職務
程昱……曹操に仕える初老の謀士。田豫の育成を委ねられる。
田豫……流浪の英雄、劉備に憧れを抱く曹操の臣。
曹操……華北を統べる群雄。田豫の才覚を見抜く。
廉正……田豫の志に共鳴する腹心。実直な性質の槍遣い。
烏倫……田豫の従者。鮮卑人と漢人の混血。
公孫琳……田豫が救出した公孫瓚の四女。衛沈に師事し、田豫の許へ馳せ参じる。
衛沈……北の辺境を往来する医の徒。田豫の草庵を預かる。公孫琳の医術の師。
閻柔……護烏丸校尉。北方異民族に慕われる陰の指導者であり、烏倫の育ての親。
阮阜……荊州南陽郡西鄂県の近隣で跋扈する賊徒のひとり。
隣の部屋から聞こえてきたのは、子どもたちの無邪気な笑い声だった。そこは、今や診療室と化した執務室だった。公孫琳が愛玩している栗鼠の話を聞き知り、たわむれに訪れているようだった。
その黄色い声を耳にした田豫の双眼は、閃きに冴えた光を放った。
「よし。では、こうしよう……」
田豫の周りに廉正と烏倫、そして、官吏たちが肩を寄せ合った。
明くる日、廉正の前には、浮かない顔の八人の兵が集った。どれも槍を携えている。
廉正は、八人の前で昂然と胸を張った。
「お前たちを鍛え上げる! 我にならえ!」
大音声を発した廉正は、腰を落として槍を構えた。
「一の構え‼ 二の構え‼ 三の構え――‼」
廉正が槍を振るたびに、びゅうっと、空を斬る音が立った。
見よう見まねで、槍を振る兵たちの一閃は、どれも宙を泳いだ。
「声を張れ‼ 一振り一振りに気を込めるのだ‼ 一の構え‼ 二の構え‼ 三の構え――‼」
そこへ、ふらりと現れたのは、矛を手にした胡服の烏倫だった。烏倫は、廉正の隣に立つと、矛を構えた。
びゅうっ――。
その一閃は、虚空を斬った。
「一の構え‼ 二の構え‼ 三の構え――‼」
烏倫は、廉正のかけ声に合わせ、息をも乱れぬ、寸部違わない模写したような動きを披露したのである。
「おお……」
唖然とした八人の兵からは、感嘆の声振が上がった。
「どうだ? お主らも鍛錬すれば、これくらい、すぐにできるようになる! そして、強くもなる!」
兵たちの目の色が変わったようだった。空を斬る音が鳴り始めた。腰が入った兵たちの動きは、先ほどとは違った。
「一の構え‼ 二の構え‼ 三の構え――‼」
官舎の前で、かけ声が響き始めた。
兵たちの動きに変化が見え始めたと見るや、静かに離脱した烏倫は、駒を駈って城郭を出た。向かったのは賊徒たちの巣窟だった。
腰には、弓の収まる弓嚢と、矢束が入った胡禄を引っ提げている。賊徒たちがひそむ林の側まで馬を寄せると、林の中へ弧を描くように二、三の矢を放った。その矢の先端には、どれも小さな木札が結わえつけられている。
降伏すれば、罪は問わない――。
木札には、そう記されていた。
烏倫は、馬首を巡らせると、颯爽と別の林の方に駒を駈った。
青嚢を背負った公孫琳は、助手のような官吏を従え、城郭の一軒一軒を訪ね歩いた。病人がいれば薬を処方し、官舎に診療所を開設したことを触れて回った。
診療所には、怪我をした者が訪れるようになった。それにも増して、栗鼠とのたわむれを求めに、子どもたちの方がよく訪れた。
そして、田豫は――。
里正たちに一定期間の減税を申し伝えると、官吏と兵たちを率い、自ら城郭内の田畑を耕した。そればかりではない、城壁を修復し、城門を三重にする工事に入った。
しかし――。
賊徒におびえる素振りも見せず、城門は、常に開け放ったままだったのである。
根城に射込まれた木札の文言と、遠くに見える城郭の様子に、賊徒たちは、挙って眉宇をひそめた。
「これは、県令の罠かもしれねえ」
「違えねえ。開け放たれた城門は、俺たちを誘っているんだ」
「そうとなりゃあ、引っかかってたまるか」
「こりゃあ、しばらく様子を見た方がいい」
賊徒たちは、身をひそめ、遠くから城郭に目を光らせた。
それから、しばらくの時が経った。
この間、田豫は、自らのみならず、官吏たちにも現地に赴くこと、見たものを誇張なく正確に伝えること、そして、民草の声を真摯に聞くことを徹底させた。
その目的は、名声や富を追い求めるものではなく、職務を完璧に遂行することにほかならなかった。
そして――。
「これを皆のために使ってくれ」
「よ、よろしいのでございますか――⁉」
里正たちは、どれも目を剥いて田豫に驚愕した。
無理もない。田豫が里正たちに手渡したのは、五銖銭だったのである。それは、田豫が中央から支給された手当の一部だった。
「これで、民に笑顔が戻るのであれば、安いものだ」
田豫は、破顔した。
「なんと、ありがたや、ありがたや」
里正たちは、田豫を拝むようにして、慇懃に低頭した。
「私たちが裕福になることはなさそうだな」
裾がほころび、薄汚れた戦袍を着込んでいる。執務室に居合わせた廉正が、田豫に皮肉な笑みを見せた。
「すまない。苦労をかける」
「そんなことはない。さすがは、私が見込んだ男だとさえ思える。毎日、生きている実感があるのも、お前のお陰だ」
廉正の言葉を耳にした烏倫は、微笑を浮かべて、うなずいた。
「民を思う気持ちの強いお方なのは、皆、知っておりますとも。田豫さまが、お優しいお方だということも……」
公孫琳は、嫣然と微笑んだ。胸に抱いた恋慕の情が、笑みに浮いていた。近づいて、その想いを打ち明ける勇気はないようだった。




