絶望
「うげっ!」
「……」
桜をクッションにして地面に落ちた俺は、それでも体が痛かった。さらにそんな俺の背中の上にジルダが落ちる。さらに強い衝撃が加わっていたので、口から蛙が潰れたような声が出た。
目線を上げると新たなモンスターが鼻を鳴らしていた。
オークではなかった。
より体が大きく、より手足が太く発達している。頭には大きな角が二本生えており、まるで凶悪な牛のような顔をしている。醜悪な様子で鼻を鳴らしており、こちらへと確実に狙いをつけている。
「――ミノタウロス。ここは“ボス部屋”だと言うことでしょうか」
冷や汗を流す片平が、日本刀の切っ先を向けるように構えていた。だが、その声は震えている。ミノタウロスは先程のオーガよりも強く、勝てるのは一部の探索者だけだと言われている。
ぶもぉおおおおおおおおおおおおお!
ミノタウロスは叫んだ。
その手には何も持っていないが、素手でも大きすぎて棍棒のようにも感じていた。
「逃げて下さい! ジルダさんの安全を一番に!」
片平は叫んだ。ミノタウロスが襲ってくるのを肌で感じたからだろう。本人は強敵だと分かっていながらもミノタウロスと戦う気だ。勝てるのだろうか。私には分からなかった。
「わ、分かった」
俺は震える声で頷いた。すぐにジルダの手を引いてその場から離れようとしたのだが、その前にミノタウロスが俺を見つけて叫んだ。
ぶもぉおおおおおおおおおおおおお!
その声は、俺の体の内側まで酷く響き渡る。
俺の体の動きが止まった。まるでヘビに睨まれたカエルのように体が動かなくなったのだ。
「……?」
傍にいるジルダにはミノタウロスの叫びは効いていないのか、俺のこわばっている姿に首を傾げていた。
「来ます!」
片平が叫んだ。
それと同時にミノタウロスが頭を下げて突進してきた。まるで猛牛のようだ。片平は大量の桜の花びらを自身の周りに生み出していた。桜を身代わりに、ミノタウロスの突進を避ける。そしてどこに行ったのか、ミノタウロスが首を左右に振りながら片平を探すと、頭上から刀を突き刺すように現れた。
だが、大きな角で受けるミノタウロスにその攻撃は通じない。空中にいる片平へと、岩のような腕で殴った。片平は刀で受けるも、その衝撃は刀を破壊し、壁へと飛ばす。
「うぐっ――」
鈍い音とともに口からうめき声のような何かが漏れ出た片平。なんとか桜を壁際に生み出して勢いを殺そうとするも、強く頭を撃ったようだ。血が流れ始めていた。
そんな片平にミノタウロスはもう一度突進を行おうと、何度も地面を足で蹴るふりをする。
狙いを定めているのだ。
「……強すぎます」
片平の口から漏れ出るのは諦観。最後まで抵抗しようと立ち上がろうとするが、膝に力が入らず崩れ落ちた。
そんな彼女に興味が無くなったミノタウロスは、逃げようとしている俺達に次の標的を定めた。既に体が動く俺はなんとか遠くにある出口まで逃げ出そうとするが、もう間に合わないと感じている。ミノタウロスの足はどう考えても俺よりも早い。
「ジルダ! お前だけでも逃げろ!」
逃げ切れない。そう感じた俺はジルダの手を離して、ミノタウロスに足を止める。一般人の俺でも、せめてこの子のための身代わりにはなれるだろう、と思った。
「……」
ジルダは俺の目を少しだけ見つめてから、踵を返すように走り出した。
それでいい。
俺は手頃な石を拾ってミノタウロスに全力で投げつけた。
「来いよ――」
俺は震える声で言った。
勝てないのは分かっている。ここで死ぬのは分かっている。それでも、最後の抵抗は忘れない。
ミノタウロスの頭に石が当たる。かすり傷がついた。線のような微かな傷から、黒い瘴気が漏れ出る。
これは先程気づいたことだが、モンスターにはダンジョン内の物質なら傷を与えることができるらしい。魔力の籠もった攻撃しか通じないのがモンスターだ。きっとダンジョン内の物質には魔力が籠もっているのだろう。
とはいえ、もう何の役にも立たないけど。
俺は石ころを握る。先程よりも大きな石だ。辺りに手頃な武器が無いため、俺が抵抗できる最後の武器だ。ミノタウロスの目に殺気が籠もっている。俺を殺すつもりだ。
ミノタウロスが走るように俺へと追いかけてきた。
早い。
俺よりも明らかに。俺はそんなミノタウロスに立ち向かうように走って飛びかかった。石を持った右手を振り上げて、ミノタウロスをぶん殴ろうと思ったのだ。
だが、そんな俺の攻撃を嘲笑うかのようにミノタウロスは剛腕を振るった。俺の腹部を雑に殴ったのだ。腹が貫かれるような痛みが、俺の意識を朦朧とさせる。宙に飛ばされてなお俺が死んでいないのが、ミノタウロスが手加減したからだと分かった。
あいつは俺を殴った後に、鼻を鳴らしながら嗤っていたのだ。まるで下等生物を嬲るかのように見下す下卑た笑みだった。
俺は地面に落ちて何回も転がってなお、虫のように息を繋いでいた。
死んではいない。だが、腹が捩れるかのような衝撃に立ち上がることができず、その場で倒れ込むしか出来なかった。
ミノタウロスの足音が、やけに俺の耳に大きく響いた。まるで死が近づいてきているようだった
――死ぬのか。
俺はここで殺されるのか。
そう知ってなお、俺の胸のうちに浮かぶのは無念だけだった。
幼き頃を思い出す。
病に犯されている母とのピクニックの思い出を。ダンジョンに吸い込まれて亡くなった父と、幼き妹と共に過ごした温かな日々を。レジャーシートの上で木漏れ日を浴びながらおにぎりを食べた記憶は今でも鮮明に思い出せる。
ああ、もしも母の死が間近なら、妹は一人になるのか。
そう思いながらも俺に出来ることはなく、両目から涙が溢れ出した。
「……痛いの?」
走馬灯だろうか。
何故か倒れている俺の前に――ジルダがいた。
俺は“もう痛くない”と、首を横に振った。もう痛みすらも感じていなかった。
「逃げなかったのかよ?」
俺は自嘲気味に呟いた。
「……逃げ切れると思わなかった」
「そうか――」
「……そう」
その考えは正しい、と俺は口角を上げた。
俺は軋む体の右手で、眼の前に座っているジルダの小さな手を握った。
「一緒に死ぬみたいだな――」
「……死にたいの?」
「死にたくはない――」
「……そう」
「力さえ――」
「……力さえ?」
「力さえあれば――」
――あいつに勝てるのに。
続きは言葉に出来なかった。
血を吐いたからだ。
そんな悔しさを思いながらも、俺は優しげな笑みをジルダに迎えていた。最後に彼女の見る姿が俺の絶望した顔なのは悪いと思ったからだ。
「……力、欲しいの?」
「ああ――」
――欲しい。
力が、欲しい。
俺等を羽虫のように潰すあいつに、吠え面をかかせてやりたい。
母の最後に会いたい。妹を一人にしたくない。ジルダも、片平も死んでほしくない。
そして――生きたい。
何よりも強く俺はそう思った。
「……なら、いる? 私は――死ぬわけにはいかないから」
これまで無表情だったジルダが、血が出るほど悔しそうに唇を噛んでいた。
彼女がどんな存在なのかこの時の俺は何も分かっていないが、ミノタウロスが近づいている状況だと即座に頷いた。
「――いる。力……が、欲し……い………」
俺は血を吐きながら言った。
もう片方の左手も、力を欲しがるかのようにジルダへと手を伸ばした。
「……分かった」
覚悟を決めたように目を瞑ったジルダは、自身の唇の血を指で拭って俺の口の中に入れた。
俺の血と、ジルダの血が体の中で混じり合う。
――どくん。
俺が、“何か”に侵食される。




