鉦
田豫……公孫瓚に仕官した若者。流浪の英雄、劉備の志に魅かれ、憧れを抱く。
老母……田豫の母。田豫の活躍に期待し、他界する。
衛沈……北の辺境を往来する医の徒。
公孫瓚……幽州の将軍。幽州の牧(長官)の劉虞を討つ。
劉備……公孫瓚の学友。徐州の牧。
劉虞……幽州の牧。漢の太尉(国防長官)であり、皇族。公孫瓚に討たれる。
閻柔……北方異民族に慕われる陰の指導者。漢人。報仇軍を挙げた鮮于輔に加担する。
鮮于輔……劉虞に仕える重臣。公孫瓚を仇敵とした兵を挙げる。
袁紹……冀州の牧。名門の出身で、公孫瓚の仇敵。
楽何当……幽州の絹商人。
李移子……幽州の布商人。
劉緯台……幽州の占い師。
張飛……劉備の義兄弟で股肱の臣。
廉正……田豫の志に共鳴する腹心。実直な性質の槍遣い。
王門……公孫瓚に仕える将校。劣勢の公孫瓚を見限り、袁紹に寝返る。
県令は、民政から軍事までを管轄する役職である。県の行政全般を掌握しなければならない。
辺りでは、有象無象の賊徒が跋扈している。朝廷の権威が息をひそめ、戦の絶えない秩序が乱れた世では、生きる希望を失った者、朝廷への反撥を抱いた者らが群れとなり、大小の賊徒となって野に伏していた。
青州北海国東安平県に赴いた田豫は、各里を統制する里正(長)たちの許に出向いた。
民は、どこかの軍勢や賊徒が、城郭に押し寄せることに怯えているという。城門を破られ、城郭の中に入られては、無防備な民たちの資産が略奪の憂き目に遭う。
里正たちの話を聞き取った田豫は、すぐに兵を募った。城郭の防備に当たらせるためである。
またたく間に、千ほどの義勇兵が集った。
「廉正、頼めるか?」
「お安いご用だ」
田豫の依頼に、腕組みした廉正は、胸を張ってみせた。
「小が大に打ち勝つには、確かな連携と規律が肝要! 然もすれば、軍勢がこの城郭を攻撃しようとも、陥ちることはない!」
廉正は、庁舎の練兵場に集めた義勇兵たちを前に、大音声を発した。田豫が廉正に頼んだのは、義勇兵たちの調練だった。
――城郭を護る兵の存在が、民草に安堵をもたらす。
田豫は、民の心を安んじるため、すぐに目に見える方策を採った。廉正が調練を施し、兵としての練度を上げる。さらに義勇兵に志願する者が増えれば、城郭から出て、近隣の賊徒を掃討することもできる。
そして、田豫は、頻繁に里正たちの許に出向き、その声を聞き取ることを怠らなかった。城壁の修復、耕地の拡大、不正を働く者の取り締まり、できることから着手した。
思考を巡らせると、体は勝手に動いた。田豫には、すでに手本となる者の姿が脳裡にあった。
里正には、以前よりも笑顔が見られるようになっている。期待に応えれば、民には笑顔が戻る実感があった。
ふと、田豫は思い至った。
――愁眉を浮かせた民の顔が、笑顔に変わっていく。あの方は、たまらなくそれが好きだったのだ。
田豫が思い浮かべたのは、憧れの影だった。
「田豫どの! 至急、お目通しいただきたい書簡がございます!」
「おう!」
田豫の姿を探し出した官吏が、慌てた様子で大声を上げた。
田豫は、その官吏に振り返ると、微笑を浮かべて片手を上げた。
廉正の尽力により、義勇兵も兵団として機能し始めた。整然と隊伍を組み、城郭を警備する姿に、民も平穏を取り戻しつつあった。
しかし、である。
それは、田豫の手腕により、東安平の城郭が乱世の中にあって、安住の地となる片鱗を見せた折だった。
けたたましく鳴り響いたのは、望楼の鉦だった。
その音に、民の顔は一挙に、愁い顔へと変貌した。兵たちには、緊張が奔った。東西南北の城門は、一斉に閉じられた。
「ぐ、軍勢が寄せております――‼」
庁舎にあった田豫と廉正は、互いに顔を見合わせると、その声に弾かれたように、城門の上にある望楼へと急いだ。
数にして、一万ほどだった。掲げられている旗旌に「袁」の文字が見える。西門に寄せた軍勢は、その手前で進軍を止めた。
城壁の上には、弓を構えた兵たちが張りついた。どれも顔を強張らせているが、訓練の成果がうかがえた。
肩を並べた田豫と廉正は、眼下の袁紹軍を睨み据えた。
すると――。
軍勢を率いた将が一騎、城門の手前まで進み出て声を放った。
「東安平の守将に告ぐ! 公孫瓚を滅ぼすべく、袁紹どのと劉虞の旧臣たちの連合軍が、易京に猛攻を仕掛けている! いかに防備を固めようと、陥落は疑いようもない! 降伏しろ! 然すれば、命だけは取らずにおいてやる!」
その語勢に、弓を構えた兵たちの意気は消沈した。
田豫の顔色も変わった。
声を上げた将を凝視する廉正の眉間には、深い皺が刻まれた。
「あれは……」
廉正が、うなるような低い声律を上げた。
「間違いない。王門だ。袁紹側に寝返ったか。あやつめ、どさくさに紛れ、功を立てに来たと見える」
田豫は、目を剥いた。聞き覚えのある名だった。顔を合わせたこともある。それが、公孫瓚を見限り、袁紹側についていた。
今や、宿敵に追い詰められた公孫瓚からは、配下の将たちが次々と離反し、袁紹に鞍替えする絶望的な状況にあった。
田豫の肩が、わなわなと顫え出した。望楼から身を乗り出した田豫は、たぎった肚裡の底から、吐き出すように声遣いを大きくした。
「公孫瓚どのの恩を受けておきながら、なにゆえに見捨てるのだ‼ 主君の過ちに気づいていたならば、全力で正道に導くのが臣下であろう‼ 主君を代えたとて、それすらできない者が、居丈高に降伏を説くでないわ――‼」
万にも及ぶ眼下の軍勢を前に、田豫の声は、よく通った。
悸っとした廉正が、驚愕の面様を田豫に向けている。
城壁に張りついた兵たちも、驚きの形相で田豫に注視した。
――我らが大将は、万の軍勢にも、ひるまない。
鼻息を荒くした田豫を横に、王門へ視線を流した廉正の口辺が、不敵に歪んだ。
「私の目に、狂いはなかった」




