青嚢
田豫……公孫瓚に仕官した若者。流浪の英雄、劉備の志に魅かれ、憧れを抱く。
老母……田豫の母。田豫の活躍に期待し、他界する。
衛沈……北の辺境を往来する医の徒。
公孫瓚……幽州の将軍。幽州の牧(長官)の劉虞を討つ。
劉備……公孫瓚の学友。徐州の牧。
劉虞……幽州の牧。漢の太尉(国防長官)であり、皇族。公孫瓚に討たれる。
閻柔……北方異民族に慕われる陰の指導者。漢人。報仇軍を挙げた鮮于輔に加担する。
鮮于輔……劉虞に仕える重臣。公孫瓚を仇敵とした兵を挙げる。
袁紹……冀州の牧。名門の出身で、公孫瓚の仇敵。
楽何当……幽州の絹商人。
李移子……幽州の布商人。
劉緯台……幽州の占い師。
張飛……劉備の義兄弟で股肱の臣。
廉正……田豫の志に共鳴する腹心。実直な性質の槍遣い。
王門……公孫瓚に仕える将校。劣勢の公孫瓚を見限り、袁紹に寝返る。
「我が故郷の草庵に向かう」
廉正は、首をかしげた。しかし、疑うことはなかった。
「承知した」
廉正は、勢いよく踵を回した。間もなくして、燃え盛る炎から逃げ惑い、はぐれたような二頭の馬を牽いてきた。
娘を背に乗せた田豫は、先導する廉正を追うように駈け出した。田豫の後方から吹き込んだ風は、生暖かかった。
星の位置から方角はわかった。田豫と廉正は、夜を渡った。
東の空が、しらしら明けとなる頃――。
田豫は、故郷の草庵、その戸を叩いた。
「衛沈さま! 衛沈さまは、おられるか!」
応答を待つのもたまらず、田豫が戸を開け放ったのと同時だった。
「田豫か? どうしたのじゃ?」
驚いたような衛沈は、目を円くしていた。
田豫は、衛沈の姿に一安心すると、後方で廉正に抱えられた娘に振り返った。
「急患でございます。腹を刺されております」
眉を寄せた衛沈は、娘に近づき、その顔色と腹部を見遣った。
「急ぎ、中へ。仰向けに寝かせるのじゃ。田豫は、湯を沸かせ」
「はっ」
田豫が、前庭の竃小屋まで走ると、衛沈に促された廉正が、娘を草庵の中に寝かせた。
衛沈は、娘の白く細い腕を取ると、その脈を診た。
「相当弱っておる。だいぶ無理をしてここまで連れてきたな?」
衛沈の後方にかしずく廉正は、大きな体を縮こませた。
衛沈は、娘の召物をはだけさせ、腹部の傷を見た。
「傷口を塞ぎ、薬をあてがえば、まだ間に合う。処置が必要じゃ。あとは儂に任せ、お主らは休んでおれ」
「はっ」
深々と、かぶりを垂れた廉正は、音もなくその場を後にした。
青嚢を手許に引き寄せた衛沈は、処置に入った。煤まみれの娘の顔に視線を落とした。眠ったような娘の呼吸は、弱々しかった。
陽が、中点に達する頃合いだった。
夜通し駈け続けた田豫と廉正は、睡魔を呼んでいた。前庭の小屋の下に座り込み、互いに背を合わせるようにして眠りこけていた。
「終わったぞい」
その声に、田豫と廉正は眠気眼をこすった。
「戦場で拾ったか? 召物からするに、高貴な娘のようだが……。薬が効いておる。目を覚ますは、夕刻となろう」
「易京城から連れて参りました。今頃は、すでに燃え堕ちておりましょう。公孫瓚どのは、もはや……」
衛沈の足許で膝を折って告げた田豫は、無念そうに、こうべを左右に振った。
「鉄壁の城塞と謳われた、あの易京が堕ちたか……。天下は、まだまだ治まることを知らぬようじゃな」
衛沈は、田豫の後方にかしずいた大兵に視線を遣った。
「廉正と申す。田豫どのを主と崇め、お仕えしております」
厳つい顔立ちに、決意を宿した双瞳を備える廉正に、衛沈は微笑を浮かべた。
「よく援けてやってくれ」
「はっ」
目蓋を伏せた廉正は、胸の前で手を合わせ、衛沈に拱手した。
「さて、腹も減っておろう。日柄もいい。ここで酒食を摂りながら、土産話でも聞かせてもらおうかのう」
田豫を見遣った衛沈は、白髯をしごきながら、にやりと笑った。
陽が、西に傾いていた。
草庵を出立してからのことを切々と説く田豫に、衛沈は白髯をなでながら聞き入った。
瞑目した廉正は、胸の前で腕を組んでいた。時折、田豫に相槌を打つように頷首した。
「……君主を失ったとなれば、お主は、孤立したことになるのう」
目を細めた衛沈に、田豫は、はっとなった。
「これで、この辺りの形勢も変わる。群雄たちの興亡は、まだまだ続くであろう。より見極めねばならぬぞ、田豫」
田豫は、静かにうなずいた。
すっかり陽が落ち、吹いた風に肌寒さを感じる頃合いになると、田豫たちは草庵の中へ身を移した。
静かな寝息を立てている。白面に備えてあるのは、きりりとした柳眉と朱唇だった。顔の煤は、衛沈がぬぐったようだった。
衛沈が娘の枕元に座した。脈を診るのだろう。
田豫と廉正は、囲炉裏端に腰を下ろした。
「さて、これからどうする、田豫? 東安平には戻れまい。あの城郭は、袁紹の手に落ちよう。みんな、無事だといいが……」
顎をなでた廉正は、案じるように天井を見上げた。それほど深刻ではないように見えた。
「私も、それを考えていた……」
あぐらをかいた田豫が、頭を抱えた、その時だった。
「目覚めおったぞい」
衛沈の声に、田豫と廉正は、弾かれたように座を立った。娘の枕元に急いだ。
双眸は澄んでいた。自分の身に起きたことに思いを巡らすように、その瞳が忙しなく動いた。
「易京の城外で倒れ込んでいた。誰かに刺されたようだが、手当は済んでいる。心配はいらん」
優しく娘に告げた田豫は、衛沈に目配せした。
その衛沈が、力強く頷首した。
すると――。
田豫を瞶め返す娘から、泪が、すうっと、頬に伝った。その泪が止めどなくあふれ出ると、両手で顔を覆った。
田豫は、廉正と衛沈に怪訝の浮いた顔を向けると、娘に訊いた。
「お主の身に何があった? 聞かせてくれるか? 泣き続けておっては、体に障る。話せば、少し楽になるやもしれぬぞ」
微笑を浮かべた田豫は、穏やかな口調で娘に促した。
しばらくの緘黙が置かれた。草庵には、さめざめと泣く娘の弱々しい声律だけが響いた。
「父上が……母上も、姉や幼い妹たちも……殺めた……」




