恥
程昱……曹操に仕える初老の謀士。田豫の育成を委ねられる。
田豫……流浪の英雄、劉備に憧れを抱く曹操の臣。
曹操……華北を統べる群雄。田豫の才覚を見抜く。
廉正……田豫の志に共鳴する腹心。実直な性質の槍遣い。
烏倫……田豫の従者。鮮卑人と漢人の混血。
公孫琳……田豫が救出した公孫瓚の四女。衛沈に師事し、田豫の許へ馳せ参じる。
衛沈……北の辺境を往来する医の徒。田豫の草庵を預かる。公孫琳の医術の師。
閻柔……護烏丸校尉。北方異民族に慕われる陰の指導者であり、烏倫の育ての親。
「城郭から……出て行った……」
娘は、隣で眠る男児に向き直ると、その小さな手を握った。
「この児が生まれるのを心待ちにしていたはず……。なのに……賊徒に身を落としてしまった……」
娘の目から、一筋の泪が伝った。
公孫琳の微笑は、硬直した。
どこからともなく現れた栗鼠が、公孫琳の体を駈け上ると、頭の上で木の実をかじった。その音だけが診療所に響いた。
城郭には、三百ほどの兵が常駐しているはずだった。それも、許都から派遣された兵のはずだった。
官舎に戻った廉正は、血汐を逆流させたように面を朱にしていた。無理もない。兵を数えながら城郭を歩き回ると、六十にも満たなかったのである。加えて、どれも怠惰で脆弱だった。
――どこで、何をしている?
穂鞘に覆われた槍を携えた廉正は、兵たちに緊急招集をかけた。集ったのは、八人ほどだった。どれも槍を手にしていた。
「この城郭の兵長に就いた廉正だ……」
厳つい面貌を朱に染めた廉正の声律は、うなったように低かった。
廉正に返ってきたのは、気のない拱手だった。中には、欠伸をさらす者まであった。
「腑抜けどもめ。数万を有する曹軍の兵の中で、最弱の類と見た」
八人の兵たちは、息を呑んだ。
構わず、廉正は、ひとりひとりを睨みつけて続けた。
「脆弱な兵を養っているほど、我ら曹軍は甘くない! 今すぐここから出て行け!」
怒髪天を衝くような、廉正の怒鳴り声が響いた。
兵たちは、ふてぶてしい態度だった。
「出て行かぬのだな? ならば、私の指示に従ってもらうことになるが、本当によいな?」
廉正は、腕を組んだ。落ち着き払うと、眼前の怠惰な兵たちを静かに見据えた。
「それも納得がいかぬか。では、私を敵兵と思い、打ちかかって来るがいい。ひとりでも私を斬ることができたならば、以後、私の指示に従わずともよい。だが、全員が私に打ち据えられたならば、必ずや従ってもらう。一対八だ。悪い条件ではあるまい? それとも何か? 槍の振り方をも忘れたか?」
廉正の顔面が、残忍に歪んだ。
兵のひとりが、腰を落として怖ず怖ずと槍を構えた。それに誘われたように、ほかの兵も廉正を囲った。光る切っ先が、中心に立った廉正に向けられている。
廉正は、静かに槍を構えた。大きな体に、闘志がみなぎった。
「貴様らに欠けておるのは、規律。これから叩き込んでやろう」
刹那――。
廉正の後方から、槍の突きが奔った。
予測でもしていたような廉正は、身を翻すと、突きを放った兵の腕をしたたかに打った。その反動を利用して、隣の兵の腕も叩いた。二本、槍が地に落ちた。
それと同時に、廉正は頭上で槍を旋回させながら、反転すると、斬り込んできた兵の腹を薙いだ。そのすぐ横の兵の腹を突く。
くの字に折れ曲がった二人の兵が、仰向けに倒れた。
ひるんだ四人の兵が、あとずさった。
「どうした? 腑抜けに加え、腰までも抜けておるのか?」
不敵に笑っている。肩に槍を掲げた廉正が、四人の兵に向かって闊歩した。
「や、やあっ!」
面をこわばらせた兵が、気合を噴いて槍を振り上げた。
どっと、地を蹴った廉正は、疾風のごとく、兵の腹を薙ぎ払ってすり抜けた。向かって来た左右の兵の突きを撥ね上げ、迅業で二人の兵の腿を打ち据えた。
立っている兵は、ひとりだった。
廉正は、額に汗の浮き出たその兵に、挑むように歩を寄せた。
槍を構え、じりじりと退がる兵は、口を一文字に引き結んだ。
びゅうっ――。
左下。斬り上げの一閃が廉正に奔った。
すっと、身を仰け反らせた廉正は、頬に刃風を受けた。すぐに地面を蹴って踏み込むと、兵の懐に入った。槍の柄で兵の頭を打った。
八人の兵は、地に花が咲いたように倒れ伏している。
「これが戦ならば、貴様らは死んでいる! しかも、八人がかりで敗れるとは、己の軟弱ぶりを恥と知れ! 西鄂に弱兵は要らぬ! 明日より鍛え直す! 本当に死にたくなくば、従ってみせろ!」
廉正は、地に伏した兵を順に睨み据え、声を荒げた。ぷりぷりとした廉正は、踵を返すと官舎に姿を消した。
ふらと、城郭の外へ出たのは、烏倫だった。腰には、弓の収まった弓嚢と矢の束を収納した胡禄を引っさ提げ、短刀を佩びている。右の耳朶に着けた翡翠の耳飾りが、柔らかな風に揺れた。
その風から匂いを嗅ぎ取った胡服姿の烏倫は、肩まで伸びた髪をなびかせ、川が流れる方へ足を運んだ。
北方の辺境の大地より、土には湿気があった。それは、土の色と足の裏の感触でわかった。
烏倫は、何かが起こることを期待しながら、樹々が群落した方へ歩を向けた。近づくにつれ、緑は濃くなり、辺りは鬱蒼とした草叢となっていた。
動物はおろか、虫の泣き声すらしない。
息をひそめている。烏倫は、幾つもの視線が集まるのをひりひりと感じていた。
すると――。




