第2話 防音室が五つある家
本作に登場するVtuber・事務所・団体は、すべて架空のものです。
「ハル。起きて。ハルってば」
ゆさゆさと体を揺すられて、俺は目を開けた。
「……ユイ?」
「おはよ。八時だよ。一限、また遅刻するよ」
ベッドの横で腰に手を当てているのは、幼なじみのユイだ。
隣の家に住んでいて、物心ついた頃からずっと一緒にいる。黒髪のポニーテールに、いつもきっちりした服装。大学まで同じで、面倒見が良すぎて、俺の母さんから合鍵まで預かっている。
「ほら、目の下にクマできてる。また夜更かししたでしょ」
「推しの配信見てたら、つい」
「……ふーん。誰の?」
「いろいろ。あと最近、歌い手の子にもハマっててさ。歌がめちゃくちゃうまいんだよ」
「へ、へえ……そうなんだ……」
なぜかユイの頬が少し赤くなった。
部屋が暑いのかもしれない。
「そ、それより早く着替えて! おばさんが朝ごはん作ってくれてるから!」
「わかった、わかった」
ユイを部屋から追い出して、着替えてリビングへ向かう。
「おはよう、ハル。ユイちゃんも食べていってね」
「ありがとうございます、おばさん!」
朝の食卓は、なぜか毎朝みんな眠そうだ。
父は無言でコーヒーを飲み、姉はトーストをくわえたまま半分寝ている。ミオは目の下にうっすらクマを作っていた。
「ミオ、夜更かしか?」
「……兄貴に関係ないし」
今朝も塩対応だ。
元気なのは、縁側でラジオ体操をしているばあちゃんだけである。
◇
なんとか一限に滑り込み、昼過ぎ。
俺は大学の端にある、古びた部室棟に向かった。
電子計算機研究会。通称、電算研。
表向きは「自作PCとプログラミングを研究するサークル」だが、実態はほぼゲーム部だ。部室にはゲーミングPCがずらりと並び、今日も誰かがFPSで撃ち合っている。
「先輩っ、おつかれさまでーす!」
ドアを開けた瞬間、背中にどんっと衝撃が走った。
抱きついてきたのは、後輩のほたるだ。一年生で、ショートカットの元気娘。なぜか俺にやたらと懐いている。
「ほたる、毎回タックルするのやめろって」
「えへへ、先輩の背中がそこにあるのが悪いんです! それより一戦やりましょう、一戦!」
「お前とやると一方的にボコられるだけなんだよ……」
「手加減しますって! ……ちょっとだけ!」
ほたるのFPSの腕前は、サークルでも群を抜いている。
結局その日も、俺は十回連続で撃ち抜かれた。
「先輩、ドンマイです! 今のは、ほたるの愛の弾丸ですから!」
「愛があるなら当てないでくれ」
◇
バイトまでの空き時間。
俺は大学近くの小さなカフェ「月灯」に寄った。
カランとドアベルが鳴る。
カウンターの奥で本を読んでいた店員さんが、顔を上げた。
シオリさん。
長い黒髪に、眠たげな目。いつも無口で、ほとんど喋らない。年は俺と同じくらいだろうか。
「……」
俺が何も言わないうちに、シオリさんはブレンドコーヒーを淹れ始めた。砂糖は二つ。ミルクは無し。
いつもの注文だ。
「ありがとう、シオリさん」
「……ん」
小さく頷いて、またカウンターの奥に戻っていく。
ふわぁ、と小さくあくびをしていた。この人も夜更かし仲間なのかもしれない。
◇
夕方。
バイト先の居酒屋「鬼灯」に着くと、さっそく試練が待っていた。
「相沢」
冷たい声に、背筋が凍る。
振り向くと、そこには店長の鬼塚冴子さんが立っていた。
二十八歳。仕事ができて、美人で、そして恐ろしく厳しい。バイト仲間の間でのあだ名は「鬼の店長」。新人がオーダーを三回間違えて泣いたという伝説がある。
「グラスの並べ方が逆だ。取っ手を客の右手側に向けろ」
「す、すみません! すぐ直します!」
「……」
店長は無言で俺の手元を見下ろし、ふと口を開いた。
「……お通しの盛り付けは、悪くない」
「え?」
「それだけだ。開店まで十分。急げ」
すたすたと厨房へ戻っていく店長の背中を、俺はぽかんと見送った。
……今、褒められた?
◇
バイトを終えて家に帰り着くと、俺はふと立ち止まって、我が家を見上げた。
二年前にリフォームした、少し大きめの一軒家。
そして、この家には――防音室が五つある。
あれは、リフォームの打ち合わせのときだった。
『……ピアノを、始めようと思う』と父さん。
――父さんがピアノを弾いているのを、俺は一度も聞いたことがない。
『ヨガの瞑想には、静かなお部屋が必要なのよ』と母さん。
『あたし、筋トレ始めたんだよね。音が近所迷惑になると困るから』と姉ちゃん。
『……受験勉強に集中したいし』とミオ。
『ばあちゃんはねぇ、カラオケがしたいんだよ』とばあちゃん。
そして、なぜか全員が「費用は自分で出す」と言い張った。
うちの家族は、意外とお金を持っているらしい。
「……うちの家族、音にこだわりすぎじゃない?」
防音室がないのは、俺の部屋だけだ。
まあ、俺は配信を見るだけだから、別にいらないんだけど。
◇
その夜。
いつものように推しの配信を見終えて、小腹が空いた俺は、冷蔵庫を開けた。
「お、プリン」
冷蔵庫の奥に、プリンがひとつ。
ちょっと高そうな、ガラス瓶入りのやつだ。
名前は――書いていない。
うちの冷蔵庫では、自分のものには名前を書くのがルールだ。
「誰のでもないなら、いいよな」
俺はスプーンを取り出して、プリンの蓋を開けた。
とろりと甘い。めちゃくちゃうまい。
「……うまっ」
満足して、空き瓶をゴミ箱に捨てる。
――この一個のプリンが。
俺の平穏な日常を終わらせることになるとは、このときの俺は、まだ知るよしもなかった。
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