戦禍
程昱……曹操に仕える初老の謀士。田豫の育成を委ねられる。
田豫……流浪の英雄、劉備に憧れを抱く曹操の臣。
曹操……華北を統べる群雄。田豫の才覚を見抜く。
廉正……田豫の志に共鳴する腹心。実直な性質の槍遣い。
烏倫……田豫の従者。鮮卑人と漢人の混血。
公孫琳……田豫が救出した公孫瓚の四女。衛沈に師事し、田豫の許へ馳せ参じる。
衛沈……北の辺境を往来する医の徒。田豫の草庵を預かる。公孫琳の医術の師。
閻柔……護烏丸校尉。北方異民族に慕われる陰の指導者であり、烏倫の育ての親。
阮阜……荊州南陽郡西鄂県の近隣で跋扈する賊徒のひとり。
阮奕……阮阜の若妻。
豫州汝南郡朗陵の県令に就け――。
田豫の許に、許の都より伝令がもたらされていた。
田豫だけではない。廉正と烏倫、そして、公孫琳も出立の準備を整えていた。
「本当に……出て行かれるのですか?」
官吏たちは、荷造りする田豫に、不安げな面持をさらした。
「中央からの指令だからな。従わねばならん」
田豫は、官吏たちに破顔した。
「情けない顔をするな。何も心配はいらん。後任の県令どのにも、この城郭の子細を書き記したものを残してある。それに、お主らならば、西鄂の民の笑顔を護れよう。もう少し自信を持て」
官吏たちは、不安の浮いた顔を見せ合った。互いの面貌に意気がみなぎるのを確認すると、うなずき合った。
「田豫さま……」
田豫は、整然と居並んだ官吏たちを見上げた。
「これまでのご恩に報いるべく、我ら一丸となって西鄂の治世に励みまする」
胸の前に手を重ね合わせ、深々と、こうべを垂れた。
「その意気だ」
にこりと微笑んだ田豫が、荷を担いで官舎の外に出ると、待っていたのは、荷造りを終えた廉正と烏倫、公孫琳だった。
城郭の民草と守兵たちも、総出で駈けつけていた。
その民の垣根を割るように姿を現したのは、腰の曲がった四人の里正だった。
「田豫さまには、いつまでも西鄂に留まって欲しかったが……」
「否、このお方は大事を成すお方。ここに留まるべきではない」
「ほんに、田豫さまには感謝してもしきれませぬじゃ」
「どうか、別の土地でも、我らのような民をお救いくだされ」
四人の里正は、そろって、田豫に一揖してみせた。
「どこにいても、この城郭が発展するよう祈っております。皆さんも、どうか長生きしてください」
田豫は、里正たちに向かって慇懃に低頭した。
「田豫さま――」
「田豫さま――」
名残惜しそうな民草が、田豫に呼びかけた。
すると――。
「行かないでくれよ!」
民の群れから、大音声を上げた者があった。民草の垣根が割れ、姿を現したのは、妻と赤子を伴った阮阜だった。
「ずっと、ここの県令でいてくれよ、田豫さま。頼むから、行かないでくれよ……」
阮阜は、切実な態度で懇願した。
後ろに控えた妻の阮奕も、期待の眸子を田豫に注いだ。
廉正と烏倫、そして、公孫琳は、互いに互いの顔を見せ合った。どれも優しい笑みが浮いていた。
田豫は、阮阜の肩に、そっと手を置いた。
「その言葉が聞けただけでも、私は嬉しい」
騎乗した田豫は、首を立てた。見渡す限りの一群を眺めた。
廉正たちも、それぞれの馬に跨った。
「どこにいようと、私はこの城郭を見ている! 今度は、己らの手で、城郭を豊かにする姿を見せてくれ!」
田豫の声調に、辺りは粛となった。
「応……」
誰かの小さな声が聞こえた。
「応」
方々から上がった声は、次第に大きな返事となった。
「応――‼」
にこりと微笑んだ田豫は、守兵たちを見遣った。口を一文字に引き結んだ田豫は、ひとつ、頷首した。
田豫からの言葉を待っていた兵たちは、その身が引き締まったようだった。全員が整然と拱手すると、田豫に礼を施した。
田豫は、馬首を巡らせ、開け放たれた城門へ向かった。
それに、烏倫と公孫琳が続く。
厳つい面構えの廉正は、秩序を備えた兵たちを見遣った。これまでに見たこともないほどの破顔をさらすと、馬首を回した。
城門をくぐった田豫たちの後を追い、別れを惜しむ民草が、いつまでも後をついてきた。
「引き留めても無駄なことは、もうわかったよ……」
歩を止めて、声を放ったのは、阮阜だった。
田豫は、馬を止めて振り返った。三百ほどの民が追従していた。
「あんたが治めた城郭が、いつまでも安穏であれば、あんたは偉くなって、平和な城郭をもっと増やしてくれるんだな?」
にこりと微笑んだ田豫は、前を向いて再び駒を進めた。拳を握った右腕が、天に突き上がった。
それを認めた阮阜に、不敵な笑みが浮いた。
「……やってやるよ」
阮阜は、つぶやいた。田豫の背を見遣り、両手を口許に添えると、咆えるような語勢を放った。
「田豫さま、ありがとよ――‼」
「田豫さま――」
「田豫さま――」
民たちは、声援を送って田豫たちと別れた。
田豫の右腕が、いつまでも上がっていた。
それから後、田豫は、朗陵の県令、汝南郡弋陽の太守を歴任し、各地で治績を挙げることになる。
「いざ、西鄂を出るとなると、名残惜しいものだな……」
「ええ。仲良くなれた人たちとも、お別れでございますもの……」
廉正に轡を並べた公孫琳が、残念そうに首を振った。
「そう言うな。別れもあれば、出会いもある。次の城郭に期待を膨らまそうではないか」
廉正と公孫琳の前を進む田豫が、後方を一瞥した。
烏倫は、三人を先導するように駒を進めている。その烏倫が、おもむろに馬を止めた。振り返ると、遠方に目を凝らした。
手綱を引いた田豫たちも、烏倫の視線を追うように顔を向けた。
にわかに馬蹄が聞こえている。見えてきたのは、馳せ寄せる一騎だった。許の都から放たれた探馬のようだった。
「待たれい! 待たれい、田豫どの! 急報でござる!」
馬上の者は、声を放った。砂塵にまみれた伝令は、一目散に駈けつけると、馬から飛び下りて田豫の前に拝跪した。
「一体、どうしたというのだ……?」
田豫の面貌に、怪訝の色が浮いた。
廉正と烏倫と公孫琳も、訝しげな表情を互いに見せ合った。
伝令は、息を切らせて告げた。
「戦禍の火種が……この辺りにまで及ぶことが懸念されるため……田豫どののお耳に入れるようにとのご指示……」
田豫の顔色が、愁眉に染まった。
伝令の兵は、呼吸を整えて続けた。
「我が軍を前に、新野の劉備が十万の民を引き連れ南に逃亡――」
「じゅ、十万――⁉ な、何だ……その十万の民とは……?」
伝令の話に聞き入っていた廉正の声質が裏返った。
「劉備を慕う民が、挙って、その後につき従ったのです」
「十万もの民が、自らの意思で住み慣れた土地と住まいを捨て、逃げる劉備どのに追従したのか……?」
目を剥いた廉正に、こくりと、うなずき返した伝令は続けた。
「盾となったような民の群れに疲れが見え始めた折、我が軍は劉備軍に猛攻を仕かけ申したが、趙雲という武将の働き著しく、劉備を取り逃がしてございます」
――趙雲どの⁉ 劉備さまの許に戻られていた‼
驚愕の色を帯びた田豫は、胸をなで下ろした。
「劉備は、夏口に入った模様。我が軍は、荊州を南下中でございます。状況により、田豫どのにも招集命令があるやもしれませぬ」
河北を平定した曹操は、烏丸の地へも楔を打ち込むと、南の荊州へ兵を向けていた。
荊州の牧だった劉表が病死すると、曹操に降伏する者が大半を占めた。しかし、一部の民は、曹操への降伏を拒み、劉表の客将だった劉備に追従していたのである。
「わかった。報せてくれて、よかった」
「はっ」
かぶりを垂れた伝令は、再び馬上の人となると、取って返したように駈け去った。
「今や、ここからほどない南が、最前線ということか……」
田豫に駒を寄せた廉正が、眉間の皺を濃くした。
――十万の民をも魅了するとは、やはり、並々ならぬ大器。
にやけ面となった田豫は、馬腹を蹴った。
「さあ、先を急ごう」
田豫は、馬を駈けさせた。
西暦二〇八年、冬――。
吐く息は白く、肌寒さを感じる季節となっていた。
もたらされた急報に、耳を疑った田豫は、櫓に身を運んだ。まるで、長江が、天下統一に向けた覇道の遠征を阻んだようだった。
曹操が、敗れた。
二十万を超える水軍を要した戦だった。それが、長江以南に蟠踞する雄、孫権に敗北を喫した。その水軍は、数万ほどだったという。
田豫の胸中は、ざわついた。
そして、孫権に与した、ひとりの英雄の名があった。連合した二雄が、曹操を敗北させたように伝わっていた。
その英雄の名こそ、劉備だった。今や、流浪の英雄、劉備は、荊州の南四郡に拠る土地を得ていた。
田豫は、空を見上げた。
南の空が、厚い雲に覆われていた。一羽の鷹が、空を舞っているのが見えた。
お読みいただき、ありがとうございます。明日19時更新の第42話より、不穏な北の辺境で、中原で実績を上げた田豫の真価が、問われることに――。どうぞ、お楽しみに!




