた。
蘇伯は、馬上にあった。間もなく、叛乱の狼煙が上がると見定めた蘇伯は、気力を振り絞って鮮卑の地へ向かった。
長城を越え、代郡の北三百里(約一二九㎞)にある弾汙山の麓、啜仇水の畔までたどり着いた。広大な原野に無数の穹廬が張られている。
辺りには、放牧された羊や、騎馬を駈る鮮卑族の姿が見渡せた。
一際大きな穹廬があった。馬を寄せる蘇伯の姿に気づいた番士のような鮮卑の兵が、中に入った。すぐに穹廬から姿を現したのは、見覚えのある丈夫、卑弥だった。
「見上げたものだ。その体で、約定を絶対のものにしに来たか」
青ざめた顔色の蘇伯を見遣り、卑弥は薄ら笑った。
乱れた頭髪もそのままに、馬から下りた蘇伯は、ふらつきながら、ひとしきり咳き込んだ。
「軻比能さまなら、中におられる」
薄い笑みを浮かべたまま、卑弥は、蘇伯を穹廬に招き入れた。
咳が治まる気配のない蘇伯は、口許を手でおさえたまま、穹廬の中に足を踏み入れた。
漆黒の胡服に身を包んでいる。口許から右の耳朶にかけて傷痕があった。冷然とした眼光を放つ偉丈夫は、獣毛に覆われた長椅子に悠然と体を預けていた。
「軻比能さまだ」
出入り口の側に立った卑弥は、力なく腰を下ろした蘇伯の背に声を投げた。
「その様子じゃあ、冀州まで還れそうにねえな」
軻比能は、下卑た笑みをさらした。
「元よりそのつもり。ゴホッ……機は熟した。お主らが鄴に侵攻すれば……ゴホッ、曹操打倒は成る……」
目の下が黒ずんだような蘇伯は、底光る目で軻比能を見据えた。
「そっちの規模は……?」
「ゴホッ……五万は、下らぬと見ている……」
「悪くねえ数だ。このまま河北が鮮卑の定住地になっても、怨むんじゃねえぞ」
口許を両手でおさえた蘇伯は、咳き込んだ。指の隙間から、鮮血が滴り落ちた。口の周りが血でまみれた蘇伯は、荒げた息で軻比能を睨み据えた。
「……貴様が、ゴホッ、我らに加担しないことの方こそ怨む」
意気込んだ蘇伯に、軻比能は、にいっと笑った。傷痕が別の生き物のように動いた。
「対価は?」
「冀州でも幽州でもくれてやる。ゴホッ……だが、軻比能よ……我が命に懸け、決して約定を違えるでないぞ……」
蘇伯は、不気味に笑った。口の中は真っ赤だった。おもむろに、腰に佩びた短剣を抜き放つと、己の首元に突き立てた。勢いよく、うっ伏すようにして首を貫いた。蘇伯は、軻比能に土下座するような姿勢のまま果てた。
首を貫いた短剣は、血塗られていた。動かなくなった蘇伯の周りには、ゆっくりと血汐が広がった。
驚愕で目を剥いたのは、蘇伯の後方に立っていた卑弥だった。
「おいおい、散らかすんじゃねえよ」
軻比能は、蘇伯の屍体に、蔑むような視線を送った。長椅子から腰を上げると、物言わぬ蘇伯には目もくれず、穹廬の出入り口に向かった。
「軻比能さま……?」
卑弥は、真意を確かめるべく、その名を呼んだ。
「久方振りの塞内だ。無臣氐を呼べ」
「かしこまりました」
穹廬の外に出た軻比能の背に、卑弥は静かに、こうべを垂れた。




