暗澹
田豫……公孫瓚に仕官した若者。流浪の英雄、劉備の志に魅かれ、憧れを抱く。
老母……田豫の母。田豫の活躍に期待し、他界する。
衛沈……北の辺境を往来する医の徒。
公孫瓚……幽州の将軍。幽州の牧(長官)の劉虞を討つ。
劉備……公孫瓚の学友。徐州の牧。
劉虞……幽州の牧。漢の太尉(国防長官)であり、皇族。公孫瓚に討たれる。
閻柔……北方異民族に慕われる陰の指導者。漢人。報仇軍を挙げた鮮于輔に加担する。
鮮于輔……劉虞に仕える重臣。公孫瓚を仇敵とした兵を挙げる。
袁紹……冀州の牧。名門の出身で、公孫瓚の仇敵。
楽何当……幽州の絹商人。
李移子……幽州の布商人。
劉緯台……幽州の占い師。
張飛……劉備の義兄弟で股肱の臣。
心身は、充実していた。足取りは、軽かった。
――再出発だ。
胸中で唱えた田豫が向かったのは、幽州涿郡易京――。それは、公孫瓚の許だった。
その公孫瓚が、易京の城に籠っていることは知っていた。近づけば近づくほど、見たこともない堅牢な要塞に見えた。
ひとり、その城に悠然と歩を進めた田豫は、すぐに高い櫓から見張りをしている兵たちの知るところとなった。
小さな城門が開くと、二人の兵が駈け寄せてきた。訳を話した田豫は、城門の中に通された。城門をくぐったはずなのに、また城門があった。城門と城門の間には、警戒を解いた兵たちの姿があった。城門を通り抜けることを数度繰り返すと、開けたところに出た。
呆気に取られた田豫は、天を見上げた。
そこには、土の丘に建ったような城があった。城からは、縄が一本、垂れている。
田豫を伴った兵は、垂れ下がる縄の近くに置かれた木札を結わえつけ、引っ張った。その縄が、上に引き寄せられている。木札で、上にいる者に来客の到来を伝えているようだった。
しばらくすると、土の丘に埋め込まれたような扉が開いた。中には、番をしている兵がいた。その番士に促され中に入ると、上に続く階段があった。番士は、首をくいっと、上げただけだった。登れということのようだった。
田豫は、螺旋のように続く階段を登り始めた。気が遠くなるような長い階段だった。飽き飽きし始めた折、上から明かりが射し込んでいた。田豫は、その明かりに吸い込まれると、広い部屋に出た。
それは、玉座の間のような、豪奢に彩られた部屋だった。
「どこの商人だ? 儲け話を持ってきたようには見えぬが?」
豪華な衣装に身を包んだ、ふくよかな体つきの男が振り返った。
「公孫瓚どの……」
田豫は、見覚えのある面貌を認めると、膝を折って拝跪した。
「むむ? 誰であったか?」
「噂を耳に、我らへ庇護を求めにきた若造ではないのか、長兄?」
眉をひそめた公孫瓚に、後ろから頭巾を被った商人風情が、蔑むような目つきを田豫に向けた。
「ご無沙汰しておりました。田豫でございます」
田豫は、胸の前で手を重ねて一揖した。
脾腹が揺れている。眼前の公孫瓚に、以前のような勇将の面影はなかった。
「田豫……? おお、久しいな。母の喪に服しておったと聞いておったが、明けたようだな」
「はい」
顔を上げた田豫は、公孫瓚の目を瞶めた。微笑を浮かべた公孫瓚の瞳が、淀んで見えた。
公孫瓚は、田豫の眼眸から、まぶしそうに視線をそらした。
「配下の者だ。商売の話にならず、残念だったな李移子」
公孫瓚は、隣の頭巾を被った垂れ眉の男に微笑んだ。
「二人だけで商談を進めようなどとは、見過ごせませぬぞ」
「左様。義兄弟の契りを交わした仲ではござらぬか。我らも話にお加えくだされ、兄上」
すると、奥から柔和な笑みを浮かべて現れたのは、太った体軀に、上質の衣を着込んだ白髪交じりの男と、山羊のような髭を備えた、道袍をまとった長身だった。
「はっはっは。楽何当と劉緯台も抜け目のない奴だ。だが、この者は、商いの話を持ってきたのではない。母の喪が明けたばかりの臣下だ」
「ほう。まだ若いですな。だが、商才はないと見えまする」
「喪が明けたばかりであれば、さっさとその者に配属先を申し伝え、流通拠点の話の続きをいたしましょうぞ」
商人風情の楽何当と、占い師のような身形の劉緯台は、田豫を冷たくあしらうと、微笑をたたえて公孫瓚の手を取った。
「待て待て、そう急くな、義弟たちよ」
公孫瓚は、田豫のことなどよそに、背を向けた。
――知っている義兄弟とは、ずいぶん違うな。
田豫の顔色は曇った。公孫瓚を取り巻く義弟たちは、どれも得体の知れない商人に見えた。戦場を駈ける公孫瓚には、あまりにも似つかわしくない者たちだった。
目の前で、四人の下卑た笑いが響いた。
人が変わってしまったような公孫瓚に、田豫は、一抹の不安を覚えた。
北方の群雄、公孫瓚は、民間人とも言える楽何当、李移子、劉緯台の三人と義兄弟の契りを結ぶに至っていた。
敗戦が続き、臣下への猜疑心が過ぎた公孫瓚は、現実から逃避するように、遂には、甘い言葉を吐く義兄弟の言葉しか信用しなくなっていたのである。
四人で談笑しながら、奥の間へ身を引く公孫瓚は、何かを思い出したように、振り返りもせず声を放った。
「青州北海国に向かえ――」
はっとした田豫は、無駄な肉のついた公孫瓚の背を見遣った。
「東安平の県令(県の長官)、その席が空いている。ひとまず、その座に就け。儲け話があれば、すぐに報せよ」
「はっ」
田豫は、こうべを垂れた。
世は、依然として乱れている。群雄のひとりに数えられる者の言葉にしては、あまりにも軽薄だった。田豫を物のように扱った公孫瓚に、将来への意志は見えなかった。
――仕える主で、こうも違うものだったとは。
奥に消える公孫瓚を見送った田豫は、人の上に立つ者の差を垣間見た。立ち上がった田豫は、踵を返した。
その折、隣の部屋から、若い娘たちの笑い声が聞こえた。城の中に兵の姿は、どこにも見当たらなかった。
――ここで、家族と乱世の収束を待つか。果たして民は、公孫瓚どのを仰ぐだろうか。
暗澹とした面持のまま、田豫は、長い階段を下っていった。最下層の扉から外に出ると、幾つかの城門をくぐった。その折だった。




