御母堂
田豫……公孫瓚に仕官した若者。流浪の英雄、劉備の志に魅かれ、憧れを抱く。
老母……田豫の母。田豫の活躍に期待し、他界する。
衛沈……北の辺境を往来する医の徒。
「母上!」
息せき切った田豫が、勢いよく草庵の戸口を開けた。すると、たちまち田豫の目が大きく引き剥かれた。
以前よりも痩せ細り、体は小さくなっている。田豫の老母は、端正な佇まいで、田豫の還りを待っていた。
「心配をさせてしまったようですね」
老母は、田豫に目を細めると、にこりと微笑んだ。健勝な息子を前に、安堵したようだった。
「……母上……危篤だとの一報を受けましたが……何はともあれ、よかった」
胸をなで下ろした田豫は、旅装を解いて老母の側に身を寄せた。
田豫が、ほっとしたのも束の間――。
ゆっくりと開いたのは、草庵の戸だった。訪ないも入れず、当然のように入ってきた者があった。
見れば、禿頭の老爺だった。白い太眉毛と口許を覆う白髯を蓄えている。薄汚れた白衣を身にまとい、背には青色に染まった嚢を背負っていた。
「衛沈さま……」
老母は、慇懃に低頭してみせた。
その老母に、老爺の衛沈は、太眉毛を上げて目を円くした。
「横になっておらねばならぬと申しておったではないか」
呆れた調子の衛沈は、深く嘆息した。
「先生のお陰で、今日は体調がよいのです。息子も還ってくる頃かと、こうして待っておりました」
衛沈は、低頭する老母をよそに、隣に座した田豫へ、ぎろりと鋭い眼光を浴びせた。
「お主が、倅か?」
「……はい。田豫と申します」
胸の前で手を重ね合わせた田豫は、衛沈をまじまじと見遣った。
数々の薬草を敷き詰めたことにより、青々と変色した嚢を背にしている。それは、医の徒の証左だった。
「衛沈じゃ。お主の御母堂が、危篤だと知らせたのは、ほかでもない。この儂じゃ」
衛沈は、遠慮もなく老母に近寄ると、手を取って脈を診た。しばらくの緘黙が置かれた。
「駄目じゃ。やはり、横になっておらねばならぬ。起きていられるのが不思議なくらいじゃ。薬を煎じるゆえ、それを呑むがよい」
衛沈は、青嚢の中をひっかき回した。何かを探しているようだった。
軽く会釈した老母は、壮健な田豫の姿に満足したのか、素直に寝床へと向かった。
「母上……」
田豫は、作業を始めた衛沈を横目に、老母に寄り添った。おとなしく横になった老母を認めると、静かに外へ出ていった衛沈の後を追った。
田豫が出てくるのを待つように、背を向けた衛沈が立っていた。
「心の臓が弱っておる。余命、幾ばくもあるまい」
衛沈は、唐突に告げた。
「儂は、この辺を往来しておる医の徒じゃ。鮮卑や烏丸の地に足を運ぶこともある。儂がこの近くを通りかかった折、倒れ伏しておったのが、そこもとの御母堂じゃ」
田豫は、耳を疑った。先ほどまで隣にいた母は、病を患っているようには見えなかったのである。
首を傾けた衛沈は、横目に田豫を入れた。
「調合した煎じ薬を飲ませ、何とか命をつないでおる。危篤に変わりはない故、覚悟しておくがよい」
そう言い置いた衛沈は、湯を沸かすべく、前庭にある竃を設置した小屋に足を向けた。
口籠った田豫は、肩を落とした。老母の容態もさることながら、母親が亡くなれば、三年は喪に服すのが通例だった。それだけ劉備の許に戻るのが遅れることになる。田豫は、目の前が暗くなった。
数日が経ち、煎じ薬が切れる頃になると、衛沈が再び訪れた。一定量の薬を調合し終えると、ふらりと姿を消している。
田豫は、鬱屈としたものを抱えていたが、それでも献身的に老母を介抱した。
衛沈が調合した煎じ薬の効能もあってか、老母の容態は安定した。だが、快方に向かうことはなかった。
「私の余命も、残りわずかでしょう……」
上半身を起こし、煎じ薬を呑み終えた老母が、静かに語り出した。
「先の見えぬ世ではありますが、大丈夫たる者、世のため、人のため、尽力せねばなりませぬよ」
「……はい。母上」
目蓋を伏せた田豫は、ゆっくりと頷首した。
「あなたに申し伝えることは、それだけです。私は、天より、あなたの活躍を、夫と共にのぞいておりましょう」
老母は、田豫に目尻を下げた。
それに応じたように、田豫は、母の手を取った。血管が浮き出、骨と皮だけになったような手だった。
それから間もなくして、田豫の母は、静かに逝った。
「幸せな御母堂じゃて」
田豫は、老母の枕元で、肩を顫わせ涕泣していた。訪ないもなく草庵に入ってきた衛沈が、その背に皺枯れた声をかけた。
「弔うがよい。今のお主があるのは、御母堂の賜物でもある」
ふと、気づけば、土を被せた上に、一抱えほどの石を三つ重ねていた。草庵の裏山、その中腹へ老母を埋葬した田豫は、劉備の許を離れた上に、老母を亡くし、虚無に苛まれていた。
――劉備さまと共に、思う存分、乱世を駈けたかった。
田豫は、静寂な草庵の中で、ひとり、苦悶の中にあった。




