凋落
公孫瓚……幽州の将軍。騎射に優れた者を厳選した精鋭騎馬軍、白馬義従を率いる。
田豫……公孫瓚に仕官した若者。
劉虞……幽州の牧(長官)。漢の太尉(国防長官)であり、皇族。
袁紹……冀州の牧。名門の出身で、公孫瓚の仇敵。
王門……公孫瓚に仕える将校。
趙雲……常山郡から公孫瓚の許に駈けつけた義勇軍の長。
田豫の目には、白銀の鎧を着込み、ひとり用の腰掛け、胡床に座した公孫瓚が、寛容さも兼ね備える英傑に映った。幾度となく、遠くからその姿を認めていたものだが、目の前にすると、その威風に圧倒された。同時に、白馬義従の主に認められた感動もあった。
今や公孫瓚は、幽、冀、青の三州に勢力を拡大しつつあった。幽州広陽郡薊県に本拠を構え、城外に幕舎を張り、常に臨戦態勢にある。異民族出現の急報に、いつでも軍を動かせるようだった。
しかし、異民族ばかりを対手にしているわけではない。
――公孫瓚のような高圧的な対応は、いたずらに北方異民族の反撥を招く。
衰退の陰を見せる漢の朝廷の中枢は、異民族との抗争は不利と見た。辺境の騒ぎが抑えられなければ、朝廷の凋落に拍車がかかるのは、自明の理だったからである。
北方異民族に懐柔策を採った朝廷は、かつて、幽州の刺史(監察官)として烏丸、鮮卑に善政を敷き、人望の厚かった劉虞を幽州の牧(長官)として改めて派遣した。朝廷の臣としては、太尉(国防長官)の身分でもある。何よりも漢の宗室、いわば皇族だった。
――温い。奴らを甘やかしてはならんのだ。
北の辺境で生まれ育った公孫瓚は、異民族の脅威を嫌というほど味わっていた。いつしか、異民族を掃滅したい一心に凝り固まった公孫瓚にとって、朝廷の決断は不愉快極まりなかった。覚えた憤怒は、当然として劉虞に向けられた。
さらに、北辺の幽州に隣接した南の冀州において、姑息な手段で牧となった袁紹が、力をつけ始めていた。四代に渡り三公(最高位に位置する司徒、太尉、司空の官職)を輩出した名門の出身である。先年の戦で従兄弟を殺された公孫瓚にとって、まさに仇敵だった。
陰りを見せる朝廷に対し、各地に割拠する群雄が勢力を拡張している。公孫瓚も袁紹も、その一例に過ぎない。
方や朝廷は、力を持ち始めた地方の群雄に対抗すべく、一石を投じた。行政権と軍事権を持つ新たな官職、牧を設け、劉虞のような臣を就けたのである。
各地では賊が蜂起し、群雄同士が争い、戦乱は絶えない。拠りどころの定まらない民は、彷徨い、流民と化した。それは、北の辺境でも同じだった。生き場を求め、異民族の地へ逃れる者もあった。
――朝廷の権威はすでにない。ならば、覇を唱えるまで。
公孫瓚は、やおら、胡床から腰を上げた。白金の鎧を着込んだ体軀を揺らし、恍惚とした表情の田豫の脇を通りすぎると、原野に目を凝らした。
すると――。
見えたのは、巻き上がる小さな砂塵だった。その砂塵が大きくなって、近づいてくるようだった。騎馬の一群に見える。
その群れ目がけ、愛馬に一鞭くれて陣屋から飛び出したのは、哨戒の任にあった将校の王門だった。
田豫は、公孫瓚の広い背中越しに見える一群を遠望した。
しばらくすると、王門がその一群を先導して駈け戻ってきた。砂塵の正体は、三百ほどの騎馬だった。
王門と三百騎が、幕舎の手前まで駈けてきた。王門は、颯爽と馬から飛び降りると、公孫瓚の許へ走り寄せて告げた。
「義勇軍です。我が軍に従軍したいとの申し出でございます」
王門は、公孫瓚の足許にかしずき、胸の前で手を重ね合わせた。
「はっはっは。いい風が吹いているな。うむ。面通ししよう」
公孫瓚の哄笑に頷首した王門は、弾かれたように立ち上がると、足早に三百騎の方へ引き返した。
再び戻ってきた王門が伴ったのは、戦袍に身を包んだ、すがすがしいばかりの青年だった。重々しい槍を携えている。精悍な面貌に備えた朱唇には、気品があった。
田豫は、青年が醸し出す勇壮さに、目を奪われた。
その青年は、公孫瓚の前に立つと、眼前に手と手を重ねて拱手した。公孫瓚を瞶める眸子は、冴えていた。
「常山郡の趙雲と申す。我ら義勇軍、公孫瓚将軍のお味方をいたしとう存ずる」
公孫瓚は、無精髭が生えた顎をなでながら嘲笑った。
「常山郡と聞こえたが、君の郡では、袁紹を支持する者がほとんどだ。君は、なぜ、俺につこうと考えた?」
趙雲は目を細めると、涼やかな微笑を口辺に刷いた。
「天下は乱れ、未だ正道は見えず、誰を推すべきか、判断はつきかねます。ただ、民が苦難に追い遣られていることは事実。我が郡では、仁政を敷く者にこそお味方すべきとの声が大きい……」
公孫瓚は、昂然と胸を張って腕を組んだ。
静かにうなずいた趙雲は、澄んだ声音で続けた。
「決して、私情で将軍の許に馳せ参じたわけではございませぬ」
「ふむ……」
公孫瓚には、眼前の趙雲が勇壮の士に見えた。
――戦に出れば、それなりの働きをするだろう。だが、戦の最中、袁紹に寝返ることも考えられる。重用はできんな。
冷然とした眼光をたたえた公孫瓚は、満面の笑みとなった。
「歓迎しよう、趙雲。以後、王門の指示を仰げ」
「かしこまった」
すでに趙雲から興味をなくしたような公孫瓚は、踵を返して陣屋に引き返した。
丁重にかぶりを垂れた趙雲は、静かに顔を上げると、その場で辺りを見回した。軍営の雰囲気を全身で浴びているようだった。ふと、若者と視線が合った。
その視線は、趙雲を注視していた田豫のものだった。思わず、目を剥いた田豫は、体がこわばった。趙雲の冴えて澄みきった双眸を受け止めたわずかな間に、魅せられそうになった。
ふっと、趙雲に柔らかな微笑が浮いた。踵を回すと、引具してきた三百騎の許へ足早に去った。
――何と凛然とした勇士だろう。
田豫は、憧れにも似た目線で、趙雲の背を追った。




