抵抗
程昱……曹操に仕える初老の謀士。田豫の育成を委ねられる。
田豫……流浪の英雄、劉備に憧れを抱く曹操の臣。
曹操……華北を統べる群雄。田豫の才覚を見抜く。
廉正……田豫の志に共鳴する腹心。実直な性質の槍遣い。
烏倫……田豫の従者。鮮卑人と漢人の混血。
公孫琳……田豫が救出した公孫瓚の四女。衛沈に師事し、田豫の許へ馳せ参じる。
衛沈……北の辺境を往来する医の徒。田豫の草庵を預かる。公孫琳の医術の師。
閻柔……護烏丸校尉。北方異民族に慕われる陰の指導者であり、烏倫の育ての親。
阮阜……荊州南陽郡西鄂県の近隣で跋扈する賊徒のひとり。
聞こえてきたのは、鯨波の声だった。
はっとした田豫は、開け放たれた城門に視線を遣った。
雪崩れ込んできたのは、徒党を組んだ数百の賊徒だった。
城郭の櫓からは、異変を告げる鉦は鳴らなかった。
烏倫は、とっさに田豫を後ろ背にすると、短刀を引き抜いた。
「どうした――⁉」
声を張り上げ、官舎から駈け出してきたのは、槍を片手にした廉正だった。
遅れて、公孫琳も姿を現すと、廉正に続いて田豫に駈け寄った。
「どういうこと……?」
公孫琳が怪訝の声色を洩らすのも無理はなかった。
「おっ母! 大事はないか!」
「県令に、いじめられている奴はいねえか!」
城郭に侵入した賊徒たちは、蜘蛛の子を散らしたように銘々に走った。あらかじめ決めていたように、それぞれが別々の家屋に入り、食物や衣類を持ち出している。
「な、何だ……この賊徒は……?」
目を剥き、驚愕の面持をさらした田豫を前に、阮阜は、ここぞとばかりに逃げ出した。
寄せた波が引くように、賊徒たちが退散していく。危害を加えられた者はいないようだった。城郭を護ろうとする兵もいなかった。遅れて姿を現したのは、数人の官吏たちだった。
あっという間の出来事だった。賊徒たちは、四門から同時に侵入したようだった。
一陣の風が吹いた。襤褸布が巻かれるように転がっていた。
廉正、烏倫、公孫琳が、盾のように立っていた。
眉根を寄せた田豫は、一寸ほど伸びた顎髯をなでた。開け放たれた城門を見る眼眸は、冴えていた。
狭くなった執務室で、田豫と廉正と烏倫の三人は、頭を突き合わせるようにしていた。
「この城郭は、どこか様子が面妖しい……」
切り出したのは、田豫だった。
「兵たちも、まるで城郭を護ろうとする気概がない。賊徒たちの侵入を善しとしている節さえある」
眉間に皺を寄せた廉正は、田豫と烏倫を交互に見遣った。
「この城郭の周囲にひそんだ賊徒たちが、一挙に襲来したように見えました。連携しているように見えます」
烏倫は、小首をかしげた。
官吏たちは、蝟集した三人をよそに、執務室で忙しそうにしている。だが、田豫たちの会話に耳を澄ましているようだった。
その官吏たちに目を向けた田豫は、おもむろに立ち上がった。歩を寄せて穏やかな口調で訊ねた。
「一体、この城郭で何があったというのだ? 教えてくれ」
作業に没頭していたような官吏たちの動きが止まった。
田豫の両脇に、廉正と烏倫が侍った。
「私は、唯、この城郭に住まう民に、平穏と安らぎをもたらしたいだけだ。お前たちに罪を問うようなことはせぬ。力を貸してくれ」
田豫は、官吏たちに、頭を下げた。
見合わせた廉正と烏倫も、それにならって低頭した。
官吏たちは、これまでの県令とは様子の違う田豫を前に、驚きの浮いた顔を見せ合った。その面様は、どれも無念の色に変わると、肩の力を落としてうつむいた。
「田豫どのが、ここへ赴任する前のことでございます……」
そのうちのひとりが、訥訥と語り出した。
「前任の県令どのは、民から税を巻き上げ、私腹を肥やしておりました。民を虐げ、己は贅沢の限りを尽くす。まるで人を物のように扱う方でございました」
田豫は、渋面をさらした。
別の官吏が、悔しげに続けた。
「中央から派遣された兵を己の私兵のごとく扱い、民の家に侵入させては、略奪を働かせておりました。我らもきつく諫めましたが、聞く耳持たず、気づけば、ひとり、二人と、不慮の死を遂げ申した」
「それ故に、私にも素っ気ない態度だったのか……」
合点のいった田豫は、別の官吏を見遣った。
「我らばかりではありませぬ。媚びぬ民を鞭打ち、死に至らしめた者も、数え上げれば切りがござらん」
「そして、遂に、決起した若者たちは、この城郭を捨てたのです」
「捨てた……?」
田豫は、首をかしげた。目蓋を閉じ、一寸ほど伸びた髯をなでると、刮目した。
「城郭の周囲にひそむ賊徒どもは、この城郭の若人なのか?」
田豫の言に、官吏たちはそろって、こくりと、うなずいた。
「若者たちは、血を見る蜂起を企てず、賊徒となってこの城郭を襲うことを選んだのです」
官吏のひとりが説くと、廉正の眉根が開いた。
「なるほど。賊徒どもが城郭の者とわかっておるから、ここの兵たちは城郭を護ることを止めたのか……」
「ここの守兵たちも、県令にささやかな抵抗を企てたのです。襲い来る賊徒に、抗することを止めてしまった」
「それで、その県令は、どうなった?」
田豫は、官吏のひとりを見据えて訊ねた。
「統治能わずと判断したのでしょう。荷をまとめ、財貨と共に逃げ申した。されど、県令への信を失くした若者は戻らず、賊徒となってこの城郭の周囲にひそみ、略奪を働き続けている。戻れば、処罰されることをわかっているのです……」
語った官吏に、烏倫は無念そうに、かぶりを振った。
「城郭の周囲にひそむ賊徒は、ここの民の家族――ということだな?」
田豫は、官吏ひとりひとりに目を向けて訊いた。
「左様で――」
官吏たちの声が重なった。
田豫の口辺に、微笑が浮いた。
「ありがたい。それだけわかれば、充分だ。お主らも、さぞかし辛い思いをしたのだな」
田豫の労いの言葉に、うつむいた官吏たちは泪を浮かせた。
その折――。




