朱唇
程昱……曹操に仕える初老の謀士。田豫の育成を委ねられる。
田豫……流浪の英雄、劉備に憧れを抱く曹操の臣。
曹操……華北を統べる群雄。田豫の才覚を見抜く。
廉正……田豫の志に共鳴する腹心。実直な性質の槍遣い。
烏倫……田豫の従者。鮮卑人と漢人の混血。
公孫琳……田豫が救出した公孫瓚の四女。衛沈に師事し、田豫の許へ馳せ参じる。
衛沈……北の辺境を往来する医の徒。田豫の草庵を預かる。公孫琳の医術の師。
閻柔……護烏丸校尉。北方異民族に慕われる陰の指導者であり、烏倫の育ての親。
「あれまあ、産気づいたかえ?」
のんきな声を上げた老婆に、胡服の者からは焦燥が薄れた。
「どなたか、この人の後ろに回って、腰を押さえてください!」
「は、はい!」
慌てたような若い娘が、妊婦の上半身を持ち上げ、腰を抱えた。
二人の老婆は、ゆっくりと妊婦の周りに布を敷きつめた。
――陣痛が起きてから、声も出さずに我慢していた?
漏れ始めた血を見遣り、胡服の者は眉をひそめた。赤子の頭は、もう見えていた。
「お婆さま方、合図で、この娘の手を引いてください!」
「どれどれ」
老婆は、それぞれ、妊婦の手を取った。
「あなた、深く息を吸って! 吐いて! 深呼吸!」
胡服の者は、手本を見せるように、勢いよく息を吐き出した。首を立てると、妊婦の後ろの娘を見遣った。
「合図を出したら、背中を押して!」
「は、はい!」
胡服の者は、妊婦の足許に膝を突き、両手で両膝を抑えた。
「一、二の、三――‼」
妊婦のうなるるような叫び声が、もの凄い大きさで響き渡った。
耳を劈くほどのその声に、熱湯を運び込もうとしていた田豫たちの体は、たちまち硬直した。
直後に聞こえてきたのは、けたたましいほどの、元気な赤子の産声だった。
「お久しぶりです、田豫さま」
官舎の外で横に並んだ田豫たちを前に一揖したのは、異民族のような姿の者だった。
訝しんだ田豫は、左右に侍る廉正と烏倫を交互に見遣った。二人とも不審な表情を浮かべている。
胡服の者は、獣の帽子を取った。口許に幾重にも巻いた布を解くと、朱唇が見えた。口角が上がった。
その嫣然とした笑みに、田豫はおろか、廉正も烏倫も、飛び上がるほど驚いた。
「こ、公孫琳――⁉」
異民族の男の身形をした公孫琳は、にこと微笑んだ。長く艶やかだった黒髪は、肩の上まで短くなっていた。
「ど、どうして……ここへ……?」
目を円くした田豫は、声を裏返らせて訊いた。
「田豫さまが迎えに来るよりも早く、衛沈さまの許可をいただいたからでございます」
「衛沈どのが、許した……?」
落ち着きをなくしたような廉正が、首をかしげた。
公孫琳は、こくりと、うなずいて続けた。
「衛沈さまの許で二年、上谷郡広寧県で二年、経験を重ね、研鑽を積みましてございます」
「広寧県……?」
田豫は、眉宇を寄せた。たちまち目が引き剥かれた。
「閻柔どののところか――⁉」
「はい。漢人のみならず、鮮卑、烏丸の者も、分け隔てなく治療して参りました」
恍惚とした表情で公孫琳を瞶めていた烏倫も、閻柔の名を聞いて、懐かしさが込み上げてきたようだった。
「それにしても、どうしてここに田豫がいるとわかった?」
ふたたび、首をかしげた廉正に、公孫琳は、にこりと微笑んだ。
「西鄂に来る前、許の都に寄ったのです。城郭を歩くお髯の長い高官のようなお方に、田豫さまの所在をお訊ねしました……」
――程昱どのだ。
肩の力が抜けた田豫は、薄ら笑った。
「喜んで、ここにいることを教えてくださりました」
公孫琳は、にこにこと笑った。
すると――。
きりっと、朱唇を引き結んだ公孫琳は、田豫の前に拝跪した。
「田豫さまに拾われたこの命。田豫さまの許で、病や怪我に苦しむ人のために使いとう存じます。決して、田豫さまの足手まといにはなりませぬ。どうか、お側に置いてくださいまし」
どこからともなく一匹の栗鼠が現れると、公孫琳の頭上に、ちょこんと乗った。
腰に手を当てた廉正は、田豫を見遣った。
嬉しそうな表情の烏倫が、何度もうなずいている。
「許都から休まず駈け通したのか?」
田豫は、公孫琳に目を細めた。
「騎馬は慣れております。多少、弓も使えます」
田豫を見上げる公孫琳の眸子は、白馬義従で原野を駈ける亡父、公孫瓚を思い起こさせた。一度、目蓋を閉じた田豫は、目を開くと公孫琳を瞶めた。
「よろしく援けてくれ、公孫琳」
「はい!」
公孫琳の白面に、笑みの花が咲いた。さっと、立ち上がった公孫琳は、青嚢を背負い直した。
「よろしくお願いいたします、廉正どの、烏倫」
にこやかな公孫琳に、廉正の厳つい顔が、ほころんだ。
烏倫の頬が、ぽっと、色づいた。
田豫は、満足げに破顔した。
執務室のような部屋の隅に寝台が置かれていた。
そこに横たわっていたのは、母になったばかりの娘と、玉のような男児だった。
官舎の執務室で、しばらく母子を保護するよう指示したのは、田豫だった。
物静かな数人の官吏たちは、別の部屋で仕事に追われている。診療所と化した執務室に顔を出すのは、老いた娘の父母と、公孫琳くらいのものだった。
生まれて三日ほどの男児は、よく泣いたが、乳もよく飲んだ。
食事を運ぶ公孫琳は、母となったばかりの娘と親しくなった。親しくなると、自ずと疑念が湧いた。
「この児の父親は、ここには来ないのでしょうか?」
微笑を浮かせた公孫琳が訊くと、口籠った娘の顔色は曇った。
「無理に教えてくれなくてもいいのです。気にしないでください」
公孫琳は、平静を装った。
途端――。




