草庵
劉虞……幽州の牧(長官)。漢の太尉(国防長官)であり、皇族。公孫瓚に討たれる。
鮮于輔……劉虞に仕える重臣。公孫瓚を仇敵とした兵を挙げ、自害に追い込む。
公孫瓚……幽州の将軍。幽州の牧である劉虞を討つが、鮮于輔らの報仇軍により、自害に追い込まれる。
袁紹……名門の出身で、公孫瓚の仇敵。鮮于輔らと連合し、公孫瓚を自害に追い込む。幽、冀、并、青の四州に勢力を誇る群雄。
閻柔……北方異民族に慕われる陰の指導者。漢人。報仇軍を挙げた鮮于輔に加担する。
斉周……劉虞に仕える重臣。鮮于輔の相棒。
田豫……流浪の英雄、劉備の志に魅かれ、憧れを抱く。主君の公孫瓚を失う。
廉正……田豫の志に共鳴する腹心。実直な性質の槍遣い。
曹操……豫、徐、兗、青の四州に勢力を伸ばす群雄。
烏倫……鮮卑人と漢人の混血。閻柔の従者のような青年。閻柔の申し出により、田豫の従者となる。
程昱……曹操に仕える初老の謀士。田豫の育成を委ねられる。
衛沈……北の辺境を往来する医の徒。田豫の草庵を預かる。
公孫琳……田豫が救出した公孫瓚の四女。
遠くに、羊の群れを追う北方民族の者たちが見えた。
田豫は、廉正と烏倫を従え、原野を疾駈していた。向かっていたのは、故郷の草庵だった。
田豫は、曹操に臣として迎えられた。そうとはいえ、形としては投降したようなものだった。衛沈に、新たな主君を仰ぐことと、許の都へ向かうことを報告しようとしていた。
――健勝にしているだろうか?
何よりも気がかりだったのは、公孫琳のことだった。あれから半年が過ぎている。体の傷は癒えただろうが、心の傷の方を気に病んだ。側には衛沈がいる。それだけが救いだった。
翡翠の耳飾りを揺らし、馬速を上げた烏倫が田豫を追い抜くと、あっという間にその背が小さくなった。
「巧みに馬を操るものだ。まだ十五かそこらだろう? 私には到底、真似できん」
田豫と轡を並べた廉正が、遠方の烏倫を眺め遣って感心した。
腰には小さな弓を収めた弓嚢と、矢の束を収納した胡禄を引っ提げている。烏倫は、鞍から腰を浮かせ、たてがみに顔をつけるほど前屈みとなり、両膝で馬体を挟むようにして駈ける。
これで、烏倫が乗る馬は、不思議と飛ぶように駈けた。進む先に異変がないか、探索する時に見せる馬術だった。時折、馬にも話しかけているようだった。鮮卑では、当たり前のことだという。
そして、よく鼻が利いた。身に迫る異変を匂いで嗅ぎ分けるだけでなく、対面する者の心情も、匂いで感じ取るような節があった。
「ああ。不思議な奴だが、成長した烏倫が、鮮卑の叛乱を防ぐ手立てになるやもしれぬな」
田豫も遠方の烏倫に目を細めた。反転して戻るようだった。
「どことなく似ていないか? かつての騎兵隊長に……」
厳つい面貌の廉正に、微笑が浮いた。
田豫も懐かしさが込み上げると、自然と笑みになった。
「趙雲どのか……。なるほどな」
田豫は、半円を描くようにして駈け戻る烏倫を目で追った。微笑んでいる。馬で駈けるのが好きなようだった。
――どうしているだろう?
田豫の胸中に趙雲の姿が思い起こされると、自ずと劉備の進退が脳裡をよぎった。徐州で劉備の許を去ってから、音沙汰を耳にしていない。かの地は、すでに曹操の版図となっている。
旧主への心配が鎌首となってもたげたが、田豫は、それに蓋をした。
――依然、雌伏の時か。だが、あのお方は必ずや人の上に立つ。
田豫は、馬腹を蹴った。草庵のある山の麓は、すぐそこだった。
見慣れぬ景色だった。
馬を牽いた三人は、見えてきた草庵の手前で歩を止めた。
薄汚れた白衣をまとっている。腰まで垂らした黒髪は、陽に照らされ緑に光って見えた。その後ろ姿からは、若い娘であることがわかった。公孫琳のようだった。
復調した公孫琳の姿に胸をなで下ろした田豫が、再び歩を進めた刹那だった。
ふと、公孫琳が振り返った。怪訝の色を浮かせた白面で、首をかしげた。ぱっと、嫣然とした笑みに変わると、草庵の中に声を放った。
「衛沈さま、衛沈さま! 田豫さまがお戻りでございます!」
その声に応じたように、草庵から衛沈が、ひょこひょこと姿を現した。笑みを浮かべ、招くように手を振っていた。
草庵の中に招かれた田豫たちは、囲炉裏端の四方を囲むように腰を下ろした。
「従者が増えたのう。身形からするに、北方民族の者か……」
衛沈は、烏倫に目を細めた。
「烏倫です。漢と鮮卑の混血。何でも、どこかの部族の大人、その子息だとか。よく馬を走らせますが、武技もあります。閻柔どのから託された、漢と鮮卑の架け橋たらん若者です」
「閻柔か……」
衛沈は、白髯をしごきながら、烏倫の右の耳朶で踊る翡翠の耳飾りを目に留めた。
かしこまった烏倫は、静かに端座している。
「なるほど。おもしろいことを考える。して、どうした? わざわざここへ来るということは、何か大きな進展があったのじゃろう?」
衛沈の顔つきが、不敵に歪んだ。
その折、公孫琳が、椀に注がれた白湯を運んできた。
「どうぞ……」
田豫は、公孫琳が差し出すその手を見遣った。どの指先も青ずんでいるのを認めた。
面々の前に、楚々と白湯を置いて回る公孫琳を、恍惚とした表情となって目で追っていたのは、頬を赤らめた烏倫だった。
公孫琳は、端正な身のこなしで、衛沈の後方に控えた。朱唇に微笑を浮かべた公孫琳の眸子は、田豫に注がれている。
「お主の姿を見て安堵した。その後、大事はないか、公孫琳?」
その視線を受けた田豫は、公孫琳を瞶め返した。
「はい。傷は、すっかり癒えました。このように命があるのも、田豫さまのお陰でございます」
深々と、こうべを垂れた公孫琳は、白面を上げると、田豫に微笑んだ。その艶やかにも美しい笑みに、廉正と烏倫の目尻が下がった。
――心の傷も癒えたか。
公孫琳に笑みを返した田豫は、厳しい顔つきとなって衛沈に向き直った。
「曹操どのに、お仕えすることになり申した」
田豫が放った低い声調に、我に返ったような廉正と烏倫も、衛沈を見据えた。
「ほう。乱世の奸雄と称される者じゃな」
うなずいた田豫は、これまでの経緯を語った。
「丞相軍謀の掾とな――⁉ そりゃあ、また、立身出世の道を与えられたものよ……」
瞠目した衛沈は、禿頭をなでた。
その後ろでは、瞳を輝かせた公孫琳が、羨望の眼眸を田豫に送っていた。
「これより、許の都に発たねばなりませぬ。衛沈さまとの再会も、いつになるやわかりませぬ」
「殊勝な奴じゃ。それゆえに、ここを訪ったか」
「公孫琳のことも気になっておりました。それに、衛沈さまからのご助言を授かれば、覚悟して許に赴けるというもの」
衛沈は、照れたように、ふっと、鼻で笑った。
すると――。




