地上
既に外は真っ黒であり、大粒の雨が降っていた。
病院は電車を乗り継いだ先にある郊外だった。山の麓にあり、いつもは空気がすんでいるように感じるが、今は雨のおかげで気が重たい。
何度も来ているので道に迷うことはないが、ずぶ濡れになりながら病院まで着くと、息を整えながら真っ直ぐ病室に向かった。
母の病室の前に着くと、俺は濡れた髪をかき上げてから病室に入った。少しだけ緊張したのは気の所為ではないだろう。
「あ、お兄ちゃん! 遅い!」
ベッドの傍には妹の雨がいた。セーラー服を着て、セミロングの黒い髪をおでこのところでヘアピンで止めていた。可愛らしい容姿をしているので、クラスでも何人かに告白された、と以前に母から聞いたことを覚えている。
「……そんなに濡れているけど大丈夫?」
母は力のない声で言った。
既に緩和ケアをしている母は頭に帽子を被っており、ベッドの上で寝ながらこちらへと目だけを向けていた。もう起き上がる元気すら残っていないのだ。
こうなるのは最近の話だった。
少し前まではベッドから起き上がることも出来ていたけど、もうそれすらも出来ないほど体が衰えていた。
こうなるだろう、と看護師だった母は以前に教えてくれていた。
がんが見つかったのは、今からちょうど半年ほど前である。初期症状が全く無かったから発見が送れたのだ。たまたま健康診断で大腸検査をした時に癌が見つかったのだ。
最初は治療に母も勤しんでいた。抗がん剤を使い、手術をし、他の方法も試した。だが、結果は芳しくなく、日々酷くなる病状から母は緩和ケアを選んだのだ。
せめて最後は楽に逝けるように、と。
それから死を感じた母は何度か自宅に帰ることもあったが、多くの時を病室で過ごした。俺も妹も病室に何度も通い、母との時を大切にしている。
母は自分の最後について、すぐに教えてくれたから俺達は心の準備をすることができた。特に妹は母から癌を教えられてから何度も夜に泣いていたが、最近になってその回数も減った。母の状態を、これから迎える母の死を受け入れられるようになったのだ。
「傘を忘れただけさ。大丈夫だよ」
俺は雨の向かいに座る。母のベッドを二人で挟むのだ。見慣れた光景だった。学校終わりにはよくこうなる。
「そう。よかった。ダンジョンに巻き込まれたみたいだけど、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。すぐに探索者に助けてもらったからな」
「それならよかったわ」
母は笑った。
幼少期に似た笑顔と一緒だったが、骨と皮だけになっている。
「お兄ちゃん、そう言えば電球は?」
「ダンジョンに置いてきた」
「もう! お母さん! いつもお兄ちゃんはこんなんなんだよ! 料理だっていつも適当でさ、最近は私が作っているんだよ!」
雨は母の前で泣くのを堪えるように笑いながら言った。
「いつも雨には助かっているよ」
俺は雨を褒めるように言った。
「だって、お母さん! 流石でしょ?」
「ええ。雨は優しいわね」
「でしょ? しかも私って頭もいいし、部活だって頑張っているんだよ! 最近はテストの点数もよかったし、部活だってお点前が上手になったんだから!」
「まるで私の昔を見ているようだわ」
「お母さんも茶道をしていたもんね! おばあちゃんが家元であっているよね?」
「ええ、そうよ。私は二代目よ。いつかは雨が三代目かしら?」
「うん! 私がなるよ!」
「期待しているわ」
「うん!」
母に褒められて雨は嬉しそうに笑っていた。それでも母が進む現実を受け入れられるず、母の胸元に頭を寄せている。
甘えているのだ。まるで幼子のように。中学三年生になる妹だが、きっと今だけは戻ってもいいだろう、と俺もはにかんだ。
それからも暫く雨と母の会話が続いた。邪魔はしない。雨からのメッセージでは、もう母が長くないと知っている。今も母は無理に笑っているが、首から下に力はなく、首を動かすのですら苦しそうだ。
雨は沢山母に話しかけていたが、だんだんと返事が少なくなっていた。きっと今も気力で話しているだけなのだ。
「ねえ、露――」
「なに?」
「家族を大切にね――」
「分かっている」
ふと、母が話を振ってきたのを、俺は受け入れた。母が穏やかに笑った気がした。
「ねえ、お母さん! 私ね……」
「うん……」
それからも雨は数多くの言葉を母に投げかけた。
途中から母の返事が無くなり、頷くだけになっていた。
そして――雨の多くの言葉の中でゆっくりと目を閉じていった母が亡くなった。
◆◆◆
あれから数日が経った。
俺たちは住んでいるアパートに戻り、堅苦しいブレザーの制服からジャージへと着替えていた。
それから行うのが兄妹で手分けして、母の遺品の整理だった。もともと自分で物の整理をしていた母だからこそ、片付けるものはほぼ何もなかったが服などが少しだけ残っていた。
大切にしていた着物は雨が受け継ぐといい、残った少しの衣類は処分することにする。あとは母が父から貰ったという指輪と遺骨の入った壺だけがテーブルの上に残った。
もう葬式なども終わったのだ。
俺達は狭いアパートで大きなため息を吐いた。ここ数日、忙しい毎日を送っていたからだ。
俺達に親族はもういない。全てが亡くなっているからだ。だから葬式や仮想などの準備は全て俺の手ですることになった。病院の人が手伝ってくれたので、そこまでは苦労しなかった。
「お兄ちゃん、昼ごはんはどうする?」
「弁当でも買いに行くか」
「そうしよっか」
だが、俺達の気は沈んでいる。
何故なら――保護者がいなくなった、ということが深くのしかかっているからだ。先程、児童相談所の職員が家まで顔を見せに来た。俺達の今後の生活をどうするか、の相談だった。
通常、身寄りのなくなった子どもはどこかに引き取られるか、施設に行くこととなる。俺達もその話をされた。母が死んで保険金は入ってきたので二人で成人するまで生きていくだけのお金はあるが、どうにもこの国のシステムだと未成年だけだと生きにくい。このアパートも契約者である母が亡くなったので追い出されるかも知れない。
そのための幾つかの選択肢を俺達は出された。すぐに選ぶほどの余裕も無かったので、少し待ってもらうことにした。職員は一時保護をすぐにでもしたいようだったが、気持ちの整理する時間が必要だろう、と判断をされたみたいだ。
重たい腰を上げて弁当を買いに行こうとすると、インターホンが鳴った。児童相談所の職員が何か言い忘れたことがあるのだろうか、と思いながら「はい、鵲ですけど」と言いながら扉を開けると、予想外の人物がアパートの前にいた。
「お兄ちゃん、誰が来た……?」
後ろから覗いた雨の声が止まった。
「……来た」
扉の先にいたのは――ジルダだった。




