睥睨
程昱……曹操に仕える初老の謀士。田豫の育成を委ねられる。
田豫……流浪の英雄、劉備に憧れを抱く曹操の臣。
曹操……華北を統べる群雄。田豫の才覚を見抜く。
廉正……田豫の志に共鳴する腹心。実直な性質の槍遣い。
烏倫……田豫の従者。鮮卑人と漢人の混血。
公孫琳……田豫が救出した公孫瓚の四女。衛沈に師事し、田豫の許へ馳せ参じる。
衛沈……北の辺境を往来する医の徒。田豫の草庵を預かる。公孫琳の医術の師。
閻柔……護烏丸校尉。北方異民族に慕われる陰の指導者であり、烏倫の育ての親。
阮阜……荊州南陽郡西鄂県の近隣で跋扈する賊徒のひとり。
殺気だった。びゅうっ――と、緑に溢れた木立の上から、宙を斬って降ったのは、一矢だった。どっと音を立て、地に突き立った。
烏倫は、それをかわしたと同時に、声も出さず草叢の中に転がった。姿が見えなくなった。
「殺ったか……?」
間もなくして、木立の陰から恐る恐る姿を現したのは、五人ほどの男どもだった。どれも無精髭を生やし、薄汚れた身形をしている。鍬や鋤などの農具を手にしていた。賊徒のようだった。
「わからん。当たったように見えたが……」
「蛮族か? 妙な恰好に見えた。この辺の者じゃねえ」
「新たな県令の手先か? 殺ったのならば、こっちが先に手を出したことにならあ」
男どもに、下卑た笑みが浮いた、その刹那だった。
「うわっ!」
悲鳴にも似た声を立てたのは、髭面の若人だった。
その声容に驚いた四人は、身をすくめて振り返った。
髭面に恐怖の色が浮いている。後ろから、はがい絞めにされた若人の首には、短刀の切っ先が突きつけられていた。
「動くな。動けば、この男の首根をかっ斬る」
切れ長の目からは、冷然とした眼光が放たれていた。烏倫は、四人の体が硬直したと見るや、若人の首に短刀を突きつけたまま、草叢をあとずさった。
「な、何てこった……」
「四人なら……殺れるんじゃねえか……?」
「否、俺たちが動けば……阮阜の命はねえ」
「あの蛮族……何者だ……?」
四人の賊徒は、若人の阮阜が烏倫に連れ去られるのを歯噛みして見送るばかりだった。
その折、田豫は、新たに執務室とした小部屋で、数人の官吏と書簡に目を通していた。
――どうも面妖しい。
それもそのはず、居合わせる官吏たちは、どれも田豫に、おびえているように見えた。
「ふむう」
溜息を吐く田豫に、官吏たちの体が、びくりと反応した。田豫とは目を合わせようともしない。
息苦しさを覚えた田豫は、官舎を出た。外では、廉正の怒鳴り声が響いていた。それを気にも留めず、田豫は、四人の里正に県令着任の挨拶に向かったのである。
ところが――。
「田畑を耕す若人がおりませぬ。田租の税を納めるは、もうしばらくお待ちくだされ」
「倍の綿絹をお納めいたします故、田租を免じていただくことはできますまいか?」
「田租の納税は難儀じゃ。老夫どもで田畑を耕す故、どうか、どうか、今回は許してはくれまいか」
年老いた里正たちは、田豫の挨拶を受けるなり、どれも租税の免除を嘆願した。
田豫は、首をかしげた。
遂には――。
「どうか、これで目をつぶってくだされ」
袖の下に、五銖銭を入れようとする里正まで現れた。
「待て、待て、待て、待て! 待ってくだされ、里正どの――」
田豫は、慌てて腰の曲がった里正を制した。
「私は、賄賂を受け取りに来たのではない。着任の挨拶に参ったのだ。しかし、これは一体どういうことだ? 私の顔を見るなり、税の話ばかりではないか」
田豫は、老いた里正に眉をひそめた。
当時、徴税には、穀物の田租と綿絹の徴発があった。男は穀物を作り、女は綿絹から織物をこしらえる塩梅である。
個々の財産に応じ、税額は上下したが、里単位で徴税額を定め納税させていた。それを管理するのが里正だった。
「どうやら、まともな県令さまのようじゃ……」
里正は、残念そうに五銖銭を懐に仕舞い込んだ。田豫に背を向けると、杖を突いて、とぼとぼと歩き出した。
「じゃが、あなたのような県令が来るのが、少し遅すぎましたわい……」
そのつぶやきを聞いた田豫は、唯、丸い背を見送るばかりだった。
今度は、田豫の方が、とぼとぼと歩く番だった。口許に手を当て、思案にふけりながら官舎に戻る途次にあった。
――この城郭に、何があった?
沈思黙考の中にあった田豫が、官舎に着いた折だった。烏倫が、ひっ捕らえた賊徒を、官舎の前に連れて来るのが見えた。賊徒の阮阜は、腕を後ろ手に縛られていた。
田豫の姿を認めた烏倫は、その前に阮阜を座らせた。
「その者は……?」
田豫は、烏倫と髭面の阮阜を交互に見遣りながら訊いた。
「この先の林に隠れておりました賊徒です」
「好きで賊徒になったわけじゃねえやい!」
烏倫を睨め上げた阮阜は、ふて腐れた。
「何か聞けるのではないかと、ひとり捕らえて参りました」
一揖した烏倫は、落ち着き払って田豫に、かぶりを垂れた。
「無理をしたのではあるまいな、烏倫? お前に怪我でもされたら、私も困る」
「心配ございません。公孫琳どのもおります故」
「そういう問題ではない」
ふっと、田豫に微笑が浮くと、烏倫も微笑んだ。
「誰だ、てめえ? 見ねえ顔だな?」
阮阜は、田豫に鋭い視線を放った。
「ここに着任したばかりの県令、田豫だ。お前は、何故、賊徒などに身をやつしている?」
「は――?」
阮阜は、目を円くした。たちまち、眸子に怒気をみなぎらせると、田豫を睥睨した。
「それは、てめえで考えろ!」
その答に、田豫が首をひねった刹那だった。




