英雄の影
劉虞……幽州の牧(長官)。漢の太尉(国防長官)であり、皇族。公孫瓚に討たれる。
鮮于輔……劉虞に仕える重臣。公孫瓚を仇敵とした兵を挙げ、自害に追い込む。
公孫瓚……幽州の将軍。幽州の牧である劉虞を討つが、鮮于輔らの報仇軍により、自害に追い込まれる。
袁紹……名門の出身で、公孫瓚の仇敵。鮮于輔らと連合し、公孫瓚を自害に追い込む。幽、冀、并、青の四州に勢力を誇る群雄。
閻柔……北方異民族に慕われる陰の指導者。漢人。報仇軍を挙げた鮮于輔に加担する。
斉周……劉虞に仕える重臣。鮮于輔の相棒。
田豫……流浪の英雄、劉備の志に魅かれ、憧れを抱く。主君の公孫瓚を失う。
廉正……田豫の志に共鳴する腹心。実直な性質の槍遣い。
曹操……豫、徐、兗、青の四州に勢力を伸ばす群雄。
烏倫……閻柔の従者のような青年。
静かに声を放った鮮于輔は、馬から下りた。
ならったように、ほかの四人も、そろって下馬した。
朝陽に照らされた一団の全貌が、次第に明らかとなった。駈け寄る騎馬は、十騎にも満たない。鮮于輔たちは、その一団を迎えるように、拱手した。
先頭を駈ける者は、赤地に金と黒の刺繍が施された戦袍を着ていた。颯爽と馬から飛び下りると、従騎した者らも、一様に地上へ降り立った。
額は広く、双眸は冴え、鼻梁は高く通り、口許は引きしまっている。その立派な面貌だけではなく、容姿から漂う正悪定まらぬ気風が人心を惹く。
「鮮于輔とは、どれだ?」
朝陽を受けたその男の眼眸は、鋭い光を放っていた。威風堂々と歩み寄る姿は、圧倒するほどの威厳を放っている。
「私でございます」
前に進み出た鮮于輔は、その男の足許で膝を折った。
男は、鋭い視線を鮮于輔に配った。
「曹操だ」
乱世の雄、曹操は、よく通る声調だった。
「わざわざ、こんなところに呼び出して悪かったな。この辺りの地勢を、この目で確かめておきたかったものでな」
曹操の口辺に、柔らかな微笑が刷かれた。
「あ、あれが、曹操……」
予想に反した姿だったのか、呆気に取られた廉正がつぶやいた。
「時間はない。手短に済ませる」
鮮于輔を瞶めた曹操の面に、厳しさが帯びた。
田豫の隣から、廉正の固唾を呑む音が聞こえた。
「よくぞ、我が許に参じてくれた――‼」
突如として、花が咲いたように、満面の笑みとなった曹操は、鮮于輔を立たせると、その手を取って強く握りしめた。
「お主らは、今や北方の有力勢力だぞ? それが、私の傘下に加わりたいとは、これほどありがたく嬉しいことはない!」
随喜を満腔で表した曹操は、鮮于輔を抱きしめた。
さすがの鮮于輔も、苦笑せざるを得なかった。これほど歓待されるとは思ってもいなかったのである。
慮外の人柄に、目を円くした廉正が、うめいた。
「こ、これが、曹操……?」
曹操は、鮮于輔から体を離すと、嬉々として訊ねた。
「この賢明な決断を下したのは、鮮于輔、君だろうが、私に帰順するよう進言した者はいたのか?」
曹操の態度に安堵した鮮于輔は、にこりと微笑んで振り返った。
「はい。こちらの田豫が、それでございます」
鮮于輔の紹介に、曹操は、鋭い目線を田豫に流した。
「ほう」
曹操の眼光を一身に受けた田豫は、雷に打たれたような衝撃が総身に奔った。その双眸は、内面を看破するようなそれだった。硬直した田豫は、唯、曹操を瞶め返すばかりだった。
「いい目をしている。なぜ、袁紹ではなく私を選んだ、田豫? 答えようによっては、この場でお前を殺す」
曹操の顔つきが、厳しいものに変わった。田豫の覚悟と、展望の機微を試しているようだった。
「なっ――⁉」
目を剥いた廉正は、心配げな面持となって、田豫を見遣った。
――この人の目は、媚びへつらいをたちまち見抜く。真意を説かねば、本当に斬られる。
腹を据えた田豫から、緊張が解かれた。視線は、曹操の瞳から外さなかった。臆することなく、よどみのない声音を放った。
「曹操どのと袁紹どの――。この二雄を比較するに、勢力として圧倒的に勝るのは袁紹どの。しかし、それを凌駕するものを、曹操どのは手にしております」
曹操の目が、すうっと、細くなった。
「それは、何だと心得る?」
低い声律で質した曹操に、田豫は、にこりと微笑んだ。
鮮于輔と閻柔、廉正と烏倫も、息を呑んで田豫の返答を待った。
「帝でございます――」
曹操は、石のように固まった。
「今は袁紹どのに与する者が多かろうと、時を要せずして、帝を擁護する曹操どのを、次代の覇者と見る者が増えましょう。じきに優劣は反転。それほど帝という存在は、我ら漢人にとっては大きい」
曹操の面貌が、不敵に歪んだ。
「合格だ、田豫。出身は……?」
「幽州は漁陽郡、擁奴県にて――」
――各地に群雄が割拠し、互いに覇を競おうとも、漢という国が潰えたわけではない。北方の辺境から国を俯瞰した真理か。
満足げにうなずいた曹操が、ふと田豫から視線を外した。
そこには、曹操に何ら畏怖の念さえ抱かず、むしろ、ふてぶてしい態度の閻柔の姿があった。
「あれが、閻柔です」
音もなく曹操に身を寄せ、耳打ちしたのは、初老で痩軀の長身だった。顎先から真っすぐに伸びた髯は、臍にまで達している。曹操に仕える腹心のようだった。
「閻柔――⁉」
またたく間に、曹操に驚喜の笑みが浮かんだ。
「君まで私の許に来てくれるのか、閻柔!」
「おっ、知ってんのか?」
少し驚いたような閻柔に馳せ寄った曹操は、その手を取って固く握った。
「これで、北方の憂いは、除かれたも同然だ」
嬉しげな曹操に、田豫は眉をひそめた。
――北方の憂い? まさか、すでに袁紹を平らげた後のことまで脳裡に描いているのか?
田豫の眉根が開くと、驚愕の面貌に変わった。田豫は、曹操の笑みに、英雄の影を認めた。
「よし!」
閻柔の手を離した曹操は、高らかに告げた。
「鮮于輔よ、君を度遼将軍に任ずる。これより、遼西、右北平、広陽、漁陽、涿、代――幽州六郡を統治せよ」
「へ――?」
鮮于輔は、唖然となった。
度遼将軍――。主に北方異民族の討伐と監視の役割を担う。数百年の歴史を持つ威厳ある官職である。もちろん、北方異民族の統治に卓越した者が就いた。
「閻柔は、護烏丸校尉とする。幽州上谷郡に入れ。鮮卑、烏丸に顔が利く存在は貴重だ。君とは、家族同等のつき合いをさせてもらう」
「は――?」
閻柔は、呆気に取られた。
護烏丸校尉――。北方異民族を管轄する軍政務官であり、幽州上谷郡広寧県に駐屯するのが習わしである。漢人と異民族が交易するための市場、胡市を開催する権限を持つ。
「田豫――」




