赤子
程昱……曹操に仕える初老の謀士。田豫の育成を委ねられる。
田豫……流浪の英雄、劉備に憧れを抱く曹操の臣。
曹操……華北を統べる群雄。田豫の才覚を見抜く。
廉正……田豫の志に共鳴する腹心。実直な性質の槍遣い。
烏倫……田豫の従者。鮮卑人と漢人の混血。
公孫琳……田豫が救出した公孫瓚の四女。衛沈に師事し、田豫の許へ馳せ参じる。
衛沈……北の辺境を往来する医の徒。田豫の草庵を預かる。公孫琳の医術の師。
閻柔……護烏丸校尉。北方異民族に慕われる陰の指導者であり、烏倫の育ての親。
阮阜……荊州南陽郡西鄂県の近隣で跋扈する賊徒のひとり。
阮奕……阮阜の若妻。
「一の構え‼ 二の構え‼ 三の構え――‼」
官舎の前で行われる調練は、朝夕、二回となっていた。
姿をくらましていた兵たちは、徐々に戻っていた。八人だった兵の宙を斬る槍風の音が、重なってひとつに聞こえ始めた頃、気づけば、日増しに兵の数が増えていた。
今では、三百ほどの守兵を半分ずつ、朝と夕に調練している。半分は、城壁の修復作業と城郭の巡察、そして、櫓に立って見張りに当たる。手の空いた者は、田豫に従い田畑を耕した。
手本のような廉正を前に、百人を超える兵が、かけ声と共に見せる一連の動作は、民の目に精強な兵として映った。
田豫は、調練を終えた兵たちの前で指示した。
「遠からず、城郭に戻る賊徒がいるだろう。それに気づけども、決して咎めるな」
そんな折――。
こそこそと身をひそめながら城郭に近づく、ひとりの賊徒の姿があった。ほかでもない、髭面の阮阜だった。
――もう、生まれているかもしれねえ。
阮阜は、身重の妻が、気が気で仕方なかった。以前は、異民族のような身形をした者に捕らえられ、同胞が城郭に押し寄せたのにまぎれ、逃げることで手一杯だった。
今にも崩れ落ちそうだった城壁は、修繕されている。城壁に沿って移動した阮阜は、強固な城の壁に目を瞠った。抜き足で開け放たれた城門をくぐると、城門は三重に補強されていた。
櫓に身を置いた兵も、以前とは一味違った。任務を遂行する気概が戻っている。侵入した者が賊徒と認めた二人の兵は、互いに顔を見合わせると、うなずき合った。
「なっ――⁉」
阮阜は、城郭の様子に驚愕した。
声を張り上げ、一糸乱れぬ動きで槍を振る兵たちは、すこぶる精強に見えた。
田畑に目を遣れば、老夫に混ざり、兵も鍬を振り下ろしている。
足の悪い老婆に、官吏が手を差し延べている。
黄色い声を上げた子どもたちが、元気に駈け回っていた。
城郭を歩く民は、どれも笑顔が絶えなかったのである。
「ど、どういうこった――⁉」
面貌に浮いた驚きの色をそのままに、阮阜は、己が家に急いだ。
「奕や、奕や!」
若妻の名を呼びながら、阮阜は勢いよく戸を開けた。
「あんた……」
若妻の阮奕が抱えていたのは、玉のような赤子だった。笑みをたたえた阮奕は、夫の阮阜に歩み寄ると、赤子を見せた。
「無事に生まれました。元気な男の子です。公孫琳さまが、取り上げてくれたのです」
「こ、公孫琳……?」
「県令の田豫さまにお仕えする女医さまでございます。公孫琳さまがいなければ、私もこの子も、どうなっていたかわかりませぬ」
阮奕は、うとうとと眠る赤子を揺すりながら、微笑んだ。
「県令に……虐げられてねえのか……?」
眉宇をひそめた阮阜は、声を顫わせて阮奕を見遣った。
妻の阮奕は、左右に、こうべを振った。
「虐げられてなどおりませぬ。田豫さまは、私たちのため、日夜尽力されております。この城郭は、田豫さまが来てから変わりました。皆、不満なく暮らしております」
阮奕は、赤子を阮阜の胸に押しつけるようにして抱かせた。
大切なものを抱えるように、阮阜は赤ん坊の体を包んだ。玉のような我が子に、顔が自然とほころんだ。
「阜や、還ってこい。お主ら若人の代わりに、田豫さまが田畑を耕してくれておる。このような県令さまは、これまでおらんかった。我らの話にもよく耳を貸してくださる。このままでは、お前に罰が当たるぞ」
奥から出てきた腰の曲がった老夫が、阮阜を諭した。
「この城郭の守兵も見違えたよ。どんな賊徒が現れても、必ず私たちを護ってくれる。何も心配などありゃあせん。皆を連れ戻すがよろしい。戻っても、田豫さまは、お前さんらを咎めはせんじゃろ」
老夫の後ろから、腰に両手を添えた老婆が柔和な笑みをたたえた。
阮阜は、阮奕を瞶めた。次いで、老いた父母に目を向けた。どれも笑みを浮かべている。阮阜は、手許の赤子に視線を落とした。
「父親が傍におらねば、この子が不憫ではありませぬか」
阮奕は、にこと微笑んだ。
いたたまれなくなった阮阜は、赤子を優しく阮奕の胸に還した。踵を回すと、振り返りもせず家屋を飛び出していった。
「あんた――」
阮阜は、妻の阮奕の声を振り切って走った。
――戦っても、あんな精強な兵に勝てっこねえ。一体、俺たちがやってきたことは、何だったんだ? 賊徒なんて、ばかばかしい。家族が大切にされてんなら、県令に従った方が得じゃねえか。
苦虫を噛みしめたような面様となった阮阜は、一目散に駈けて城門の外に出た。
そして、数日後――。
けたたましく鳴らされたのは、南の櫓の鉦だった。敵襲が寄せた時に鳴らすことになっていた。
「賊徒だ‼ もの凄い数の賊徒が、一斉に寄せてきたぞ――‼」
物見の兵が、櫓から声を張っている。
調練のさなかにあった兵たちは、その動きを止め、開け放たれた城門に目を瞠った。
「隊伍を組め――‼」
響いたのは、廉正の大音声だった。
その声に弾かれたような兵たちは、五人一組となると、壁のように居並んだ。民草たちの盾となるよう南の城門を向いている。
作業をしていた兵たちも、駈け寄って五人一組になると、兵の壁は三段になった。
出歩いていた老人たちは、官吏や子どもたちに手を引かれている。逃げ惑う民草たちは、兵たちの後ろに隠れるように走った。
すうっと、兵たちの前に姿を現したのは、田豫だった。南の城門に冴えた眼眸を向けている。
田豫の許には、廉正と烏倫、そして、公孫琳も駈けつけた。
堂々としたものだった。賊徒が、ひとり、二人と、続々と城門をくぐり、城郭に入ってくると、見る間にその数は、五百ほどに上った。
五百の賊徒は、歩を止めると、兵の壁と対峙した。
立ち並んだ賊徒の後方から、田豫の前に歩み出たのは、髭面の阮阜だった。阮阜は、挑むような目つきを田豫に投げた。
すると――。




