幕間:夜明けの寄り添い side ノエ
時は少々遡り、深夜の船上。
激戦の後の空腹を満たした一行は、それぞれ夜更けの静寂へと身を委ねていた。
ゆりかごのように心地よく揺れる船室。
ノエは疲弊した身体を癒すべく、早々にハンモックへと巨躯を預けていたのだが——不意に、パチクリと瞼が開いた。
(……身体が、重いですね)
過酷を極めた砂漠越えの疲労や今日の戦闘の疲れが満足に取れていないのがわかる。
だが、まだまだ旅の道中のせいか、身体が自然と警戒心が働いているようだ。
深く息を吐き出し、軋む骨を宥めるように寝返りを打った。
夜の船番は、あの頑なな赤毛の少女——ラグナが自ら買って出てくれていた。
壁の時計の針は、すでに深夜の静寂を指している。
(そろそろ、交代してあげなければ)
彼女の好意に甘え、このまま泥のように眠り続けることもできた。
けれど、復讐の情念に身を焦がし続けるあの小さな少女にも、身を休める温もりが必要だろう。
この寒空の下、ずっと一人で船番を押し付ける訳にも行かない。どこか親心や姉弟愛にも似た温かな感情が胸をかすめ、ノエは上着を羽織ってハンモックからしなやかに滑り降りた。
船室を一歩出ると、廊下には海の冷気を孕んだひんやりとした空気が漂っていた。
カツ、カツ——と、静かに、けれど足裏に確かな甲板の感触を感じながら廊下を進む。
鬼島への上陸を、誰よりも焦がれていたのは他ならぬラグナだ。
私たちを置いて、一人で島へ乗り込む選択肢だってあったはずだ。それにもかかわらず、彼女は溢れる功名心を抑え、仲間が休んでいる間、自ら進んで船番を申し出てくれた。
その頑なな行動の裏に、どんな想いが秘められているのだろう。
ただ魔人への憎悪だけで駆動していた彼女の心の中で、何かが芽吹き、変わりつつあるのだろうか。
それとも、元から底のほうに眠っていた彼女本来の優しさが、氷を溶かして溢れ出してきたのか。
復讐鬼という恐ろしい仮面の下から、一人の「人間」としての温もりが手繰り寄せられているのかもしれない。
(どちらにせよ……私たちに心を許してくれている証拠、ではありますね)
出会った当初の、他人に無関心で何かと距離を置こうとする彼女を思えば、これは大きな、あまりに愛おしい進歩だった。
あの食えない情報屋、ディロックスは、彼女の中に眠るこの柔らかい可能性を初めから見抜いていたのだろうか。
(……ふふ。まさか。あの人が、そこまで先のことを見通せるわけがありませんね)
己の思索にひとつ苦笑を漏らしながら、ノエは甲板へと続く木製の扉へと手をかけた。
ギィ、と戦闘の痛々しい爪痕が残る扉を開ける。
二メートル近い巨躯を誇る竜人族のノエにとって、この船の規格は少々慎ましすぎた。
この船はもともと鱗獣種が使いやすいように設計されているため、天井や船室自体は広いのだが、扉の高さだけはどうしても足りない。ノエは側頭部から伸びる立派なツノをぶつけないよう、器用に首をすくめて身をかがめた。
乗船したばかりの頃は、このツノを何度も鴨居にぶつけては豪快に転げそうになったものだ。
しかし、そのツノには傷ひとつ存在しない。
何度もあちこちにぶつけようとも、竜人族の誇りそのものである剛角は、艶やかな光沢を放ちながら雄弁にノエの頭上を飾っていた。
扉をくぐり抜けた先——そこには、息をのむほど密やかな夜の世界が広がっていた。
頭上には、零れ落ちてきそうなほどに群生する満天の星々。
静かな海原は波に揺られ、さざめく潮騒が耳を優しく撫でる。夜風がノエの黒髪と上着をふわりと押し流し、肌を撫でる感覚が心地いい。
暗闇を照らすのは、雲の隙間から降り注ぐ蒼白い月光だけだった。
少し視線を巡らせれば、すぐ目と鼻の先に「鬼島」の黒々とした影が佇んでいる。風に揺れる太古の原生林が立てる、さわさわという笹鳴りのような音が、夜の静寂に溶け込んでいた。
世界から切り取られたかのような自然の静寂が支配する甲板。
その片隅、階段の手すりにそっと背をもたれかけ、ポツンと座り込んでいる人影がひとつあった。
月光を跳ね返し、白く涼やかに佇むあの細剣がなければ、暗がりの中で彼女を見落としていたかもしれない。
ノエは音を殺し、静かにその影へと歩み寄った。
「ラグナ……?」
耳元へ滑り込ませるように優しく声をかける。
だが——近づくにつれ、彼女の様子がどこかおかしいことに気づいた。
「あらあら……」
よく見れば、彼女は細い肩を規則正しく揺らし、すうすうと小さな息を立てていた。
小さな身体をさらに丸めて、折りたたむように。けれど体勢を崩して倒れてしまわないよう、不思議なほど器用に階段の上で座ったまま眠りに落ちている。
器用にマントを体に巻いて、体を冷やさないようにしている。
昼間の巨大魔人との死闘で、疲労が限界に達していても何ら不思議はない。ただでさえ、灼熱の砂漠を越え、何もしなくても体力を削ぎ落とされる船旅が続いていたのだから。
素直にハンモックへ潜り込めばいいものを、こうして不器用にも「船番」という責務を果たそうとしていたのだ。
ただ黙って、防備を丸裸にして可愛らしく眠る姿を見つめていると——。
(……本当に、ただの年相応の少女ですね)
普段の険しい表情が嘘のように削ぎ落とされた寝顔に、ノエの胸の奥から温かな愛おしさがこみ上げてくる。母性とも姉妹愛ともつかない、どこか慈しむような眼差しでその顔を覗き込んだ、その時。
「ん……?」
前髪の細い隙間から見えた目元に、大粒の涙が溜まり、月光を浴びてキラリと輝いているのが見えた。
(無理もない、ですね…)
幼少期に故郷を惨殺と焔の中に奪われ、それからは居場所のない根無し草として生きてきた。
共に旅をしたという師匠の男も約四年前に失踪して以降、今はどこで何をしているのか分からず、生死すらも定かではないという。
どれほど鋭い刃を飾ろうと、内面はまだ十代の少女なのだ。並の精神で耐えられる絶望ではない。
きっと今までもずっと、誰にも弱音を見せられず、一人暗闇の中で枕を濡らし続けてきたのだろう。
ノエは、赫く強靱な鱗で覆われた自身の腕を、そっと伸ばした。
大きな手。けれどその動作は、壊れものを扱うかのようにどこまでも繊細だった。
硬い鱗のついた指先で、彼女の目元から溢れ出そうだった一滴の涙を、優しく拭い去る。
そのまま手のひらを滑らせ、彼女の小さな頬を、包み込むようにそっと撫で上げた。
まるで頬に着いた傷を隠すかのように。
冷えた夜風の中で、ラグナの頬の熱が、ノエの鱗越しに微かに伝わってくる。
小さいけれど、確かに脈打つ生命の温かな鼓動。
「ん……っ」
人肌の温もりが恋しかったのだろうか。
ラグナは夢心地のまま、心地よさそうにノエの大きな手にすりすりと頬を寄せ、顔を小さく揺らした。
朱色の柔らかい髪がノエの手の甲を撫で、くすぐったく、けれど何物にも代えがたい温もりが皮膚を伝っていく。
普段の、ツンと尖って誰彼かまわず威嚇していた彼女からは想像もつかない、無防備で愛らしい仕草。
ノエの唇から、小さな吐息のような微笑が漏れた。
満天の星々と蒼い月影の下、静かに揺れる船の上で、ノエは少女の温もりを慈しむように、しばらくの間その頬を優しく撫で続けていた。
皆さまどうも&初めまして!
みゃ~むら、と申します。
今回もお読みいただき、誠にありがとうございました。
レビュー、感想をお待ちしております。
もうすぐ大型連休ですね。
皆様は何かご予定おあり?
私は一件だけあります。
残りは執筆だの趣味の時間に充てようと思います。時間の使い方、みんな違ってみんないい。
皆様も素晴らしい時間が過ごせますよう祈っております。
それではまた次回で。




