↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

32/39

任務

程昱《ていいく》……曹操《そうそう》に仕える初老の謀士。田豫の育成を委ねられる。

田豫《でんよ》……流浪の英雄、劉備《りゅうび》に憧れを抱く曹操の臣。

曹操《そうそう》……華北を統べる群雄。田豫の才覚を見抜く。

廉正《れんせい》……田豫の志に共鳴する腹心。実直な性質《たち》の槍遣い。

烏倫《ウルン》……田豫の従者。鮮卑《せんぴ》人と漢人の混血。


 相変わらず、官服の上に胴当てを巻いていた。

 前線から許《きょ》の都に戻ったばかりの程昱《ていいく》が、官舎に姿を現した。程昱が迷わず向かったのは、山のように積まれた書簡の許だった。

 その陰に隠れるようにして、書簡を読みふけっている者がいた。

「ここに来てどれほどになる、田豫《でんよ》?」

 にやりと笑った程昱は、臍にも届く長髯をなでながら訊いた。

 顎先に一寸ほどの髯を蓄えている。はっとした田豫は、やおら立ち上がって、程昱に拱手《きょうしゅ》した。

「程昱どの、冀《き》州より戻ってらしたのですね?」

「袁《えん》家を討滅するのも時間の問題だろうからな。次なる遠征の準備に取りかからねばならぬ。して、どれほどになる?」

「四年目に入ったところです」

 程昱は、田豫の目をまじまじと見遣った。

 ――勇士の眼眸《まなざし》に、智謀が宿ったか。

「頃合いだ。次なる任務を命じる」

「次なる任務……?」

 田豫は、唯《ただ》、鸚鵡《おうむ》返した。

 程昱は、こくりと、うなずいて続けた。

「荊《けい》州に入れ。荊州と言っても、ここよりほど近い南陽《なんよう》郡の西鄂《せいがく》だ。小さな城郭《まち》だが、県令として見事、統治してみせよ」

「荊州南陽郡の西鄂県令……」

 田豫は、目を円《まる》くした。あまりの唐突の任命に、思考が止まったようだった。

「曹操《そうそう》さまが目指す統治の形は、すでに頭に入っておろう。まだそれが届いておらぬ土地なれど、治績を挙げてみせい」

 田豫には、微笑が浮いた。双眸《そうぼう》は、冴えた光を放っていた。

「うけたまわった!」

 官渡《かんと》の戦いの後、袁紹《えんしょう》が病没した。

 曹操は、袁紹の倅《せがれ》たちと小規模な戦いを繰り返し、その勢力を完全に解体すると、河北の統一を完了した。曹操は、間髪入れず行政改革を推し進めた。

 この間、田豫の心胆を寒からしめた事態が起きていた。

 北にあった曹操が、突如、軍を翻すと、許の都をも通り過ぎ、南下したのである。

 その対手《あいて》こそ、袁紹の要請に応じ、曹操の背後をうかがっていた劉備《りゅうび》だった。田豫の複雑な心中をよそに、曹操に散々打ち負かされた劉備は、荊州に奔《はし》った。

 その劉備が拠ったのは、南陽郡新野――。西鄂とは目と鼻の先だったのである。

 田豫の胸中には、憧れの英雄の姿が蘇った。

 ――今や、曹操どのの臣。劉備さまの許に還るなど、許されることではない。

 再会の衝動に駈られるたびに、田豫は己に言い聞かせた。

 ――今の私があるのは、曹操どののお陰ではないか。さまざまな政策を学ばせてもらっている。恩を仇で還すような真似はできぬ。

 出立の準備を整えながら、目蓋を閉じた田豫は、幾度もかぶりを横に振った。そのたびに、義兄弟たちの勇壮な笑みが脳裡をよぎった。

 ――一度でも会えば、全てが元に戻らないだろう。

 田豫は、荷造りを投げ出すと、大の字になって嘆息した。ふと、胸中に聞こえたのは、劉備の声だった。

 ――どこにいようと、我らの志は同じ。

 両手を頭に乗せて仰向いた田豫は、沈思黙考した。

 ――何も、劉備さまの許でなくてもいい。曹操どのの許でもできる。劉備さまと志を同じくするものが、曹操どのの許にいてもいいではないか。民を安んじ、戦乱のない世を導く。私にできることをすれば、それでよいのではなかったか?

 田豫に微笑が浮いた。起き上がると、再び荷造りに戻った。

 そうこうしている内に、廉正《れんせい》と烏倫《ウルン》が戻ってきた。

「ど、どうしたんだ……?」

 廉正は、部屋の方々にまとめられた荷を見回しながら、田豫の背に目を剥いた。

 烏倫は、深刻な表情で田豫の背を見遣った。

「次の任地が決まった。荊州南陽郡西鄂県――」

「西鄂っていやあ……新野に近いな……。まさか、田豫、この機に劉備どのへ鞍替えするなんて言うまいな?」

 厳つい顔をひそめた廉正は、田豫を瞶《みつ》めた。

 表情を変えず、烏倫も田豫の返す言葉を待った。

 田豫の動きが止まった。振り返った顔は、しかめっ面だった。それが、ぱっと、花が咲いたように破顔へ変わった。

「その思いもあった。だが、曹操どのの許でも、志を同じくすることはできる。誰の許であろうと、やることは一緒だ。だが、曹操どのの許でなければ、見えないものもある。恩義もある。私は、いつまでも曹操どのの臣だ。お前たちも、荷造りを手伝ってくれ」

 田豫は、ふたたび、作業に戻った。

 笑みを浮かせた廉正と烏倫は、互いに顔を見合わせた。

「私も烏倫も、お前について行くと決めているが、それを聞いて、どこか安心した」

 田豫の背に笑みを投げた廉正も、荷造りを始めた。

 安堵したような烏倫は、馬の手配に踵を返した。

 ――そうだった。

 荷を結ぶ手に力を込めた田豫は、皮肉に笑った。

 ――私は、もう、ひとりではなかったな。

 田豫は、馳せた迂闊な思いを反省した。同時に、廉正と烏倫を、頼もしく思ったようだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。