若駒
田豫……公孫瓚に仕官した若者。流浪の英雄、劉備の志に魅かれ、憧れを抱く。
老母……田豫の母。田豫の活躍に期待し、他界する。
衛沈……北の辺境を往来する医の徒。
公孫瓚……幽州の将軍。幽州の牧(長官)の劉虞を討つ。
劉備……公孫瓚の学友。徐州の牧。
劉虞……幽州の牧。漢の太尉(国防長官)であり、皇族。公孫瓚に討たれる。
閻柔……北方異民族に慕われる陰の指導者。漢人。報仇軍を挙げた鮮于輔に加担する。
鮮于輔……劉虞に仕える重臣。公孫瓚を仇敵とした兵を挙げる。
袁紹……冀州の牧。名門の出身で、公孫瓚の仇敵。
楽何当……幽州の絹商人。
李移子……幽州の布商人。
劉緯台……幽州の占い師。
張飛……劉備の義兄弟で股肱の臣。
ひゅんっ――と、一閃が虚空を斬った。
曇天からは、音もなく粉雪が降り始めていた。
吐く息は、白かった。全身からは、湯気が立ち昇っている。雪が体に着く前に、熱気で溶けているようだった。額に浮き出た汗が頬を伝い、顎の先から地に落ちた。無精髭は、もうない。
田豫が草庵の前庭で剣を振り始めて、一刻(二時間)ほど経っていた。日課だった。己と向き合うように剣術の稽古を始めて、すでに二年の歳月が流れている。剣術だけではない。弓術にも磨きをかけていた。それは、来るべき日に備えてのことだった。
田豫の胸中から、劉備の面影が消えたわけではなかった。しかし、憧れへの執着は、なくなっていた。
――再会するか否かは、天のみぞ知る。だが、志は共にある。
そう思うようになっていた。そうであればこそ、田豫は、武の鍛錬に打ち込んだのである。
「できることを懸命にやりゃあいい」
張飛に言われたことを、不意に思い出すことがあった。そのたびに、懐かしさを覚え、口角が上がった。
田豫は、剣の鍛錬を終えると、矢筒を背負い、弓を手にして裏山を駈け上った。老母の墓石まで休まず駈けると、そこで一礼を施し、再び頂上へ向かって駈けた。
途中、獣の気配を察すれば、それを追って射抜くこともあった。緑の時期は、山の幸も手に入れることができた。
狩猟で山へ入った鮮卑や烏丸の者と遭遇することもある。獲物と獲物を交換することもあった。
そして、獲物と穀物を交換しに、城郭へ足を運んだ。
擁奴の城郭では、さまざまな話を聞くことができたが、劉備の話はなかった。耳にする群雄は、決まって袁紹か公孫瓚だった。
明らかに公孫瓚が劣勢だった。易京に籠ったということだった。
いつの間にか、雪が上がっていた。山を駈け下りると、渓川に水を汲みに向かい、薪を割った。草庵に入ると、囲炉裏に当たっている老爺の背が見えた。食欲をそそられる香ばしい匂いがしていた。
「衛沈さま。いらっしゃっていたのですね」
田豫は、毛皮の帽子を被った衛沈の背に笑顔を送った。
「精が出るのう。良いことじゃ。気勢は、みなぎりつつある」
背を向けたままの衛沈が、ぞんざいに片手を上げた。
田豫は、囲炉裏を挟むようにして、衛沈と対座した。
衛沈は、干し肉を炙っていた。
「食うか? 鮮卑の者から治療の礼としてもらったものじゃ。酪(ヨーグルト)を混ぜた酒もある」
「いただきましょう」
衛沈は、田豫の様子をうかがうように、数日おきに草庵を訪れていた。時を経るにつれ、その間隔は長くなった。今回、衛沈が訪れたのは、二か月ぶりのことだった。
「喪が明けるまで、一年を切ったか……」
衛沈は、干し肉を咀嚼しながら、木椀に注がれた酒をちびりと口に含んだ。
「はい。早いものです」
田豫は、もぐもぐと口を動かしながら答えた。
「依然、世は乱れておる。だが、各地で立った群雄も、優劣が見え始めてきた」
「この辺では、公孫瓚どの、もしくは、袁紹どのの話しか聞こえてきません」
「お前が仕官した公孫瓚は、その袁紹とやらに押されておるようじゃのう。烏丸と鮮卑も袁紹に与し、やたらと公孫瓚を攻めておる。公孫瓚は、劉虞を討ったことが禍したな」
衛沈は、酒の入った瓢箪を持ち上げると、田豫の木椀に注いだ。
田豫は、木椀を口に運んだ。酒で干し肉を流し込んだ。
「公孫瓚どのは、烏丸、鮮卑を敵視しておりました。それを擁護する劉虞どのとは、相容れなかったでしょう」
「それを袁紹につけ込まれた。ここら一帯は袁紹に染まるか……」
「どうでしょう? 世には、劉備さまがいらっしゃいます」
別の干し肉を炙り始めた田豫が、にこと笑った。
「ここに来るまで、その劉備の噂は、耳にせんかったのう……。代わって聞こえてきたのは、帝を迎え入れた群雄の話じゃ」
「劉備さまは、今もどこかで、志を遂げようと尽力しておられるはずです」
田豫は、嬉しそうに干し肉を頬張った。
酒を口に含んだ衛沈は、目を細めた。
「吹っ切れたようじゃな」
小首をかしげた田豫は、己のことと察すると、面が明るくなった。
「劉備さまは、私の憧れ――。それは、いつまでも変わらないでしょう。ですが、志は同じ。天下に安寧をもたらすは、何も劉備さまの許でなくともよいと思うようになりました」
田豫は、にこと微笑んだ。
それを目に、衛沈は、ふっと、鼻で笑った。
――さて、この若駒は、どこまで駈けて行くやら。
衛沈は、盃をあおった。満足げに微笑んだ。
月日は、流れた。
草庵を訊ねた衛沈が、その戸を開けた。
「ほう。いよいよ、発つか」
出立の準備は終えていた。そこには、戦袍を着込み、腰に剣を佩びた田豫の姿があった。
「そろそろ、いらっしゃる頃と思っておりました」
衛沈の姿を認めた田豫は、その前まで歩み寄ると、膝を折った。胸の前で、手と手を重ね合わせている。
「衛沈さま、母のみならず、私をもお救いいただき感謝いたす」
深々と頭を垂れた田豫は、屹っと、首を立てて続けた。
「再び世に出、己を試しとうございます」
「うむ」
衛沈は、真剣な顔つきで頷首した。
「そこで、お願いがござる」
「お願いとな?」
突如の申し出に、衛沈は、眉宇をひそめた。
「この草庵を、ご自由にお使いくだされ」
「何と――⁉」
「私には、それくらいしか礼のしようがありませぬ。それに……」
田豫は、素っ頓狂な声を上げた衛沈に、にこりと微笑んだ。
「還るところがなくては、功績を披露する場がございませぬ」
衛沈は、目を剥いた。すぐに笑いが込み上げてくると、呵々と大笑した。新たな段階に進んだ田豫を確信した衛沈は、笑わずにはいられなかったのである。
衛沈は、田豫を見据えた。真摯な瞳だった。
「草庵は、預かる。行け、田豫。行って乱世を平らげよ」
「はいっ!」
斯くして、田豫は、再び戦乱の世に身を投じていった。齢二十八、西暦一九八年のことだった。




