雨
公孫瓚……幽州の将軍。騎射に優れた者を厳選した精鋭騎馬軍、白馬義従を率いる。
田豫……公孫瓚に仕官した若者。劉備の志に魅かれ、憧れを抱く。
劉虞……幽州の牧(長官)。漢の太尉(国防長官)であり、皇族。
袁紹……冀州の牧。名門の出身で、公孫瓚の仇敵。
王門……公孫瓚に仕える将校。
趙雲……常山郡から公孫瓚の許に駈けつけた義勇軍の長。無双の槍の名手。
劉備……公孫瓚の学友。公孫瓚の許に身を寄せる流浪の軍の長。陶謙に徐州を譲渡され、州牧となる。
関羽……劉備の義弟。長髯を備える。青龍偃月刀を操る豪傑。
張飛……劉備と関羽の義弟。虎髭の主。蛇矛が得物の猛者。
田楷……公孫瓚が任命した青州刺史(監察官)。
廉正……公孫瓚が派遣した援軍の歩兵長。
曹操……兗・豫の二州に蟠踞する群雄。
陶謙……徐州の牧。次代の希望を劉備に懸け、病により世を去る。
鮮于輔……劉虞に仕える重臣。
閻柔……北方異民族に慕われる陰の指導者。漢人。
〈鮮卑〉
軻比能……頭角を現してきた大人。口許から右の耳朶にかけて傷痕がある。
卑弥……軻比能に仕える若き側近。
田豫の母は、故郷の幽州漁陽郡擁奴県で、ひとりで暮らしていた。
夫である田豫の父が他界すると、城郭から出て、近くの山の麓に草庵を結んだ。裕福ではなかったが、貧しいわけでもなかった。
近隣に住まう烏丸や鮮卑の民たちは、温厚な者が多く、略奪に苛まれることはなかった。侵略を目当てに押し寄せる部族は、決まって北から長城を越えてくる者たちだった。
老いてはいたが、健勝な母だった。その母が危篤だとは、信じられなかった。公孫瓚に仕官してからというもの、故郷に還っていないのも事実だった。
――一刻も早く、母の許に還るべきだろう。
しかし、田豫は、迷った。
志――。
田豫に迷いを生じさせるものは、劉備が唱えるそれだった。
――成し遂げたい。劉備さまと共に。劉備さまの盾として。
田豫は、劉備の許を去り難かった。劉備の近くで、少しずつ志が現実となっていくところを、傍で見ていたかった。
だが、母は世にひとりしかいない。万が一のことがあれば、もう会うことはできないのである。その母が危篤と耳にし、駈けつけないのは、仁義にもとる行為であろう。
渋面を作り、愕然となった田豫は、沈思黙考した。
――劉備さまならば、どうする?
田豫の頬に伝ったのは、一筋の泪だった。その泪をぬぐい、荷造りすると、旅装となって劉備の前に拝跪した。
奏案に並べた書簡に目を通している劉備には、いつものように関羽と張飛が侍っていた。
「そんな恰好をしてどうした、田豫?」
唐突に現れた田豫に気づいた劉備は、眉をひそめた。
「母が……危篤との一報が届きました。……帰郷させていただきとう存じます」
田豫は、泪ながらに訴えた。
「何だ、田豫‼ てめえも、ここを去ろうってのか――⁉」
炬眼を引き剥いた張飛が、声振を大きくした。
「張飛!」
厳しい顔つきとなった関羽が、張飛を諫めた。
「チッ」
臍を曲げた張飛は、腕組みすると、田豫に背を向けた。
つつと泪が流れる面を伏せ、低頭する田豫に、劉備は見入った。
「劉備さま、関羽どの、張飛どのの近くにいたい。志の実現を手伝いたい。ですが……」
うめくような語気を放った田豫に、背を向けていた張飛は、首を傾げて横目に田豫の姿を入れた。
田豫に注視した劉備と関羽も、次の言葉を待った。
田豫は、屹っと、首を立てると、潤んだ双瞳で劉備を見据えた。
「劉備さまの許に、危篤の母を蔑ろにするような配下は、おらぬはず。帰郷させていただきとうございます」
顔を伏せた田豫に、ぼろぼろと泪が頬を伝った。
劉備は、優しげな微笑を浮かせた。田豫に歩み寄ると、その手を取って立たせた。
「お前の気持ちは、わかっている、田豫。苦渋の決断をさせてしまったな」
温かな声質の劉備を、田豫は泪をぬぐって瞶め返した。
「乱世を鎮め、民に安寧をもたらし、天下を泰平に導く――。お前がどこにいようと、我らの志は同じだ」
劉備は、えくぼを作って続けた。
「お前と一緒に、大事を成就できる日を待っている」
劉備は、田豫の手をきつく握り締めた。
――どこにいようと、志は同じ。
目を見開いた田豫は、劉備に浮いた笑みが光って見えた。田豫も、劉備の手を強く握り返した。
「待っているぞ、田豫」
長髯をしごいた関羽が、田豫に微笑んだ。
田豫は、関羽に力強くうなずき返した。
張飛は、依然として、背を向けたままだった。
劉備から手を離した田豫は、気持ちを切り替えるように、深呼吸した。
「さらばです」
田豫は、劉備に一揖した。関羽と張飛の背にも礼を施した。踵を回した田豫が、その部屋を出ようとした折だった。
「田豫」
背を向けたままの張飛が、声調を大きくした。
その声に、田豫は振り返った。劉備と関羽も、張飛の背に目を向けた。
「風邪、ひくんじゃねえぞ」
背を向けたままの張飛に、にやりと笑った劉備と関羽が、田豫に振り返った。
「……はい!」
途端に、田豫には、滂沱と泪があふれ出した。その泪をぞんざいにぬぐい、うしろ髪引かれる思いを振り切り、一歩踏み出した。
郯城の城門で、大兵の廉正が、二頭の馬を牽いていた。田豫の到来を、今か今かと待っていたようである。
廉正の許に足を運んだ田豫は、手綱を受け取った。一抱えほどの包みを馬に括りつけると、馬上の人となった。腰には一本の剣を佩き、弓と数本の矢が収まった矢筒を背にしている。
田豫は、振り返った。そこに、劉備たちの姿はなかった。迷いを断ち切った田豫は、馬腹を蹴った。それに廉正も続いた。
「私の故郷は、漁陽郡潞県だ。お主の故郷ともほど近い。今の任地は易京だが、何かあれば頼ってくれ」
轡を並べてきた廉正が、低い声音を放った。目を赤くし、頬を濡らした田豫を気遣ったようだった。
田豫は、唯、うなずいた。前だけを向いて馬を走らせた。案じられたのは、母の身だった。鎌首をもたげた心配は、急速に田豫の胸中を満たした。それを払拭するように、田豫は、馬に鞭を入れた。
田豫の頬が、また濡れた。
ぽつ、ぽつ――と、地の色が変わり始めた。雨になりそうな気配だった。
お読みいただき、ありがとうございます。明日19時更新の第14話より、田豫の本当の旅が始まります。選考委員が落とした作者の、現代にも通じる熱い男の生き様を、ここからお見せします。お楽しみに!




