任務
程昱……曹操に仕える初老の謀士。田豫の育成を委ねられる。
田豫……流浪の英雄、劉備に憧れを抱く曹操の臣。
曹操……華北を統べる群雄。田豫の才覚を見抜く。
廉正……田豫の志に共鳴する腹心。実直な性質の槍遣い。
烏倫……田豫の従者。鮮卑人と漢人の混血。
相変わらず、官服の上に胴当てを巻いていた。
前線から許の都に戻ったばかりの程昱が、官舎に姿を現した。程昱が迷わず向かったのは、山のように積まれた書簡の許だった。
その陰に隠れるようにして、書簡を読みふけっている者がいた。
「ここに来てどれほどになる、田豫?」
にやりと笑った程昱は、臍にも届く長髯をなでながら訊いた。
顎先に一寸ほどの髯を蓄えている。はっとした田豫は、やおら立ち上がって、程昱に拱手した。
「程昱どの、冀州より戻ってらしたのですね?」
「袁家を討滅するのも時間の問題だろうからな。次なる遠征の準備に取りかからねばならぬ。して、どれほどになる?」
「四年目に入ったところです」
程昱は、田豫の目をまじまじと見遣った。
――勇士の眼眸に、智謀が宿ったか。
「頃合いだ。次なる任務を命じる」
「次なる任務……?」
田豫は、唯、鸚鵡返した。
程昱は、こくりと、うなずいて続けた。
「荊州に入れ。荊州と言っても、ここよりほど近い南陽郡の西鄂だ。小さな城郭だが、県令として見事、統治してみせよ」
「荊州南陽郡の西鄂県令……」
田豫は、目を円くした。あまりの唐突の任命に、思考が止まったようだった。
「曹操さまが目指す統治の形は、すでに頭に入っておろう。まだそれが届いておらぬ土地なれど、治績を挙げてみせい」
田豫には、微笑が浮いた。双眸は、冴えた光を放っていた。
「うけたまわった!」
官渡の戦いの後、袁紹が病没した。
曹操は、袁紹の倅たちと小規模な戦いを繰り返し、その勢力を完全に解体すると、河北の統一を完了した。曹操は、間髪入れず行政改革を推し進めた。
この間、田豫の心胆を寒からしめた事態が起きていた。
北にあった曹操が、突如、軍を翻すと、許の都をも通り過ぎ、南下したのである。
その対手こそ、袁紹の要請に応じ、曹操の背後をうかがっていた劉備だった。田豫の複雑な心中をよそに、曹操に散々打ち負かされた劉備は、荊州に奔った。
その劉備が拠ったのは、南陽郡新野――。西鄂とは目と鼻の先だったのである。
田豫の胸中には、憧れの英雄の姿が蘇った。
――今や、曹操どのの臣。劉備さまの許に還るなど、許されることではない。
再会の衝動に駈られるたびに、田豫は己に言い聞かせた。
――今の私があるのは、曹操どののお陰ではないか。さまざまな政策を学ばせてもらっている。恩を仇で還すような真似はできぬ。
出立の準備を整えながら、目蓋を閉じた田豫は、幾度もかぶりを横に振った。そのたびに、義兄弟たちの勇壮な笑みが脳裡をよぎった。
――一度でも会えば、全てが元に戻らないだろう。
田豫は、荷造りを投げ出すと、大の字になって嘆息した。ふと、胸中に聞こえたのは、劉備の声だった。
――どこにいようと、我らの志は同じ。
両手を頭に乗せて仰向いた田豫は、沈思黙考した。
――何も、劉備さまの許でなくてもいい。曹操どのの許でもできる。劉備さまと志を同じくするものが、曹操どのの許にいてもいいではないか。民を安んじ、戦乱のない世を導く。私にできることをすれば、それでよいのではなかったか?
田豫に微笑が浮いた。起き上がると、再び荷造りに戻った。
そうこうしている内に、廉正と烏倫が戻ってきた。
「ど、どうしたんだ……?」
廉正は、部屋の方々にまとめられた荷を見回しながら、田豫の背に目を剥いた。
烏倫は、深刻な表情で田豫の背を見遣った。
「次の任地が決まった。荊州南陽郡西鄂県――」
「西鄂っていやあ……新野に近いな……。まさか、田豫、この機に劉備どのへ鞍替えするなんて言うまいな?」
厳つい顔をひそめた廉正は、田豫を瞶めた。
表情を変えず、烏倫も田豫の返す言葉を待った。
田豫の動きが止まった。振り返った顔は、しかめっ面だった。それが、ぱっと、花が咲いたように破顔へ変わった。
「その思いもあった。だが、曹操どのの許でも、志を同じくすることはできる。誰の許であろうと、やることは一緒だ。だが、曹操どのの許でなければ、見えないものもある。恩義もある。私は、いつまでも曹操どのの臣だ。お前たちも、荷造りを手伝ってくれ」
田豫は、ふたたび、作業に戻った。
笑みを浮かせた廉正と烏倫は、互いに顔を見合わせた。
「私も烏倫も、お前について行くと決めているが、それを聞いて、どこか安心した」
田豫の背に笑みを投げた廉正も、荷造りを始めた。
安堵したような烏倫は、馬の手配に踵を返した。
――そうだった。
荷を結ぶ手に力を込めた田豫は、皮肉に笑った。
――私は、もう、ひとりではなかったな。
田豫は、馳せた迂闊な思いを反省した。同時に、廉正と烏倫を、頼もしく思ったようだった。




