酒甕
田豫……公孫瓚に仕官した若者。流浪の英雄、劉備の志に魅かれ、憧れを抱く。
老母……田豫の母。田豫の活躍に期待し、他界する。
衛沈……北の辺境を往来する医の徒。
公孫瓚……幽州の将軍。
劉備……公孫瓚の学友。徐州の牧(長官)。
――劉備さまの許におれば、母上の期待に応えられたのでは?
――いつまでも、志と共にありたかった。劉備さま、関羽どの、張飛どのから、多くを学びたかった。
――ここへ、還ってくるべきではなかったのではないか?
悶々とすればするほど、後悔の念は強くなった。遂に、田豫は、何もかもを忘れたくなった。全てを過去の思い出とすべく、擁奴の城郭に足を運んでは、安い酒を買い込んだ。
いつの間にか、無精髭に顔を覆われた田豫は、草庵でひとり、浴びるように酒を呑む日々が続いた。志など、どうでもよくなった。母の言葉も忘れた。
だが――。
持ち上げた酒甕をあおるたびに、思い起こされたのは、虎髭の張飛だった。愉快げな張飛を思い出すと、長髯をしごきながら、張飛を諫める関羽の雄姿が脳裡に浮かんだ。すると、優しい笑みを浮かせた劉備が、必ずや田豫に語りかけてきた。
志――。
田豫は、頭の中から劉備の笑みを消し去るように酒をあおった。際限のない悪循環が、田豫を苦しめた。唯、酒をあおる日々を繰り返した。その日々は、苦悶の深淵から田豫を救うことはなかった。
そのようなある日――。
「何ともみっともない風体じゃな」
眠気眼の田豫が薄っすらと目を開けると、あぐらをかいた衛沈がいた。白髯をなでながら、田豫に憐れむような視線を注いでいる。
酒気を帯びた息を吐くと、田豫は、ゆっくり身を起こした。
「……衛沈さま? 何用で?」
「まるで、生きる糧をなくした者のあり様じゃな。お主にとって、御母堂は、それほどの存在だったか?」
衛沈は、にやりとした。
田豫の目には、衛沈の笑みが、母親の傘の下から離れられない童子に向けられたもののように映った。
「……違う」
田豫は、唾棄するように言い返した。
衛沈は、田豫を見据えた。
「では、何がお主をそこまで苦しめておる?」
田豫は、瞶める衛沈の視線から逃れるように、顔をそむけた。
「語れ。老いさらばえておろうとも、医の徒。お主の深く暗い心の底に、光明が射すこともあるかもしれぬ。誰かに語らねば、いつまでもその深淵から、はい上がることはできぬぞ」
衛沈は、またしても、にやっと微笑した。
一度、田豫は、大きく嘆息した。ひとしきり無精髭をこすると、公孫瓚に仕官してからのことを訥訥と語り出した。
瞑目した衛沈は、静かにうなずきながら、田豫の声が尽きるまで、いつまでも耳を澄ませた。
「劉備? 最近、巷で噂の大徳じゃな。その劉備に仕えておったと申すか?」
田豫は、うなずいた。ぬぐい去れない後悔の念を語り終えた田豫からは、いつの間にか頬に泪が伝っていた。
「お主が、御母堂の許に駈けつけたのは、間違いではない」
目蓋を伏せた衛沈は、首を横に振った。その声色は、温かかった。
「主と共に、掲げた志を成し遂げたかった――か。儂のように老いてしまっては、若く猛々しい気概が、うらやましくもある。思い返せば、儂も志を胸に秘めた青瓢箪だったのう……」
「衛沈さまの、志……?」
遠くを見るような眼眸の衛沈に、田豫は、首をかしげた。
田豫に視線を戻した衛沈は、面貌に微笑をたたえた。
「戦で負傷した者を治す――。かつて、医の志を抱いた」
「医の志――」
衛沈は、ひとつ、うなずいてから続けた。
「若かりし頃は躍起じゃった。戦乱の絶えない北辺を生業の地と定めた儂は、戦で怪我を負った者を、漢、鮮卑、烏丸の者を問わず、針、灸、薬草、執刀を用い治療してやった……。思考錯誤を繰り返し、動かなくなった腕を使えるようにしてやったこともあった」
今度は、田豫が耳を澄ます番だった。
「だがのう、治療が功を奏し、腕が自由に動かせるようになった者は、再び戦に身を投じた」
「…………」
「そして、命を落とした。ひとりや二人ではない。儂は、幾度も心が折れた。儂の志は、無駄なのではないか――とな」
衛沈は、おもむろに禿頭をなでた。
「しかしのう、怪我を治し、次の戦で世を去るまでの間、家族や仲間に紡がれる想いがあることを知った。儂の医は、決して無駄ではないことを知った」
衛沈は、両手で己の左右の頬を打った。
その音に驚いた田豫の体が、びくりと動いた。
衛沈は、冴えた双眼で田豫に顔を寄せた。
「天は、試練を与え続ける。想いを紡がれた者も、病に斃れることがある。それからじゃ。世から、病をもなくしたいと躍起になったのは……」
田豫から顔を離した衛沈は、胸の前で腕を組んだ。
「して、お主じゃ、田豫」
田豫は、刺すような衛沈の視線を瞶め返した。
「その志とやらは、劉備の許でなければ、遂げられぬものか?」
田豫は、眉をひそめた。
「理想だけでは、民を救うことはできぬ。力で対手をねじ伏せるだけでは、恭順させたことにはならぬ」
固まったような田豫に、衛沈は、にやりと笑った。
「お主が強く心を魅かれた英雄は、お主に何と言った、田豫?」
田豫は、己の掌に視線を落とした。剣を握り続けてできた右手の肉刺が目に入った。劉備の声が脳裡に蘇った。
――どこにいようと、我らの志は同じ。




