鬼の里 SIDEアレン(part29)
里の中へ足を踏み入れると、そこには拍子抜けするほどにのどかな風景が広がっていた。本当に魔人との戦争状態が状態なのか疑いたくなる程には。
時折、腕や頭に白い布を巻いた負傷者や、足を引きずる戦士の姿が見受けられるものの、集集落全体を包んでいるのは静かで穏やかな空気だ。
「落ち着いてますね……」
同じ感想を抱いたらしき、セシルが呟くように口から漏れる。
「ね、もっと物々しい雰囲気かなとも思ったんだけど」
小さな子供たちが朱土の路地を無邪気に駆け回り、大人たちがそれを温かな眼差しで見守っている。今は魔人との戦争状態が嘘のように、緊張感は影を潜めていた。
その穏やかな営み自体は、俺たちの暮らす人間領の村々と何ら変わりがない。
ふと、隣を歩くセツナさんの横顔を盗み見る。
「……みんな、無事でよかった」
セツナさんは、駆け寄ってくる里の者たちに優しく微笑み返しつつも、その瞳の奥には拭いきれない悲哀と葛藤の色を宿していた。
命がけの渡航の末、無事に故郷へ戻れた安堵。そして、一刻を争う有事の最中に里を離れ、自分だけが外の世界へ逃れ出たかのような罪悪感。族長としての責任感が、彼女の心を苛んでいるのだろう。
だが、そんな彼女への好意とは対照的に、周囲の鬼たちから俺たちに向けられる視線はあまりに多彩で、そして鋭かった。
好奇心、恐怖、疑念、外の世界への憧れ、そして露骨な拒絶と畏怖。
フェリクセンが建物の側から覗き見ている子供の鬼に手を振るが、すぐに建物の陰に消えていく。
「もしかして俺たち、歓迎されてない?」
「……だろうな」
この島の中で「外の世界」がどのように語り継がれてきたのかは分からないが、少なくとも手放しの歓迎でないことだけは確かだった。
それでもセツナさんが隣にいるからこそ、彼らは一定の距離を保っている。彼女が時折立ち止まり、声をかけるたび、鬼たちは深く頭を垂れていた。彼女が一族からどれほど慕われているかが痛いほど伝わってくる。
案内されるがまま、俺たちは集落の最奥——断崖の最も高い場所に鎮座する、一際大きく荘厳な建物へと辿り着いた。
切り立った石階段の先。
その御殿と呼ぶべき代物は、ただただ「圧巻」の一言に尽きた。
鬼という種族の並外れた体躯に合わせて設計されているため、門扉も、柱の太さも、天井の高さも、すべてが規格外に大きい。
ヒューメブルグの華美な王城や、デウステクスの天を突く金属タワーのような圧倒的な「広さ」や「巨大さ」とはまた異なるベクトルだ。そこにあるのは、圧倒的な質量と重厚さ、そして歴史が醸し出す重圧感だった。
長きにわたり紡がれてきた伝統と、鬼種の持つ力強さが融合した、気高くも荒々しい聖域。
「すっごーい……! ここがセツナさんのおうち?」
デンドロビウムさんが下から上を見上げる様にして呟いた。
「ええ。とは言っても、先祖代々の族長が受け継いしてきた公的な屋敷に過ぎませんが……」
「すごく素敵な場所〜……! でも、ここ、すごく高くて風も強いから、ちょっと足がすくんじゃうかも」
「何百年も前から存在する、この里で最も古い建造物なのです。木材の一本一本に至るまで、職人たちが手入れを絶やさず守り続けてまいりました」
「何百年、ですか……。刻まれてきた年月と歴史の重みを感じます」
話に聞く神社や仏閣を思わせる、この和式独特の木造建築群はどこを見ても新鮮で、それでいて不思議と懐かしい温もりを感じさせた。
無骨で重厚な木肌は、荒ぶる鬼の戦士たちを優しく包み込み、癒やすための「母なる巣」としての役割を果たしてきたのだろう。
やがて、大広間へと続く巨大な木製の引き戸の前まで到達すると、案内役を務めていた片目に傷を持つ大男——ナタクがピタリと足を止め、こちらへ振り返った。
「そう……何百年、何世代と途切れさせることなく紡いできた歴史が、この里と島にはございます。そして今、鬼以外の者たちがこの敷居を跨ぐのは……我が一族の歴史上、これが初めてのことにございます」
ナタクの声には、隠しきれない棘が混ざっていた。
外の者。
すなわち、部外者である俺たちの存在が気に食わないのだと、その不機嫌な態度が雄弁に物語っている。
おそらく彼は、族長が外の世界へ救援を求めに行くこと自体に反対だったのだろう。
異種族である俺たちの力を借りるという事実が、誇り高い戦士として許せないのかもしれない。
「ナタク。彼らは私の大切な客人です。……あまり無礼な態度は許しませんよ」
その露骨な態度に対し、セツナさんが静かに、けれど底冷えするような低い声で言葉を挟んだ。
先ほどまで俺たちに見せていた柔らかさは消え去り、そこには一族の頂点に立つ「族長」としての絶対的な威厳と冷徹さが宿っていた。
船上で見た彼女の一面と相違ない姿がそこにはあった。
その気迫に気圧されたように、ナタクは巨躯を緊張させ、深く首を垂れた。
「……ハッ。大変失礼いたしました、セツナ様」
ナタクはそう言って、傍らに控えていた配下の鬼たちへ腕で軽く合図を送った。
その促しに応じ、彼の背後にある巨大な木造の扉が動き始める。まるでナタク自身がこの屋敷の主であるかのような、どこか不遜な立ち振る舞いだった。
『ゴゴゴ……』と重苦しい音を立てて扉が開いていく間、俺たちの後ろからひそひそと囁き合う声が聞こえてきた。
「ね、ねぇ……私たち、やっぱりあんまり歓迎されてない感じ?」
デントロビウムさんが耳打ちするようにエデンへ身を寄せている。
……だが悲しいかな、彼女の声は元々通りが良すぎるため、ひそひそ話のつもりでも周囲の鬼たちにバッチリ筒抜けになっている気がして冷や汗が出る。それが意図的な嫌味でないことだけを祈るばかりだ。
「……無理もないな」
エデンは表情一つ変えずに低く返した。落胆している様子はなく、むしろ歓迎されない現状こそが当然だと言いたげな冷静さだ。
「鬼の人たちも、意外と一枚岩というわけではないのでしょうか……?」
そこにセシルも不安げに口を挟む。
いよいよ本格的に鬼の戦士たちへ聞こえてしまうんじゃないかとハラハラしていると、
「でも、上には絶対に従うのが掟だって、前にセツナさんが言ってたよな……」
フェリクセンまで参加し始めた。気づけば俺以外の全員が輪になって邪推を交わしている。
「今は戦争の真っ最中だし、色々とこじれちゃってるのかもね。お兄さんが不在だって話だし、それも関係してるんじゃないかな」
様々な推測が飛び交う中、俺はその井戸端会議には加わらず、そっとセツナさんの隣へと歩み寄った。
横顔を盗み見る。
セツナさんの表情は変わらない。穏やかでありながらも、揺るぎない覚悟と決意に満ちたその眼差しで、重い扉が完全に開かれるその瞬間をじっと待っていた。




