焦燥
田豫……公孫瓚に仕官した若者。流浪の英雄、劉備の志に魅かれ、憧れを抱く。
老母……田豫の母。田豫の活躍に期待し、他界する。
衛沈……北の辺境を往来する医の徒。
公孫瓚……幽州の将軍。幽州の牧(長官)の劉虞を討つ。
劉備……公孫瓚の学友。徐州の牧。
劉虞……幽州の牧。漢の太尉(国防長官)であり、皇族。公孫瓚に討たれる。
閻柔……北方異民族に慕われる陰の指導者。漢人。報仇軍を挙げた鮮于輔に加担する。
鮮于輔……劉虞に仕える重臣。公孫瓚を仇敵とした兵を挙げる。
袁紹……冀州の牧。名門の出身で、公孫瓚の仇敵。
楽何当……幽州の絹商人。
李移子……幽州の布商人。
劉緯台……幽州の占い師。
張飛……劉備の義兄弟で股肱の臣。
廉正……田豫の志に共鳴する腹心。実直な性質の槍遣い。
王門……公孫瓚に仕える将校。劣勢の公孫瓚を見限り、袁紹に寝返る。
廉正がつぶやくと、城壁に張りついた兵たちの顔つきも変わった。弓を引き絞る力が、強くなっていた。
田豫の気迫が、兵たちの意気を蘇らせた。士気は、上がった。
「ぐっ……!」
たちまち、王門は、面を朱にして臍を噛んだ。
叱責にも近い田豫の声は、王門が率いた兵の耳にも届いていた。
――ここで城を陥とせずば、恥の上ぬりとなるか。
渋面を作った王門は、さっと、翻った。
「退け! 退却だ!」
寄せた波が引くように、王門の軍勢は返した。
「……戦わずして、退かせた」
呆気に取られた廉正が、独り言ちた。
間もなく、守兵たちの間から、大きな歓声が上がった。
しかし、田豫の面貌には、依然として愁眉の色が浮いている。
「廉正、至急、易京に向かおう。公孫瓚どのに何かあっては、ここの統治もままならない」
「承知」
田豫と廉正は、兵を残し、公孫瓚が籠る易京城へ急行した。
不思議と風のない日だった。
駈けるにつれ、北方には濛々と立ち煙る砂塵がいくつも見えた。袁紹軍の小隊や鮮卑の兵団が、同じ方角に向かっている。続々と易京を目指しているようだった。
陽は、西に沈みかかろうとしていた。
休みもまともに取らず、馬を駈けさせた田豫と廉正は、幽州と冀州の境に位置した易京の目前まで迫った。
「田豫!」
横を疾駈する廉正が、声を上げた。前方を見据えた目が大きく見開かれている。
それを横目にした田豫も前を見た。
「公孫瓚どの……」
田豫の顔には、焦燥の色が刷かれた。
砂埃ではない。昇っていたのは、一条の黒煙だった。易京城のある方角だった。
周囲は、寄せては引き、引いては寄せるような大小の軍勢が、ひっきりなしに原野を駈けている。攻城兵器の衝車や井闌車を牽く馬群が幾つもあった。
田豫と廉正は、軍勢との遭遇を避けるように、迂回して易京城へ急いだ。
陽は落ちた。あっと言う間に辺りを闇が包んだ。
しかし、暗闇を押し遣り、煌々とした明かりを灯しているところがあった。それは、黒煙が立ち昇っていたところだった。
火を吹いていたのは、易京城だった。踊るような紅蓮舌が、闇夜をも遠ざけている。
城塞を取り囲んだ数多の衝車が、石を割るような轟音と共に、城壁を粉砕していた。その外周を囲む井闌車の群れが、櫓から矢の雨を降らせている。地下道を掘って城内への侵入を試みたのか、城壁の周りには、幾つもの大きな穴が掘られていた。
燃える城から離れるように、引き返す兵で原野は覆われていた。
田豫は、疲れを見せた駒から飛び降りると、業火が燃え盛る城に走った。同じように馬から飛び降りた廉正も続いている。向かってくる兵たちの間をすり抜けるように、田豫と廉正は、ひた走った。
刹那――。
「貴様ら、どこの部隊だ? 退避命令が出ているのがわからんのか! さっさと引き返せ!」
切れ長の眉に、吊り上った双眼を備えた、たくましい体つきの男だった。二人を引き留めたのは、武具で身固めした将校だった。
肩で息をした田豫と廉正の足が止まった。
「行け……田豫。ここは……私に任せろ……」
息を荒げた廉正が、田豫を促した。城が映った眸子は、燃えているようだった。
「廉正……」
「漢人のようだ。話せば、私たちの立場もわかってくれるはず。北の男にも、それくらいの情はある」
眉間に皺を寄せた田豫は、炎を上げる城と廉正を見比べた。
「引き返せと言っているのがわからんのか――⁉」
再び将校が声を荒げた。
「早く行け、田豫!」
廉正の訴えに弾かれたように、田豫は再び駈け出した。
「頼む、廉正! 必ず、また後で!」
「承知」
駈け去る田豫の背に微笑を向けた廉正は、踵を返すと将校の許へ堂々と歩を進めた。
田豫は、さらに突っ走った。深紅の魔手が躍る城との距離が縮まるにつれ、熱風が田豫の頬を打った。
「公孫瓚どの……」
独語した田豫の足は、緩むよりほかなかった。その瞳は、紅い炎に揺れていた。
半刻(一時間)ほど後――。
「田豫! どこだ! いるなら声を上げてくれ! 田豫!」
聞こえてきたのは、廉正の声容だった。どこで手に入れたのか、篝を持っていた。
「廉正! ここだ! ここにいる!」
地に腰を下ろした田豫は、篝の明かりに向かって声を返した。
田豫の横には、意識のない手弱女が、仰向けに倒れていた。
「おお、田豫。探したぞ。見つかってよかった」
近づいてきた廉正が安堵したのも束の間、その面には怪訝の色が浮いた。篝の明かりが、倒れた宮女のような美質を照らした。
「……その娘は、誰だ?」
田豫は、煤にまみれた、うら若い女子の面様を見遣った。
「わからぬ。城壁の外で倒れていた。腹部に刺し傷がある。早く手当てしてやらねばなるまいが……」
「治療は早いに越したことはない。だが、ここから東安平に戻れば、朝になる。それから医の徒を手配するにも時を要するぞ」
廉正は、眉宇をひそめた。
その廉正を前に、田豫は、思案を巡らせた。閃くものがあった。朝にはなろうが、ここから意中のところを目指せば、医の徒と会える見込みがあった。田豫は、冴えた眼眸で廉正を見上げた。




