慟哭
田豫……公孫瓚に仕官した若者。流浪の英雄、劉備の志に魅かれ、憧れを抱く。
老母……田豫の母。田豫の活躍に期待し、他界する。
衛沈……北の辺境を往来する医の徒。
公孫瓚……幽州の将軍。幽州の牧(長官)の劉虞を討つ。
劉備……公孫瓚の学友。徐州の牧。
劉虞……幽州の牧。漢の太尉(国防長官)であり、皇族。公孫瓚に討たれる。
閻柔……北方異民族に慕われる陰の指導者。漢人。報仇軍を挙げた鮮于輔に加担する。
鮮于輔……劉虞に仕える重臣。公孫瓚を仇敵とした兵を挙げる。
袁紹……冀州の牧。名門の出身で、公孫瓚の仇敵。
楽何当……幽州の絹商人。
李移子……幽州の布商人。
劉緯台……幽州の占い師。
田豫は、ゆっくりと顔を上げた。微笑を浮かべた衛沈が、何度もうなずいていた。
「いいことを教える。これは、世を流離った儂が悟った真理じゃ」
「真理……?」
「左様。世は、己が思っている以上に広い。救える者にも限りがある。しかし、どこの地であろうと、民は民。然もすれば、どこであろうと、民を救うことに違いはない」
田豫は、はっとなった。
衛沈は、微笑んだ。
「田豫よ、お主には、お主にしかできぬことが必ずある」
「私にしか、できないこと……」
衛沈は、田豫に目を細めると、続けた。
「世に英雄は、劉備だけとは限らぬ」
田豫の双瞳が、底光り始めた。胸中の深淵に、ぽっと灯りが点ったようだった。
「御母堂は、世に出ていったお主をよく自慢しておった」
衛沈は、おもむろに座を立つと、田豫を見下ろした。
「己が道を切り開く子に育ってくれた――とな」
不意に、田豫の目から、滂沱と泪がこぼれ落ちた。田豫の中にあった塊のようなものが、少しずつ崩れた。
衛沈は、田豫に背を向けて、外へと続く戸口に向かった。
「これまでの治療代は要らぬ。良き母の許に生まれたと思うがよい。お主を育てた御母堂こそ、英雄と呼ぶにふさわしかろう」
田豫の泣きじゃくる声量が大きくなった。うっ伏して、男泣きに泣いていた。
「成すべきことは多いぞ、田豫」
その声と共に、衛沈の姿は草庵から消えた。
草庵の裏山の樹々が、紅に色づいていた。北風を受け、幽けく揺れている。
いつまでも響いていたのは、慟哭にも似た、咳き上げるような田豫の泣き声だった。
西暦一九五年――。
閻柔と鮮于輔が率いた報仇軍は、冀州に拠った袁紹と手を組むと、各地で公孫瓚を散々に撃ち破った。
「どいつもこいつも、無能な奴ばかりだ! 我が恩恵を受けておきながら、戦果を上げ、恩を返そうとする者がひとりもおらん!」
憤りは、次第に猜疑心へと変わった。連戦連敗を喫し、ほうほうの態となった公孫瓚は、幽州涿郡易京に拠点を移すと、籠城の構えを取った。
加えて、公孫瓚の失政により、幽州の代、広陽、上谷、右北平の四郡が離反するに至った。
公孫瓚の中で猜疑心が渦を巻くと、さらに城の防備を固めた。幾層もの城壁と、十丈(約三〇m)もの高さの楼閣を備え、多年に及ぶ糧食を蓄えたその城は、間もなく難攻不落の城塞と化した。
易京の城は、公孫瓚の猜疑心を具現化したようになった。
公孫瓚は、迂闊に動かなかった。情勢の変化を待ち続けることに肚裡を決めている。白馬義従を従え、草原を駈け抜ける勇壮な公孫瓚は、見る影もなくなった。乱世の連敗が、英雄を変貌させたのである。遂には側近をも遠ざけ、妻子に囲まれ暮らすようになった。
だが、その公孫瓚の許に、しきりと訪れる者があった。
易京の城からは、幽州の広大な原野を一望できた。そこで、公孫瓚が酒宴に招くのは、巨万の富を有する三人の豪商のためだった。
「さすがは、公孫瓚どの。この易京城を、これほど堅牢な城塞に改めるとは、古今類を見ないご英断にございますぞ」
満面の笑みを浮かべ、公孫瓚をおだてたのは、ふくよかな体軀に質のいい着物を羽織った白髪交じりの絹商人だった。
「左様。楽何当どのの言うとおり、何も好き好んで戦乱に身を投じる必要はございませぬ。ここで乱世が収束するのを待ち、我らと商いの算段さえしておれば、財貨は舞い込んでくるのですから」
頭巾を被っている。垂れ眉の布商人、李移子が盃をあおった。
李移子の隣では、山羊のような髭を伸ばし、道袍をまとった長身の占い師が算盤を弾いている。
「我が卜占によりますれば、公孫瓚どのの頭上に寿星が昇ろうとしております。これは、天下が治まった末の福寿を意味する瑞祥。何も心配はございませぬ」
算盤から顔を上げた劉緯台は、柔らかな笑みを公孫瓚に向けた。
「やはり、心を許せるは、お主らしかおらぬ!」
豪奢な装いに身を包んだ公孫瓚が、三人の豪商を前に破顔した。高らかに声を上げ、歓迎するように両腕を広げた。
「臣下どもは、どれも期待を裏切り、一向に恩を返そうとせぬ。それに比べお主らは、期待どおりに我が資産を増やしてくれる。お主たちの言うとおり、乱世を収束に導いた者から、高額で地位を買い取ればよいのだ」
公孫瓚は、盃を手に取ると、一息に呑み干した。
豪商の楽何当、李移子、劉緯台の三人は、微笑を公孫瓚に向けるばかりだった。
だが――。
公孫瓚の権威を笠に着た三人は、各地で傍若無人の専横の限りを尽くしていた。
それが理由で、幽州四郡の離反を招いていたのである。
公孫瓚は、知らなかった。そして、公孫瓚の臣下は、ひとりとして、それを公孫瓚の耳に入れようとしなかった。
一朶の雲が流れている。幽州の原野を見渡せる一室から響いたのは、下卑た笑い声だった。




