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妊婦

程昱《ていいく》……曹操《そうそう》に仕える初老の謀士。田豫の育成を委ねられる。

田豫《でんよ》……流浪の英雄、劉備《りゅうび》に憧れを抱く曹操の臣。

曹操《そうそう》……華北を統べる群雄。田豫の才覚を見抜く。

廉正《れんせい》……田豫の志に共鳴する腹心。実直な性質《たち》の槍遣い。

烏倫《ウルン》……田豫の従者。鮮卑《せんぴ》人と漢人の混血。


 荊州南陽郡西鄂県《けいしゅうなんようぐんせいがくけん》――。

 小高いところに城郭《まち》はあった。

 たどり着いた田豫《でんよ》たちは、小さな城郭を前に唖然となった。

 櫓《やぐら》に登った兵は欠伸《あくび》をさらし、門兵は立っていない。もろくも崩れ落ちそうな城壁に、開け放たれた城門は、大軍勢が攻め寄せれば、容易に打ち破られそうな造りだった。

 辺りの土地は荒廃し、開墾しようとする者の姿は見当たらない。一里(約四〇〇m)も離れれば川が流れ、樹々が生い茂るところが点在していた。

「こりゃあ、どんでもないところに来てしまったな……」

 最初に吐露したのは、廉正《れんせい》だった。

 翡翠《ひすい》の耳飾りが風に揺れている。その声を聞くともなしに、胡服《こふく》をまとった烏倫《ウルン》は、樹々が群生している辺りに、険しい眼眸《まなざし》を据えていた。西鄂県に赴くことが決まってからというもの、漢式の戦袍を脱ぎ捨て、胡服しか身につけなくなっていた。

「どうした、烏倫?」

 馬上の田豫は、浮かない顔の烏倫に首を回した。

「林の中に、人がひそんでおります。それも、一所だけではございませぬ。複数の林に身を隠した人の群れが、この城郭に目を光らせております。おそらくは、賊徒の類……」

 烏倫は、遠方の林を指差した。

 田豫と廉正は、烏倫が差した指の先に目を凝らした。

 見えたのは、立ち昇った一条の煙だった。

 烏倫は、風に含まれた細微な炊煙の匂いを嗅ぎ分けていた。

「どうやら、一筋縄ではいかないようだな」

 不敵に笑った田豫は、左右に轡《くつわ》を並べる廉正と烏倫に目配せした。

 荊州の中でも、群雄たちの支配が及んでいない土地だった。浸潤するように勢力を伸ばした曹操《そうそう》が、統治下に置いていた。しかし、明らかに統治の目は行き届いていなかった。

 馬を牽《ひ》いて、城郭に近づいた田豫は、城壁に視線をはわせた。

 廉正と烏倫も、面貌《めんぼう》に怪訝の色を散らせて、田豫にならった。

 しばらくして、田豫は、開け放たれた城門をくぐった。その城門の造りも、まじまじと見ながら通り過ぎた。

 一重の城門だった。東西南北にひとつずつあるようだった。城門からは、一筋の道路が中央の官舎に通じて延びていた。城郭は、四つの郷から成っているようだった。

 田豫は、官舎に歩を進めながら辺りを眺めた。畠を耕している者はいたが、どれも老夫だった。

 歩くのも難儀していた。田豫の前方には、膨らんだ腹を抱え、畦道を歩く身重の女がいた。

 ふと、田豫がその妊婦に目を奪われた折だった。

「うう……」

 突如、動きが止まったような妊婦が、膝を折った。腹を押さえ、苦しそうにうめいている。

「どうした――⁉」

 はっとした田豫は、妊婦の許に駈け寄った。

 驚愕の顔を見合った廉正と烏倫も、弾かれたように後を追った。

「う、生まれる……」

「な、何と――⁉」

 田豫は、たちまち狼狽《うろた》えた。これまで、許《きょ》の都で幾つもの書簡に目を通したが、妊婦に関するものは記憶になかった。

「このまま見過ごすわけにもいかぬ。どうする、田豫?」

 産気づいた妊婦の顔色をうかがった廉正は、愁眉に染まった面《つら》を田豫にさらした。

 普段は冷静な烏倫も、右往左往するばかりである。

 ちょうど、その折――。

「どいてください!」

 田豫と廉正を押しのけ、妊婦の前で膝を折った者があった。

 三人の男どもは、突如として現れた者の姿に、悸《ぎょ》っとなった。

 見れば、胡服の姿である。獣毛で作られた帽子を被り、口許は薄汚れた白い布を幾重にも巻いて覆っていた。青く滲んだ嚢《ふくろ》を背負っている。肩にちょこんと乗った一匹の栗鼠《りす》が、照れたように胡服の懐《ふところ》に隠れた。

 その胡族のような者は、妊婦の股下に手を差し延べた。その手は、青ずんで見えた。柳眉の間に皺が寄った。

「早く建物の中に――‼」

 その澄んだ大音声《だいおんじょう》に飛び上がった田豫たち三人は、妊婦を横に抱えると、急いで官舎を目指した。

 建物に飛び込んだ田豫たちに、中にいた数人の官吏たちは、挙って目を剥くと、驚愕の表情となって身をこわばらせた。

「県令の任に就いた田豫だ! この部屋を借りる!」

 声を放った田豫に、事態を飲み込めない官吏たちは、部屋の隅に身を寄せて萎縮した。

「そこに寝かせて!」

 胡族のような者の指示が響いた。懐から栗鼠が飛び出すと、部屋のどこかに姿を消した。

 田豫たちは、ゆっくりと妊婦を横にすると、安堵したように額の汗をぬぐった。

 産気づいた身重のうめき声は、留まることを知らない。

 妊婦の足許に身を屈めた胡服の者は、ふと、動きを止めると振り返った。屹《き》っと、部屋中の男たちを睨みつけて呶鳴った。

「男はさっさとここから出て行って! できるだけ多くお湯を沸かしてください! それと、清潔な布がほしい! 急いで!」

 仰天した男たちは、雷に打たれたように部屋から飛び出した。

「私たちが湯を用意する! お主らは、布を調達してくれ!」

 田豫の下知が飛ぶと、男どもは逃散したように走った。図らずも、それが西鄂の県令として、田豫が初めて飛ばした指示だった。

 妊婦の苦痛な声が、次第に大きくなっている。すでに破水は始まっていた。床に寝かされた妊婦の腰回りが、羊水で濡れている。

 胡服の者は、背負った青嚢《せいのう》から、幾つかの白く綺麗な布を取り出した。それを妊婦の尻の下や周りに敷いた。

 部屋の戸口が勢いよく開いた。中に入って来たのは、二人の老婆と若い娘だった。官吏がどこからか連れて来たのだろう。どれも抱えるほどの布を手にしていた。


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