回廊 side ラグナ(part20)
「はぁ……っ、く……っ」
ザビーネに短い休憩をもらい、船の最下層に近い、あてがわれた薄暗い船室に一人で籠らせてもらってから、どれほどの時間が経っただろうか。
部屋の隅に吊るされたキャンバス地のハンモックは、船体の規則的な傾きに合わせて生き物のようにゆらゆらと揺れている。私はそのハンモックには頑なに身体を預けようとはせず、部屋の中央にある古びた木製の狭い机に両腕を突き、それを枕にするようにして無理やり突っ伏していた。
横になって完全に緊張の糸を解いてしまえば、そのまま本格的に深い眠りの底へと引きずり込まれてしまいそうだったからだ。今の私の精神状態で一度でも眠ってしまえば、今度は一体どんな悍ましい悪夢を見て目を覚ますことになるか、分かったものではなかった。
ギギ、ギギ、と船体の軋む音が鼓膜を不快に刺激する。それに合わせて、私の視界も、平衡感覚も、ぐにゃりと歪んでいくようだった。
今、激しく胸の奥を苛んでいるこの猛烈な吐き気は、ただの慣れない船酔いによるものなのだろうか。それとも、強固な陸地を離れ、底の知れない広大な海を間近にしたことで強引に呼び覚まされた、あの忌まわしい過去のフラッシュバックによるものなのか――もはや自分自身でも判別がつかないくらいに、気持ちが悪くて仕方がなかった。冷たい汗が額から滲み出て、机の木目にぽつぽつとシミを作っていく。
これまでにないほど、自分の精神が擦り減り、衰弱しているのが嫌というほどよく理解できた。
指先ひとつ動かすのにも、鉛のような重苦しさが伴う。
(な、んで、こんな時に……っ)
心の中で、血を吐くような呪詛が渦巻く。
今まで、どれほどこの瞬間を渇望してきたか。どれほどこの日のために命を削ってきたか。
ようやく、自分が九年間という気の遠くなるような歳月をただひたすらに待ち望んでいた、「魔人との戦い」へと赴く切符を手に入れたというのに。
あの日、私の平穏な日常と、優しかった故郷のすべてを容赦なき紅蓮の地獄へと変えた存在――名前も知らない、だが明らかに他の有象無象の怪物たちとは一線を画する、あの圧倒的で強大で、悍ましい魔人に、ようやく巡り会えるかもしれない地へと向かっているのだ。
この九年間というもの、私はただこんな日を迎えるためだけに生きてきた。
目的はただ一つ、復讐。
それ以外に私を突き動かす燃料など存在しない。
だというのに、いざその戦地へ向かう船の上で、こんな無様な有様でへばっているなんて。これから鬼島への上陸はおろか、その前段階としてルハンから直々に依頼された海の化け物――ウミボウズとの戦闘など、まともにこなせるのだろうか。
「もう……最悪ね……」
自嘲を込めた呟きが、乾いた口の端から漏れ出るようにして、ぽつりと苦い愚痴となってこぼれ落ちる。
どれだけ奥歯を噛み締め、自分を奮い立たせようとしても、今すぐ武器を取って前線に出られるような状態には程遠かった。胃の腑の底から容赦なく競り上がってくる内臓を掴まれるような気分の悪さと、頭の奥深くにべったりとこびりついて離れない微かな眠気。その二つの大波に抗いきれず、押し流されるようにして、私はついに支えきれなくなった重い瞼を閉じた。意識が、暗転していく。
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唐突に、五感が跳ね上がった。
次に私が気づいたとき、私はあの果てのない、どこまでも真っ白な空間にぽつんと佇んでいた。
上下も左右もわからない、壁も天井も存在しないかのような、無限に続く純白の広がり。
足元を見ても、自分の影すら投影されていない。
――あぁ、見覚えがある。嫌というほど記憶に刻まれている。
ここは、あの場所だ。
私の精神の最奥にあるのか、あるいは世界の隙間にあるのかもわからない、あの奇妙な空間。
「あれ、また来たんだ?」
「うわっ!?」
すぐ後ろ、防備の薄い耳元の至近距離から不意に軽薄な声をかけられ、私の心臓は爆発したかのように大きく跳ね上がった。
ビクッと全身の細胞が恐怖と拒絶反応を起こすように硬直したあと、私は即座に弾かれたような勢いで反転し、その声の主から大きく距離を取るようにして後ろへと飛び退いた。
荒い息を吐きながら、油断なく手元を見るが、当然ながら愛用の剣はここにはない。
そこに佇んでいたのは、以前にこの空間で初めて出会った、重力を完全に無視して宙に浮かびながら、呑気に睡眠をとっていたあの少女だった。
相変わらず、何もない空間の床から足を数センチほど浮かせたまま、ふわふわと漂っている。それでも小柄な彼女の視点は、地に足を着けている私よりも少しだけ低い位置にあった。
「……別に来たくて来てるんじゃないわよ。というか、あんたが勝手に私をここに引っ張り込んでるんじゃないの?」
睨みつけるようにして言い返す。目の前にいる、どう見ても自分より年下にしか見えない、可憐で儚げな少女。この子供のような存在が、本当にこの世界を統べる「創造主」だというのだろうか。
未だに信じきれない自分がいた。
しかし、あの古びた神殿の天井に描かれていた厳かな絵、そしてあのハティが畏怖を込めて語っていた神の風貌とは、あまりにも完璧に一致しすぎていた。
光を孕んで透き通るような純白の髪は、風もないはずの空間で生き物のようにサラサラとはためいている。身にまとっているのは、装飾の一切を排した真っ白なワンピース。だが、ワンピースのドレス部分にはあちこちに、幾何学模様の刺繍が施されている。
そして何より、その瞳だ。見つめているだけで吸い込まれてしまいそうなほど、どこまでも深く、濁りのない澄み切った色彩。まだ幼いあどけなさを多分に残しつつも、同時に、見た者すべてを本能的に平伏させたくなるような、圧倒的な美しさと不可侵の神聖さをその身に秘めていた。
こちらの激しい動揺と警戒心を値踏みするように伺っているのか、少女はニコッと口角を微かに上げて、無邪気な微笑みを浮かべてみせる。けれど、その純粋すぎる笑みこそが、かえって人間としての感情の起伏を感じさせず、人間離れした異質な近寄りがたさを不気味なほど引き立てていた。
「そんなに警戒しなくてもいいじゃない。今の私には貴方をどうこうする力なんて残されていないし、もし出来たとしてもそんな事をするつもりもないわ。ハティから色々、私のことは聞いたんでしょう?」
鈴を転がすような澄んだ声で、コスモは言う。
「……色々聞きすぎてね、頭がパンクしそうになるくらいよ」
ため息混じりに吐き捨てる。
ノエも私も、あの神殿で突きつけられた衝撃的な事実を忘れたわけではない。
ただ、自分たちの許容量を超えて与えられた「世界の真実」という情報があまりにも巨大で、かつ荒唐無稽すぎて、上手く噛み砕くことができていないのだ。半ば現実逃避のように思考を一旦放棄し、目の前の現実だけを見ようとしている状態に近かった。
というより、一介の自分が世界の秘密とやらを知ったところで、まさに宝の持ち腐れだった。知ったところで、今さら変えられない過去や、どうにもならないことばかりだ。
いつか使える日が来るのかもしれないけれど。
ちなみに、ポポロに至ってはあの時ぐっすり寝ていたため、この話をほとんど知らないまま、今も呑気に船の甲板を走り回っている。
だが、そんな諦念を抱えつつも、目の前にいるこの「神」とやらに、どうしても一つだけ、この機会に確認しなければならない、私の魂が要求する質問があった。
私は一歩、白い床を踏み締め、コスモを真っ直ぐに見据えた。
「ねえ。……あんたって何で、魔人なんて怪物を『生み出したの』?」
その言葉には、隠しきれない刃のような怒りと憎悪が混じっていた。
こいつが、あの残酷で無慈悲な魔人なんて存在をこの世に作り出しさえしなければ。私の故郷があんな悲劇に見舞われることも、私の大切な人たちが理不尽に命を奪われることも、私がこうして泥水をすするような生き方を選択することも、何一つなかったはずなのだ。
その怒りを孕んだ私の質問に対して、白髪の少女――コスモは、少しも怯む様子を見せず、小さな人差し指を細い顎に当てて、小首を傾げた。まるで、今日の晩ご飯は何にしようかと悩む子供のような気安さで。
「何でって……色んな子がいた方が、世界は楽しいでしょう?」
悪びれもせず、どこまでも純粋に、無邪気に言い放つ。その普遍的で、あまりにも平熱な態度。私の人生を狂わせた元凶が、そんな一言で片付けられたという事実に、ふつふつと、いや、マグマのように激しい怒りが足元から湧き上がってきた。
初めまして&どうもです!
みゃ~むら、です。
この度は読んでくださりありがとうございます。
感想コメントなどお待ちしております。
ちなみに今回は、お試しの朝の投稿でお送りしておりま~す!
さて、皆様は普段ご飯はどうされていますか?
パートナーさんに作ってもらってたり、コンビニや外食で済ませたり色々あるかと思います。
どの選択肢もとても魅力的で、素晴らしいものだと思います。
私は自炊派です。社会人になった時から一人暮らしを始めて、その時から自炊をしているのですが、皆様いかがでしょうか。
自炊の魅力的な点は、外食よりも安価で自分の好きな味を作れたり、「次はどんな味だろ〜」っと色々実験ができる点です。摂る栄養素を自身でコントロールできる点もいいですね。日本人は塩分を摂りすぎのようですよ。
ダメな点は、夏は火の周りが暑かったり、冬は水が冷たい点です。お皿洗いは自分にとってはそこまで面倒には感じません。買い物に行くのも少々手間に感じる時がありますね。
面倒臭いとは感じつつも、自炊派として長年生きてきたので、今後もこれからは自炊派として生きていくのだろうなぁ、と思います。
皆さんも時間が許すのでしたら、自炊してみてください。




