幕間:二人の密会 sideノエ&ポポロ
港町の安宿、薄暗い部屋の片隅で。
ノエは、大人しくも確かな、とことことした微かな足音で目を覚ました。
「んっ……」
重い瞼を押し上げ、身体を捻って足音の正体を確認しようとする。
足音の主が、寝込みを襲おうとする不届きな盗賊である可能性もゼロではない。……まあ、就寝前に扉の鍵は念入りに確認したし、このあまりにも軽やかで小さな足音の響きからして、その線は薄いだろうけれど。
しかし、いくら竜人族の強靭な肉体と高い再生機能を持っているとはいえ、先の戦いで負った痛みがまだ微妙に芯から抜けてくれない。
ノエはきしむ身体に鞭を打つようにして、ゆっくりと上体を起こした。まだ半覚醒の頭はひどく眠く、琥珀色の目は細められたままだし、いつも綺麗に整えられている美しい髪はボサボサに乱れている。
普段の隙のない彼女を知っている者が今の姿を見れば、想像もできないほどの気の抜けようだろう。それだけ彼女にとっても、過酷な旅の疲れと抗えない眠気には勝てないということだった。
「……それにしても、ふぅ……」
鱗獣領内の宿のくせに、どうしてこんなにベッドの寸法が小さいのか、今度店主に文句の一つでも言いたいくらいだった。一晩中身体を丸めて寝ていたせいで、節々の筋肉が凝り固まっているのを感じる。
まあ、急遽取った宿だし、連泊するわけでもないのだから贅沢は言えない。
少しばかり身体を伸ばすため、天井に向けて細い両腕をぐっと突き上げた。
「っつ……」
やはりまだ疲れは完全には取れておらず、腰と肩の怪我がじわりと痛んだ。
ノエは寝ぼけ眼のまま、寝室のソファへと視線を移す。
そこでは、赤毛の人間族の少女がすうすうと静かな寝息を立てて眠っていた。寝顔こそ掛け布団に隠れて見えないが、どうやら彼女もソファの狭いスペースに上手く身体を丸めて、深い眠りに落ちているようだった。ゆっくり休めているようで、何よりだ。
一方で、もう一つの隣のベッド。
本来なら、そこには可愛らしくも勇敢な小柄な獣人――ポポロが寝ていたはずなのだが。
「あら、やはりですか……」
推測通り、先ほどの足音は彼のものだったらしい。
ベッドはすでに文字通りもぬけの殻で、くしゃくしゃになった小さな布団だけが、心細そうに取り残されていた。
窓の外を見やれば、東の空が白み始め、ちょうど太陽が昇ろうとしている時間だった。外からは、朝市<マーケット>が動き出す前の、あの独特なざわめきと活気がじわりと這い上がってくる。
(あの子、意外と早起きなのですね……)
ポポロの朝の強さに驚きつつも、一体こんな早くから何をしに行ったのだろうかと、ノエは少しだけ眉をひそめた。見知らぬ土地の港町だ、うっかりうろついて迷子になる可能性もある。彼だって、大した怪我ではなかったとはいえ満身創痍だったはずだが、もう疲れは取れたのだろうか。
「……とりあえず、私も包帯を替えておいた方が良さそうですね」
上着を少しずらし、腰や肩の傷を確認する。
白い布地には、かすかに真新しい赤が滲んでいた。ベッドのシーツに血を移してしまわなかったことだけが幸いか。
しかし、まだ気持ちよさそうに眠っているラグナのいるこの部屋で、物音がするような作業は控えた方がいい。
ノエは宿の一階に、宿泊客が自由に使える小さなロビーと座席があったことを思い出した。あそこで軟膏を塗り直し、包帯を取り替えてから、ポポロの姿を探しに行くとしよう。
ノエは早速上着を羽織ると、鞄やポーチを軽く身につけ、万が一に備えて愛用の武器も背負った。
そして、眠る少女を起こさないよう、細心の注意を払って静かに扉を閉めた。
ーーーーーーーーー
「お、ノエ。おきたのか」
「あら……意外にも、こんな近くにいたのですね」
ギシギシと鳴る階段を下り、一階のロビーへと降り立つ。
まだ早朝ということもあって、薄暗い空間には一人の小さな影を除いて誰もいなかった。フロントの受付も今は休憩中なのか、もぬけの殻だ。いかにも鱗獣領の安宿らしい、その大雑把でゆるい空気感が、ノエにとってはどこか懐かしく、故郷に帰ってきた様に感じる。
決して広くはないが、石造りの多少薄汚れたロビー。その中央にある木製の丸テーブルのソファに座っていたのは、他ならぬポポロだった。
テーブルの上には何か厚みのある本のようなものが広げられており、彼の小さな手には不釣り合いな羽ペンが握られている。
ノエは音を立てないよう、彼の対面にある長椅子へと腰を下ろした。
「おはようございます、ポポロ。よく眠れましたか?」
「あぁ! だけど、まだすこしねむいぞーっ」
大きな、いかにも子供らしいあくびをしながら返事が返ってくる。その動きに釣られるようにして、彼の大きな獣耳がパタパタと揺れた。
「その割には、ずいぶんと早起きですね。私はてっきり、貴方が一番最後に起きてくるものと思っていました」
「おれだって、まだねむたかったけどさ。きのう『にっか』ができてなかったからな」
「日課……それは、日記ですか?」
「おう! まいにち、かかさずかいてるんだぞ」
意外な習慣だった。
見た感じの彼はかなり大雑把で、型に嵌まるのを嫌う野生児のような性格に見えるが、案外そうでもないのかも知れない。
ノエが広げられた日記帳をチラリと盗み見ると、お世辞にも綺麗とは言えない、丸っこくて力強い文字が、紙面いっぱいにぎっしりと並んでいた。獣人族は一般的に識字率が低い傾向にあると聞いたことがあったが、この小さな少年は、幼いながらも自分の言葉をしっかり持っているようだ。
「ノエは、どうしたんだ? おれのあしおとで、おこしちゃったか?」
「いえ、大丈夫ですよ。ただ、ちょっと……ふぁあ」
そう言いかけたノエの口から、自然と小さなあくびが漏れ出た。どうやらポポロのあくびに釣られてしまったらしい。
「ほら、やっぱりノエもまだねむそうだな。めずらしいノエだぞ」
「フフ、恥ずかしいところを見せましたね。でも、自分の意思でここに来たのですから、気にしないでください」
ノエは少しだけ頬を緩めながら、持ってきていた新しい包帯を片手でフリフリと見せた。ポポロはそれを見て、すぐに事情を察したようだ。
「……まだ、そこいたむか?」
小さな頭をこてんと可愛らしく傾けながら、尋ねてくる。その動きに合わせて、彼の片耳が少しだけ頼りなげに垂れた。
「大した傷じゃないですよ。竜人族の治癒力を侮らないでください」
そう応えながら、ノエは手際よく古い包帯を解いていく。傷口はすでに大部分が塞がってはいるものの、まだ完全に元の皮膚に戻りきってはいない。彼女は痛みを表に出さないまま、丁寧に新しい軟膏を患部へと塗り直していった。
「なぁ、ノエ。……ちょっと、きいてもいいか?」
日記を書き終えたらしいポポロが、羽ペンを置いて、何かを言いたそうにこちらを真っ直ぐ見つめてきた。
「なんでしょう?」
ノエは手を止めず、包帯を腰に巻き直しながら会話を促す。
いつも興味津々で、純粋な好奇心の塊のような彼だ。一体どんな突飛な質問が飛んでくるかわからないため、胸の奥が少しだけドキドキとする。……まさか、男女の恋愛にまつわる話だとか、そういう方向だろうか。
「ようへいって、どうなんだ?たのしいのか?」
「あら……」
(よかった、そっちの方向性ですか)
ノエはほっと胸を撫で下ろした。
少しだけ安堵しながら、肩口の包帯をきゅっと結び直して答える。
「やっている事は護衛が主です。期待している様な楽しい冒険はあまりないかもですね」
「ほうほう」
「けれど色んな所に行けるのと、名が売れれば仕事に困らない長所と言えるでしょうか」
「ほーう」
肩口の巻き直しを終え、ノエは次に腰の包帯へと手を伸ばした。
「逆に、どうしてそんなことが気になったのです?」
「おれも、いつかせかいをまわる『ぼうけんか』になりたいからな!」
(なるほど……)
傭兵家業としてのノエの生き方が、ポポロの目には、世界を自由に旅する輝かしい冒険者のように映ったのだろう。実際には、そこまで自由で綺麗なものではないのだけれど。
「あまり楽しいものでもないですよ? 時には、本当に性格の悪い、嫌な主人に仕えることもありますから」
「たとえば、どんなやつだ?」
「そうですね……例えば、陰気で、灰色の長い髪をしていて、いつも部屋の隅でニヤニヤしているような『情報屋』とか」
ノエが真顔でそう言うと、二人の間でこらえきれないような軽い笑いが同時に弾けた。
こうして、誰かと利害関係なしに、ゆっくりと他愛のない会話を交わす空気は、ノエにとって新鮮だった。それもそのはず、彼らと出会ってからまだ、たったの数日しか経っていないのだ。たまには、こんな凪のような穏やかな時間があってもいい。
「それで言えば」
ノエは包帯を止め、悪戯っぽく目を細めた。
「迷いの森にいた夜、ポポロも何かディロックスと二人で秘密のお話をしていませんでしたか?」
「おうっ!? ……そういういみでは、おれもあいつと『けいやく』みたいなの、してるかもな」
「へぇ、どんな内容なのです?」
「それは……その、いろいろだ!」
ポポロは一瞬、言葉を詰まらせ、あからさまに視線を泳がせた。どうやら、まだそこまで深くは信用されていないらしい。
(こればっかりは、仕方がありませんね)
ノエは苦笑しながら、追及するのをやめた。
「……なぁ、ノエ。おれはどうやったら、もっとつよくなれる?」
「急に、どうしたんですか?」
突如として投げかけられた思わぬ質問に、ノエは手を止めた。
小さな獣人の表情は、いつもの底抜けた明るさが消え失せ、どこか翳りを見せている。その声も、微かに寂しそうに震えていた。
「しろいやつ……あいつ、めちゃくちゃつよかった」
あぁ、とノエは得心した。ハティのことを言っているのだ。
神殿を守護していた彼も、目の前にいるポポロも、雄大な大自然を自由に力強く生きる「狼」の因子をベースに持つモノだ。同系統の獣として、ハティの圧倒的な強さはポポロの心に深く突き刺さったのだろう。あんな風に強くなりたいと願うのは、この過酷な世界で生きる者にとっては至極当然の衝動だった。
「あんなにすごい『まそ』、どうやってあやつるんだ?」
「……それは、一言で答えるには難しい質問ですね」
ノエは小さく溜息をついた。
魔素を効率的に操るというのは、本来、一朝一夕で身につくようなものではない。竜人族であるノエ自身でさえ、完璧に扱えているかと言われれば怪しいところだ。だから、知識として教えられることはあっても、実践の技術として伝えられることは非常に少ない。
というより、これには残酷なまでの「種族間の格差」が存在する。
この世界において、魔素の絶対的な総量というものは、生まれながらにして個人個人の上限が決まっている。
後天的にその器を広げることはできない、というのが普遍的な定説だ。
そしてそれは種族によって、最初から多いか少ないかの傾向がはっきりと分かれている。人間族や獣人種、そしてノエたち鱗獣種は、世界全体で見れば魔素の総量が比較的「少ない」部類に属している。
だからこそ、彼らは魔素を外へ放出するような使い方は選べない。体内に魔素を緊密に循環させることで、爆発的な筋力や身体能力を発揮させる方向へと特化していくのだ。それ自体は、ポポロもすでに感覚的にできているように見える。
「操る、というのは……ハティのように、大量の魔素を身体の外へと放出させて、直接攻撃に活かすようなことでしょうか」
「あぁ。おれも、あんなふうに、だれにもまけないくらいつよくなりたいんだ」
「貴方の正確な魔素の総量は分かりませんが、一般的に獣人族の魔素の絶対量は多くないと言われています」
「なんでなんだろーな」
「それは……どうしてでしょうね」
理由など、考えたこともなかった。昔からそういう世界の法則なのだと受け入れていたから、ポポロの純粋な疑問は、ノエにとっても少しばかり盲点だった。
「ですが、決して欲張って魔素を外へ放出しようとしてはいけませんよ。私たちの種族がそれをやると、一瞬でガス欠になって動けなくなりますからね」
「それは、わかってるけど……」
「無理は禁物です。まずは、今自分にできる得意なことを、少しずつ伸ばしていきましょう」
「……うん」
耳を垂らし、明らかに落ち込んでいる彼をノエはポポロを励ました。
「それに、貴方はまだまだ身体も技術も、これから大きくなっていく段階でしょう? ――むしろ、あのハティを相手に、貴方はよくやっていますよ」
ノエは全ての包帯を綺麗に巻き終えると、そっとポポロの方へと細い手を伸ばした。
そして彼の小さくて柔らかい顎のあたりを、猫の警戒を解くように優しく、ゆっくりと撫でてあげる。
「ひゃ……っ」と驚いたポポロだったが、すぐに心地よさそうに目を細め、耳をぺたんと寝かせてノエの手に身を委ねた。
「ありがとうな。……ノエは、やっぱりやさしいな」
ポポロはそう言って嬉しそうに目を細めると、テーブルの上に置かれていた、すっかりぬるくなった木の実の果汁を徐にゴクゴクと飲み干した。ぷはぁ、と小さく息を吐き、満足そうに口元を袖で拭う。
少しだけ空気が引き締まったロビーに、器が小さくコトリと置かれる音が響く。ポポロは空になったコップをいじりながら、ふと、思い出したように顔を上げた。
「なぁ、ノエはラグナのこと、どうおもってる?」
「そうですね……」
突飛な、けれど核心を突くような質問に、ノエは解いた古い包帯を丁寧に折り畳みながら、少しだけ視線を宙に彷徨わせた。
「改めて聞かれると難しいですが……彼女は、とても強い確固たる意志を持っています。けれど同時に、見ていてどこか壊れてしまいそうな危うさを感じますね。今まで、私たちが想像もできないような特殊な環境で生きてきた彼女ですから、それも仕方のないことなのかもしれませんが」
「……おれ、なんかあいつのこと、みすごせないんだ」
ポポロはコップの縁をじっと見つめ、小さな耳を少しだけ後ろに寝かせた。
「これって、にんげんのいう『よけいなおせわ』ってやつか?」
「いいえ」
ノエは首を横に振り、ポポロの丸い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。その声は、いつになく優しく穏やかだった。
「きっと、今の彼女に一番必要なことですよ」
ノエはそう言うと、ポーチの紐をきゅっと結び直して立ち上がった。
「今のところ、ディロックスからの次の連絡もありませんし……私はこのまま、彼女の旅について行く予定ですが、ポポロはどうしますか?」
「おれもだ!」
それまでの少ししんみりとした空気を吹き飛ばすように、にっこりと元気のいい返事が返ってきた。同時に、ピンと立ったケモ耳が嬉しそうに小刻みに震える。
その瞬間、石造りの古い宿屋の薄暗いエントランスへ、窓枠の形に切り取られた朝の光が滑り込んできた。
空気中に舞う小さな埃が、黄金色の光の帯の中でキラキラと踊っている。
これからの私たちの旅路がどうなるか、それは誰にも分からない。けれど、静まり返ったロビーを優しく満たしていく朝陽は、まるでこれから過酷な海へと漕ぎ出す彼女たちの航海を、静かに祝福してくれているかのようだった。
どもです&初めまして!
みゃ~むら、です!
今回はちょっと幕間をお送りいたします!
感想等お待ちしております。
最近は梅雨明けして、めっきり熱くなりましたね!
からっとした暑さが、応えます。皆様も熱中症にはお気を付けくださいね。




