15-贖罪の願いは
「あなたのご両親は、その黒猫のことを知り、連れ去ろうとしましたね」
「――『言い伝えの再来だ』と」
その言葉に、胸の奥が重く沈む。
前の世界で、兄姉と私は、幼い頃から何度も黒猫の言い伝えを聞かされていた。
『黒猫は幸福を招く』
『黒猫を大切にすれば、富が訪れる』
両親は、それを本気で信じていた。
だからこそ、私が黒猫を拾ったと知った時――酷く喜んだ。
『私が再び富を築く者に選ばれたのだ!』
そう歓喜し、両親は私からあの子を奪おうとした。
祖父母がそれを止めてくれたことで、無理やり連れて行かれることはなかった。
けれど、両親は諦めなかった。
今まで見向きもしなかった私に優しく接し、
機嫌を取り、
黒猫を渡すよう説得するようになった。
……それを、面白く思わなかったのが兄姉だった。
今まで自分達だけを愛してくれていた両親が、
突然、黒猫と、出来損ないだったはずの私ばかりを見るようになった。
両親の関心が、
自分達より劣っているはずの妹へ向けられている。
その事実が、二人の誇りを酷く傷付けた。
「……そうですね。
そこから、彼らはあなたへ強い憎悪を向け始めました」
テラ様が静かに続ける。
「本来は、猫神の分身を捕らえようとしていたようですが……素早く、諦めたようですね」
祖父母が亡くなった後、
私は本家で過ごすようになった。
兄姉は、両親のいない隙を狙って私を害するようになった。
最初は、小さな嫌がらせだった。
無視。
物隠し。
……けれど、それは次第にエスカレートしていった。
私物を盗まれ、
暴力を振るわれ、
やってもいない悪事を押し付けられる。
そして、食事に異物まで混ぜられるようになった。
痛みで苦しむ私を、
あの子はいつも傍で見つめていた。
心配そうに、
寄り添うように。
……でも、不思議だった。
あの子が傍にいると、
身体の痛みも、
苦しさも、
少しずつ和らいでいった。
動けないほど辛かったはずなのに、
いつの間にか普通に動けるようになっていた。
押し付けられた悪事についても、
両親は本気で私を責めることはなかった。
それも全て、
黒猫の存在があったから。
「あなたへ降りかかる苦痛は、猫神が癒していました」
「そして両親も、黒猫があなたの傍にいる以上、あなたを強く責めることは出来なかった」
「ですが――それが、彼らの憎悪をさらに増幅させてしまったのです」
……そうだったんだ。
だから、あの日。
珍しく機嫌の良さそうな兄姉に手を引かれ、
外へ連れ出されて。
どこへ行くのか尋ねようとして――。
「あなたは、車道へ突き飛ばされました」
その瞬間、
記憶が鮮明に蘇る。
宙へ投げ出される身体。
歪んだ笑みを浮かべ、
こちらを見下ろす兄姉。
横から迫る大型トラック。
逃げられない。
死ぬ。
恐怖で涙が溢れた、その時。
視界に黒い影が飛び込んできた。
『志乃鈴!』
知らない誰かの声が聞こえた気がした。
次の瞬間、
身体が強く引き戻される感覚がして。
気付けば私は歩道へ倒れ込んでいた。
そして、
さっきまで自分がいた場所には――。
血を流して倒れる、黒猫の姿があった。
「……猫神が、分身へ憑依し、あなたを守ったのです」
「ですが、その代償として……分身は命を落としました」
そこから先の記憶は曖昧だった。
両親や兄姉に何かを言われた気もする。
怒鳴られ、
責められ、
罵倒されていたような気もする。
ただ――。
それ以降、私は。
『せっかくの黒猫を死なせた』
『神に見放された役立たず』
『無能』
そう呼ばれるようになった。
「猫神は、あなたを守れたことに安堵する反面……あなたを傷付けてしまったことを、深く悔いていました」
「もっと力があれば、と」
……違う。
無力だったのは、私の方だ。
私が弱かったから、
あの子は死んでしまった。
後悔と悲しみで、
胸が張り裂けそうだった。
でも、どれだけ悔やんでも、
あの子は戻ってこない。
だから私は、
弔った後も、
あの子に贈った首輪をずっと持ち続けていた。
二度と同じことを繰り返さないように。
無力な自分を忘れないように。
「……あなたは、ずっと自分を責め続けていた」
「壊れそうになるほど努力し、自分を追い込み続けていた」
「その姿を見て、猫神は酷く心を痛めていました」
そうだったんだ……。
あの子は、
こんな私を見捨てず、
ずっと見守っていてくれた。
幸せにしてあげられなかった、
駄目な飼い主だった私を。
「あなたは、駄目な人間ではありません」
テラ様の声は、とても静かだった。
「あなたが分身を愛し、大切にしていたからこそ……猫神もまた、その愛に報いようとしたのです」
「だから、あの日」
「あなたが刺され、死の淵に立たされた時――猫神は、私へ願いに来たのですよ」
『どうか、この子を別の世界へ転移させて欲しい』と」
息が止まる。
「猫神は、自らの過去を謝罪しました」
「そして、あなたを救うためなら、自身の存在も力も全て差し出すと願ったのです」
「私は、その願いを受け入れました」
「そして、ルミナリアの世界へ、あなたを送り届けたのです」
静かな声が、
ゆっくりと胸へ落ちていく。
「あなたが無事転移した後、力の大半を失った猫神は、残った力を私へ返そうとしました」
……力を返す。
それはつまり。
あの子自身が、
消えてしまうということ……?
でも、
ヴェイルガストの時、
確かにあの子は――。
「……私は、その力を受け取りませんでした」
テラ様は穏やかに微笑む。
「元より、受け取るつもりなどありませんでした」
「猫神は、長い時をかけて土地に根付き、一族だけでなく周囲の土地までも守り続けてきた」
「……私の意思を、最も誠実に遂行してくれた子ですから」
その声音には、
深い慈しみが滲んでいた。
「だから今は、休ませています」
「ヴェイルガストの時だけは、私が許可を出して力を貸しました」
――良かった。
消えて、いなかった。
大切なあの子が、
また私のせいで消えてしまったわけじゃなかった。
安堵で胸がいっぱいになる。
「……あなたは、本当に自分より他者を優先するのですね」
呆れたように笑うテラ様。
けれどその声音は、
どこか優しかった。
その姿が、
少しだけ近しい存在のように感じられた。




