↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

38/44

職務

程昱《ていいく》……曹操《そうそう》に仕える初老の謀士。田豫の育成を委ねられる。

田豫《でんよ》……流浪の英雄、劉備《りゅうび》に憧れを抱く曹操の臣。

曹操《そうそう》……華北を統べる群雄。田豫の才覚を見抜く。

廉正《れんせい》……田豫の志に共鳴する腹心。実直な性質《たち》の槍遣い。

烏倫《ウルン》……田豫の従者。鮮卑《せんぴ》人と漢人の混血。

公孫琳《こうそんりん》……田豫が救出した公孫瓚の四女。衛沈《えいちん》に師事し、田豫の許へ馳せ参じる。

衛沈《えいちん》……北の辺境を往来する医の徒《と》。田豫の草庵を預かる。公孫琳の医術の師。

閻柔《えんじゅう》……護烏丸校尉。北方異民族に慕われる陰の指導者であり、烏倫の育ての親。

阮阜《げんふ》……荊州南陽郡西鄂県の近隣で跋扈する賊徒のひとり。


 隣の部屋から聞こえてきたのは、子どもたちの無邪気な笑い声だった。そこは、今や診療室と化した執務室だった。公孫琳《こうそんりん》が愛玩している栗鼠《りす》の話を聞き知り、たわむれに訪れているようだった。

 その黄色い声を耳にした田豫《でんよ》の双眼は、閃きに冴えた光を放った。

「よし。では、こうしよう……」

 田豫の周りに廉正《れんせい》と烏倫《ウルン》、そして、官吏たちが肩を寄せ合った。

 明くる日、廉正の前には、浮かない顔の八人の兵が集った。どれも槍を携えている。

 廉正は、八人の前で昂然と胸を張った。

「お前たちを鍛え上げる! 我にならえ!」

 大音声《だいおんじょう》を発した廉正は、腰を落として槍を構えた。

「一の構え‼ 二の構え‼ 三の構え――‼」

 廉正が槍を振るたびに、びゅうっと、空を斬る音が立った。

 見よう見まねで、槍を振る兵たちの一閃は、どれも宙を泳いだ。

「声を張れ‼ 一振り一振りに気を込めるのだ‼ 一の構え‼ 二の構え‼ 三の構え――‼」

 そこへ、ふらりと現れたのは、矛を手にした胡服の烏倫だった。烏倫は、廉正の隣に立つと、矛を構えた。

 びゅうっ――。

 その一閃は、虚空を斬った。

「一の構え‼ 二の構え‼ 三の構え――‼」

 烏倫は、廉正のかけ声に合わせ、息をも乱れぬ、寸部違わない模写したような動きを披露したのである。

「おお……」

 唖然とした八人の兵からは、感嘆の声振が上がった。

「どうだ? お主らも鍛錬すれば、これくらい、すぐにできるようになる! そして、強くもなる!」

 兵たちの目の色が変わったようだった。空を斬る音が鳴り始めた。腰が入った兵たちの動きは、先ほどとは違った。

「一の構え‼ 二の構え‼ 三の構え――‼」

 官舎の前で、かけ声が響き始めた。

 兵たちの動きに変化が見え始めたと見るや、静かに離脱した烏倫は、駒を駈って城郭《まち》を出た。向かったのは賊徒たちの巣窟だった。

 腰には、弓の収まる弓嚢《きゅうのう》と、矢束が入った胡禄《ころく》を引っ提《さ》げている。賊徒たちがひそむ林の側まで馬を寄せると、林の中へ弧を描くように二、三の矢を放った。その矢の先端には、どれも小さな木札が結わえつけられている。

 降伏すれば、罪は問わない――。

 木札には、そう記されていた。

 烏倫は、馬首を巡らせると、颯爽と別の林の方に駒を駈った。

 青嚢《せいのう》を背負った公孫琳《こうそんりん》は、助手のような官吏を従え、城郭の一軒一軒を訪ね歩いた。病人がいれば薬を処方し、官舎に診療所を開設したことを触れて回った。

 診療所には、怪我をした者が訪れるようになった。それにも増して、栗鼠とのたわむれを求めに、子どもたちの方がよく訪れた。

 そして、田豫は――。

 里正たちに一定期間の減税を申し伝えると、官吏と兵たちを率い、自ら城郭内の田畑を耕した。そればかりではない、城壁を修復し、城門を三重にする工事に入った。

 しかし――。

 賊徒におびえる素振りも見せず、城門は、常に開け放ったままだったのである。

 根城に射込まれた木札の文言と、遠くに見える城郭の様子に、賊徒たちは、挙って眉宇をひそめた。

「これは、県令の罠かもしれねえ」

「違えねえ。開け放たれた城門は、俺たちを誘っているんだ」

「そうとなりゃあ、引っかかってたまるか」

「こりゃあ、しばらく様子を見た方がいい」

 賊徒たちは、身をひそめ、遠くから城郭に目を光らせた。

 それから、しばらくの時が経った。

 この間、田豫は、自らのみならず、官吏たちにも現地に赴くこと、見たものを誇張なく正確に伝えること、そして、民草の声を真摯《しんし》に聞くことを徹底させた。

 その目的は、名声や富を追い求めるものではなく、職務を完璧に遂行することにほかならなかった。

 そして――。

「これを皆のために使ってくれ」

「よ、よろしいのでございますか――⁉」

 里正たちは、どれも目を剥いて田豫に驚愕した。

 無理もない。田豫が里正たちに手渡したのは、五銖銭だったのである。それは、田豫が中央から支給された手当の一部だった。

「これで、民に笑顔が戻るのであれば、安いものだ」

 田豫は、破顔した。

「なんと、ありがたや、ありがたや」

 里正たちは、田豫を拝むようにして、慇懃《いんぎん》に低頭した。

「私たちが裕福になることはなさそうだな」

 裾がほころび、薄汚れた戦袍を着込んでいる。執務室に居合わせた廉正が、田豫に皮肉な笑みを見せた。

「すまない。苦労をかける」

「そんなことはない。さすがは、私が見込んだ男だとさえ思える。毎日、生きている実感があるのも、お前のお陰だ」

 廉正の言葉を耳にした烏倫は、微笑を浮かべて、うなずいた。

「民を思う気持ちの強いお方なのは、皆、知っておりますとも。田豫さまが、お優しいお方だということも……」

 公孫琳は、嫣然《えんぜん》と微笑んだ。胸に抱いた恋慕の情が、笑みに浮いていた。近づいて、その想いを打ち明ける勇気はないようだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。