隠人 sideラグナ(Part4)
鉄の扉を押し開けた瞬間、地下特有のひんやりとした冷気を押し流すようにして、むっとするほどの熱気と、濁った喧騒が私たちの全身を包み込んだ。
そこに広がっていたのは、地上の廃屋の静寂とはかけ離れた、猥雑で活気に満ちた「大人の溜まり場」だった。
薄暗い天井からは、煤けた剥き出しの配線と、カチカチと不規則な雑音を立てる旧式の機械灯がいくつもぶら下がり、室内を赤茶けた頼りない光で不均一に照らしている。空気は、安物の強い酒の匂いと、燻された煙草、そしてどこのものとも知れないスパイスが混ざり合った独特の悪臭で満ちており、思わず鼻腔がツンと刺激された。
相も変わらず、ひどい匂いだ。私は無意識のうちに顔をしかめる。
床に敷かれた、赤を基調とする絨毯はいつから掃除されていないのか、至る所が擦り切れ、こぼれた酒のシミでどす黒く変色していた。壁際に並ぶ年代物の木製カウンターや円卓は、あちこちが傷だらけで、椅子の背もたれもガタついている。絵に描いたような小汚い酒場――それが、この「バーハイドアウト」の正体だった。
昼夜の概念など存在しないこの地下空間では、多種多様な種族のゴロツキや情報屋、ワケありの旅人たちが、それぞれのテーブルを囲んでガヤガヤと杯を交わしている。
奥の卓では、大柄なトカゲ頭の亜人が濁った声で笑いながらサイコロ賭博に興じ、カウンターの隅では、外套を深く被った怪しげな男が、機械国<デウステクス>の出所不明なジャンクパーツを広げて怪しげな取引をしていた。
彼らは皆、法の手が届かないこの場所で、お互いの素性には深く踏み込まないという暗黙の了解のもとに集まっている。……だが、歩みを進めるうちに、私はある種の違和感を覚えた。以前ここを訪れた時のような、肌を刺すほどの熱気が少しばかりナリを潜めている気がしたのだ。
(客が減っている……? 偶々、今日が少ないだけだろうか)
「うわぁ……! すごいにおいと、こえがいっぱいだ!」
扉の隙間から中を覗き込んだポポロは、その圧倒的な視覚と嗅覚の情報量に、一瞬だけ驚いたように耳をピンと立てた。しかし、すぐに持ち前の好奇心が勝ったのだろう。そのらんらんとした瞳をさらに輝かせ、今度は興奮を隠しきれない様子で、人混みの間を縫うようにしてタタタ、と中へ駆け込んでいってしまった。
「ちょっと、ポポロ、勝手に動き回らないで――」
私の制止の声など、店内に満ちる喧騒と、吟遊詩人が適当に弾き鳴らす調律の狂ったリュートの音にかき消されてしまう。本当に、どこに行っても呑気で自由な子供だ。
実を言えば、やはりこの場所は肌に合わない。この泥臭い生活臭と、下俗な欲望が渦巻く空間は、好きになれない。
ただでさえ、この手の酒場では私のような若い女性は珍しい部類に入るのだろう。
時折、物陰からねっとりとした下劣な視線が向けられているような気がして、吐き気がせり上がってくる気分だ。
だが、魔人を屠り、過去にケリをつけるための次なる手がかりは、この小汚い酒場にあるかもしれないのだ。
私は小さくため息をつき、ポポロの小さな背中を見失わないよう視線で追いかけながら、喧騒の渦中へと深く足を踏み入れた。
「すげー……」
案の定、あちこちをキョロキョロと見回していたポポロは、肝心の前方を全く見ていなかった。
視線の先にあるものに夢中になるあまり、正面から歩いてきた巨大な影にドスンと正面衝突し、勢い余ってその場に尻餅をついてしまう。
「おやぁ? えらく可愛いお客さんだ。ハイドアウトへようこそ」
頭上から響いたのは、金属の振動が混ざった、けれど驚くほど陽気で温かみのある声だった。ポポロがぶつかった足の主人は、この酒場のマスターだった。
全身が完全な機械で構成されている彼は、全長2メートルはあろうかという巨体で、並外れてガタイが良い。そのボディの色は、人間や他の種族の肌を模した軟質なものではなかった。一目で強固な金属製だと分かるグレーのボディプレートが、衣服の袖口から無骨に覗いている。
逆に顔部分だけは人工的な肌色のフレームで作られており、その絶妙なアンバランスさを隠すように、細フレームのサングラスをかけていた。
さらに特徴的なのは、その少し威圧感のあるドレッドヘアだ。といっても本物の頭髪であるはずがなく、金属製の細かいネジのようなパーツがジャラジャラと幾重にも連なって垂れ下がっている。その金属の束には、用途のよく分からない奇妙な形状のパーツが装飾品としていくつも編み込まれていた。全く、いつも思うことだが、頭が重くはないのだろうか。
しかも、彼の規格外な点はその外見だけではない。機械人のくせに、素の人間よりも遥かに感情がわかりやすいところだった。
本来、機械国を起源とする機械人たちには、感情の起伏や気持ちといった有機的な概念など無に等しいはずなのだ。しかし、世の中にはやはり例外というものが存在するらしい。彼ほど喜怒哀楽が綺麗に表に出る機械人も、世界広しといえどそう多くはないだろう。
サングラスの奥の光センサーを明滅させ、マスターは足元で不思議そうに自分を見上げるポポロと、その後ろに立つ私へと視線を巡らせた。
「おいおいおい、ラグナじゃねえか! これは珍しい客が来たもんだ。……この子は君の連れかい? お前が誰かと一緒に行動するなんて、こりゃ明日は大雨だな」
ガハハハ!とマスターが笑うと、胸の奥の排気口から「プシューッ!」と勢いよく蒸気が吹き出し、ボディのあちこちの歯車がガタガタと賑やかな音を立てた。口だけでなくあちこちが騒々しいやつだ。
「たまたまこの森の中で鉢合わせただけよ。知り合いでも何でもないわ」
私は冷淡に言い放ち、マスターの詮索を遮るように本題を切り出した。
「……ディロックスはいる?」
「あいつならいつもの席だ。で、何飲むよ?」
「今はいいわ。……あとで水の補給だけさせて頂戴」
「相変わらず仏頂面だなぁ。お前は笑えば可愛いんだから、もっと人あたり良くしたほうがいいぜ?」
「余計なお世話よ」
フン、と鼻で短くあしらうと、私は目的の人物が陣取っているであろう「いつもの席」に向かって迷わず歩き出した。
背後では、尻餅をついたままのポポロが、未だに目をこれ以上ないほど輝かせてマスターの巨体を見上げている。どうやら彼にとって、本物の機械人を見るのはこれが生まれて初めての経験らしい。
「坊主も何か飲むか? 初回は俺の奢りでいいぜ」
しゃがみこみ、金属の顔をさらに近づけて尋ねるマスターに、ポポロは尻餅をついた姿勢のまま、ちぎれんばかりに尻尾を振って応えた。
「じゃありんごじゅーす、くれ!」
「オーケー、じゃあそこの特等席に座りな」
「ありがとう! おまえ、でっかくていいやつだな!」
「ガハハ、よく言われるぜ!」
マスターの無骨な金属の手で促されるまま、ポポロは弾かれたように立ち上がると、高いスツールが並ぶカウンター席へと、持ち前の俊敏さでひょいと飛び乗った。丸い椅子の上にちょこんと座り、すぐさま物珍しそうに視線をあちこちへと泳がせ始める。
半円状のカウンター内へと戻ったマスターは、その巨体に似合わず手慣れた手つきで戸棚から厚手のグラスを取り出し、年季の入った製氷機から小気味よい音を立てて氷を落とした。そのまま炭酸の抜けたドリンクディスペンサーから、琥珀色のリンゴジュースをなみなみと注ぎ、ポポロの前へと滑らせる。
ポポロは小さな両手で大事そうにグラスを包み込むと、喉を鳴らしながら、幸せそうにゆっくりとそれを味わい始めた。冷たい甘みが口いっぱいに広がったのか、その顔には年相応の、一切の無邪気な笑みが咲いている。
(……まぁ、ポポロはあの騒々しい男に相手をしてもらっていればいいでしょう)
背後から聞こえるジュースをすする音とマスターの笑い声に、私は内心で小さく息を吐いた。ほんの少しだけポポロへの注意を緩めると、私は目的の人物が陣取っているであろう薄暗い「いつもの席」に向かって迷わず歩き出した。
酒場の最奥、一際光の届かないボックス席の一角に、探していた男はいた。
ローテーブルの上には、丸い氷がゆっくりと溶けゆく、琥珀色のロックウイスキーがポツリと置かれている。まったく、ここの連中は昼夜の別もなく強い酒を煽る。実に羨ましい限りの良いご身分だ。
私がその卓の前で足を止めると、男は気怠げに視線を上げ、椅子の背もたれに預けていた上体をわずかに揺らした。彼が頭を動かすたびに、無造作に伸ばされた灰色の長髪が、頼りない灯火に照らされて鈍く光る。
「あ~? こりゃまた、ずいぶんと久しぶりに見る顔だな。……まだしぶとく生きてやがったか」
煙草の煙で焼けたような、ひどく低く掠れた声。男――ディロックスは、グラスを指先で弄びながら、値踏みするような双眸を私に向けて細めた。




