不穏な旅 side アレン(Part3)
続く道の先には、どこまでも広大な野生が広がっていた。
道の両脇には例外なく瑞々しい草原が波打ち、野生の動物たちが俺たちの存在に怯えることもなく、それぞれの時間を邪魔し合うことなく穏やかに過ごしている。時折、セレスティアから来たであろう、すれ違う人たちにも会釈する。
見上げるほどの晴れやかな青空が眼前いっぱいに広がり、まるで俺たちの任務の成功を祝福してくれているかのようだ。
馬車は極めて順調に進んでいる。時計の針は既に十五時を過ぎており、セレスティアの境界まではあともうひと踏ん張りといったところか。
石造りで綺麗に舗装されたこの一本道は、長く、けれど確実に俺たちを目的地へと近づけてくれていた。
何より、アルバニア卿が用意してくれたこの馬車は座り心地が抜群に良い。長時間の手綱引きでも不思議と腰が疲れず、実にありがたい限りだった。任務中とはいえ、気を許せる昔馴染みたちとの道中だ。流れる時間など、少しも気にならなかった。
「アレン、疲れてない? 慣れない馬車の手綱でしんどかったら、いつでも交代するからね?」
不意に、馬車の覗き窓からセシルがひょっこりと上体を乗り出し、気遣わしげに声をかけてきた。
「いや、大丈夫だよ。もう向こうの代表者たちもセレスティアには到着している頃だろうから、俺たちの入国手続きとかの対応はお願いしたいしな。それに到着したら、セシルに現地のおいしいお店を案内してもらう予定なんだ。今はゆっくり休んどけって」
「あはは、そう? じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな!」
セシルは嬉しそうに笑って、再び中へと引っ込んでいった。
昼前までは、集合に一番遅刻したフェリクセンが罰として御者を引き受けていたのだが、昼の小休憩を取ったタイミングで俺が交代したのだ。
なんせ休憩前のフェリクセンときたら、大あくびを必死に噛み殺しながら、手綱を握ったまま今にも白目を剥いて寝落ちしそうになっていたからだ。
いざという時はもの凄く頼りになる男なのだが、オンとオフの差が激しすぎるのだけは士官学校時代から全く変わっていない。一応、これでも国家の命を受けた重要任務中なのだが……。
現に今も、彼は馬車の中で幸福そうな寝息を立てて絶賛熟睡中だ。
それと対照的に、セシルはまだまだ元気そのもので、馬車の中で真剣な面持ちのまま愛用武器の整備に勤しんでいる。
今は盾の調整をしているようだ。彼女の扱う槍と盾は、デウステクスの最新技術が詰め込まれた、極めて精巧かつ緻密な一級品だった。
金属フレームで美しくあしらわれたその盾は、全体的に細長い三角形のような鋭利な形状をしており、奇妙なことに中央部だけがぽっかりと円形に肉抜きされている。だが、その穴の向こうが素通しで見えるわけではない。その中心部には、高濃度に圧縮された魔素を「エネルギーアロー」として射出する機構が組み込まれている……らしい。
彼女の圧倒的な機動力と俊敏さを損なわないよう、頑丈さと軽量化を極限まで両立させつつ、盾という限られた容積の中に、魔素を出力するための小型ジェネレーターまで内蔵しているというのだ。文字通り、攻撃と防御を兼ね備えたハイブリッド武器だった。
今も彼女はその中央の穴から細かなパーツや内部機構を展開し、繊細に弄り回している。
……正直、魔素や機構に疎い俺の頭では、もはや何がどうなっているのか全く理解できない領域だった。
俺の愛用している機械剣にもデウステクスの技術は導入されているが、彼女の盾ほどの複雑な代物ではない。グリップのトリガーを引けば、刀身全体にパチパチと赤黒い魔素が纏われるという、至極シンプルな造りだ。
けれど、この世界で戦う以上、彼らの最先端技術は不可欠だった。
魔人や他種族に対して、ただの鉄を鍛えただけの剣や斧では、いくら腕力を込めても有効なダメージは通せない。正確には、叩きつけたことによる物理的な打撃衝撃を与えることは出来ても、その肉体を切り裂くような致命傷を与えることは不可能なのだ。
この世界の戦闘は、すべて『魔素』を込めた刃や銃弾でなければ通用しない。
しかし、俺たち人間種には、悲しいかな魔素を直接操る能力が備わっていなかった。
そもそも操るための才覚がないのか、あるいは生まれながらにして体内に魔素を内包していないのか。世界中の高名な研究者たちがこぞって調べているが、結局のところ、その理由は未だに分からずじまいのままだ。装備による外付けで操作する以外に今のところ魔素を操ることは不可能だった。
逆に、人間以外の他種族は、多かれ少なかれ必ず魔素をその体内に宿している。
獣人種や竜人種、あるいは鬼国<オニカド>の鬼たちは、内包する魔素の量こそ比較的少ないものの、それを体内の器官に巡らせることで、爆発的な身体能力を発揮する。その底上げされた肉体は、自己治癒能力さえも異常な速度まで引き上げるらしい。
逆に、妖精種や西の大陸を拠点とする『諸族連合』、あるいは海に生きる海人種などは、膨大な魔素を体内に内包していると聞く。彼らはその潤沢な魔素を応用し、様々な奇跡――すなわち『魔法』を編み出すのだという。もっとも、これらはまだ書物の中でしか見たことがない、お伽話のような出来事だったけれど。
ただ――この世界の理において、あの『魔人』と、その対極に位置する『霊人』だけは、その前提すらも根底から引っくり返る。
彼らは厳密に言えば、生物学的な意味での「生命」ではないのだ。
あまりにも高濃度に圧縮された魔素そのものが、強固な自我を獲得した存在。それこそが魔人であり、あるいは霊人であった。
噂によれば、魔人は黒い魔素の底から、霊人はどこまでも清らかな白い魔素の光から生まれ出づるのだという。彼らが解き放つ魔素の本流は、他種族のそれを容易く圧倒する。総個体数こそ多くはないが、その卓越した魔素の運用能力は他の追随を許さない。だからこそ、これまで人間領や鬼国への侵攻が彼らにとって容易な蹂躙であったとしても、何も不思議はなかった。
両者ともに生きたサンプルが少なすぎるため、詳しい文献はほとんど残されていない。
けれど、霊人たちは地上の大陸の一部を強大すぎる力でくり抜き、それを遥か天空へと浮かべた『浮島』にして暮らしているというし、対する魔人たちは、陸地の存在しない絶海の彼方に、濃縮した魔素だけで構成された人口の島を築き上げているという。
どちらも、俺たち人間種の常識では到底測りきれない、人知を超えた絶対的な力であることだけは間違いなかった。
(……そんなバケモノみたいな連中が、今回関係しているかもしれない、か)
腰に差した機械剣の、どこか冷たい重みを衣服越しに感じる。
手綱を握る手に少しだけ力を込めながら、俺は遮るもののない、まばゆい平原の先を見つめていた。
するとその時、背後から「フォーン……」と、機械の静かだが力強い駆動音が近づいてくるのが聞こえた。
ピピだ。
彼女は背中に、機動性を劇的に引き上げるための二対の浮遊ユニット――大小二つのひし形をした美しい金属器を展開させていた。そこから零れ落ちる水色の粒子は、デウステクスが誇る人工魔素の輝きであり、まるできめ細かい水のシャワーのように美しくきらめきながら空気中に散っている。
周囲の状況監視と斥候を買って出てくれていたのだ。こういう時、疲れを知らない機械人がいてくれるのは本当に大助かりだった。彼女は滑らかなホバー移動で、俺の座る御者台の横へと並走する。
「周りの様子は問題ないか?」
俺が声をかけると、ピピはパチンと茶目っ気たっぷりにウインクをしてみせた。どうやら異常はないらしい。
「ありがとう。馬車に入って少し休んでくれ」
ピピはコクりと頷くと、鳥のような軽い身のこなしで、動いている馬車へと音もなく乗り移った。
「ピピ、おかえり~!」
「(*'ω'*)」
中からセシルの弾んだ声が聞こえ、二人が手のひらを合わせる快活な音が響く。
セシルの隣に座ったピピは、独自の機構を持つその脚部を一時的に展開させると、「フシュー……」と余剰エネルギーの蒸気を細く吐き出した。
ピピの身体構造もまた、セシルの盾と同様に複雑怪奇であり、俺の理解など到底及ばない未知の領域なのだろう。
セレスティアまではあと少し。
日は緩やかに傾きかけている。順調に進んではいるが、少し馬の速度を急いだほうがいいかもしれない。あまり到着が遅くなりすぎても、先方の代表者たちに対して失礼にあたるからな。
--------------------------------------
「え……? まだ、ここに到着していない……?」
俺たちがセレスティアの国境を越え、豊かな水脈とデウステクスの高レベルな文明が見事に融合した都市へと滑り込んだのは、すっかり日が沈みかけた頃だった。
街のいたる所に白真鍮の水管が走り、澄んだ水がせせらぎを上げて流れている。空気に心地よい潤いを感じるその美しい光景は、どこか領主であるアルバニア卿の遊び心すら感じさせるものだった。
だが、今俺たちが足を踏み入れている、アルバニア家の重厚な邸宅の内部には、そんな街中の情緒を吹き飛ばすほどの、ただならぬ緊張感が張り詰めていた。
邸宅のロビーは白い石造りの壮麗な空間だが、今はそこにある魔素流の灯りさえもが、不穏に細く揺れているように思える。
なぜなら、予定通りであれば、デウステクスと鬼島の双方から派遣された重要な来賓たちが、既にこの邸宅に到着しているはずの時間だったからだ。
セシルは信じられないといった様子で、アルバニア家の老執事であるルーツに詰め寄り、声を裏返した。
「ど、どうなってるの!? 向こうからの通信は?」
「それが……何度こちらの魔導端末から信号を送っても、一切の応答がないのです。おそらく、何らかの深刻なトラブルに巻き込まれたのではないかと……」
「ト、トラブルって……! もし彼らの身に何かあったら、外交問題どころか、私たちの立場だってまずいんじゃ……!」
「まあ、良くて打ち首。……悪くて打ち首ってところか?」
「ちょっとフェリクセン、頼むから今は黙ってて!!」
不敵な笑みを浮かべながら不謹慎な軽口を叩くフェリクセンに、セシルは頭を抱えながら猛烈に怒鳴りつけた。
俺とピピは苦笑いするしかなかったが、確かに他人事のように構えているわけにもいかない。緊迫するロビーの空気の中、混乱するセシルを宥めながら、俺は一歩前に出てルーツに確認を取った。
「ルーツさん、その……通信が返ってこなくなったのは、正確にはいつからですか?」
「本来であれば、正午にはこちらに到着され、私どもが直々に案内する予定だったのです。しかし一向にお見えになる気配がなく、通信もつながらない状態です。……こちらとしても手をこまねいていたわけではありません。お迎えのために、2台の魔動車に武装した兵士たちを乗せ、既に派遣したのですが……」
「それは適切な判断だと思います。ですが、やはり心配ですね……。ピピ、お前からも独自の周波数で通信を飛ばせるか? 試してみてほしい」
俺の頼みに、ピピは「ピピッ」と警告灯を明滅させ、了解の合図を送ってくれた。通信塔が立っている場所から通信もできるが、ピピにもその機能は兼ね備えられている。
彼女はその場で頭部のアンテナを駆動させる。しかし、数秒の静寂の後、彼女が目を開けて示したのは、ひどく暗く沈んだ顔だった。顔のインジケーターには、明らかなエラーを示す赤色のパターンが点滅している。
「……結果は、ダメそうか?」
「((+_+))」
ピピは悲しげに首を横に振り、自身の頭部を指差してから、バツ印を作るように両腕を交差させた。初めて見る彼女の切羽詰まった表情に、俺の背筋に冷たいものが走る。
「返信がないんじゃなくて……もしかして、電波そのものが『送れない』のか?」
ピピは大きく首を縦に振った。通信の遮断、か。一体どうなっているというのだろう。
だが、その異常な事態の意味を深く考察する余地すら、世界は俺たちに与えてくれなかった。
バタン!! と、静まり返ったロビーに、急ぎ足で部屋に駆け込んできたメイドの足音が荒々しく響き渡る。
「ル、ルーツ様……っ! デウステクス方面へ派遣した、兵士たちが……!!」
息を乱した彼女の顔は、あまりの焦りと驚き、そして底知れない恐怖によって完全に土気色に変色していた。急いできたのだろう、彼女の顔には汗が滲んでいる。
「落ち着きなさい、何があったというのだ!?」
「はやく……早く正面玄関へお越しください……っ!」
「あ、あぁ……分かった」
「……俺たちも行こう」
それまでヘラヘラしていたフェリクセンの、低く引き締まった声が響く。俺たちはルーツの後を追うようにして、一斉に走り出した。
もはや、のっぴきならない何かが起きている。メイドの背中を追いかけながら、俺たちの頭には、それぞれ最悪のイメージが黒い染みのように広がっていた。
急いで玄関先へと飛び出す。時刻は一八時を過ぎており、周囲は完全に夜の帳に包まれようとしていた。薄暗い屋敷の前庭には、既に多くの召使や警備兵たちが集まり、騒然とした人だかりができていた。
だが、その人だかりよりも先に、俺の視界に飛び込んできた凄惨な光景に、俺の呼吸は凍りついた。
魔動車だ。しかし、それはもはや車と呼べるか怪しい、無残な鉄の瓦礫と化していた。
来賓を迎えるために誇らしげに出発したはずの豪華な四輪車、だったのだろう。本来ならば、俺たちが乗ってきた馬車のように、漆黒のボディに金の意匠があしらわれた、格調高いセレスティアの誇りそのものであるはずだった。
だが、そこにはそんな美しさは微塵も残されていなかった。
天井部分は内側から爆発したかのように完全に消え去り、フロントガラスは粉々に砕け散っている。そして車体のいたる所には、大小様々な、不気味に溶解した「穴」が無数に開いていた。
何か、圧倒的に強力で禍々しいエネルギーを至近距離から撃ち込まれたかのような痕跡。その焼け焦げた穴からは、今なお生々しい黒煙が立ち上っており、パチパチと不穏な火花を散らしながら、今すぐにでも炎上しそうな様子だった。
――そして、戻ってきた車は、派遣したはずの2台のうち、わずか「1台」だけだった。
「すまない、通してくれ!」
ルーツが人だかりをかき分け、最前線へと踊り出る。俺たちもその流れに引きずられるようにして、凄惨な現場の真ん中へと割って出た。
「な……ッ!? どうしたのだ、お前たち、一体何があった!?」
ルーツの絶叫が夜の空気に響く。眼前に広がる光景は、一言で言えば地獄だった。
石畳の上には、血だらけになった数人の兵士たちが横たえられ、駆けつけた医師たちから必死の応急処置を受けている最中だった。衣服はズタズタに引き裂かれ、皮膚は爆風で焼けただれている。そのほとんどが意識を失っており、ただ弱々しく胸を上下させているだけだった。セシルとピピが、すぐさまその輪の中に飛び込み、自身の手を汚しながら必死の救護活動を手伝い始める。
「う……ルー、ツ……さま……」
そのうちの一人――右腕の肘から先が完全に消失し、体のあちこちから止まらない鮮血に身を悶えさせていた兵士が、朦朧とした意識の中でルーツの姿に気づいた。
今にも消え入りそうな、掠れた呪詛のような声。けれど、それは確かに俺の耳に届いた。
ルーツが顔を青白くさせながら、その兵士の傍らへと膝をつく。俺とフェリクセンも、何か少しでも情報が得られるかもしれないと、息を呑んでその兵士の元へと近寄った。
「お、お許し……を……。や、やつ……らが……」
「今は喋るな……っ! 意識を強く持つことに集中しろ、おい、こっちにも衛生兵を!」
ルーツの落ち着いた、しかし隠しきれない焦熱を含んだ声。
しかし、その兵士は自らの命の灯火が消えかけていることを悟っているかのように、残されたすべての力を振り絞って、血を吐きながら言葉を紡ぎ出す。彼の傷口からは、ドクドクと赤黒い血が溢れ続け、石畳の溝を汚していく。
「や、つら……。まじ、ん……が……、攻め……て……」
――魔人。
その二文字がロビーに落ちた瞬間、世界の温度が急激に下がったかのような錯覚に襲われた。
すべてを察した。魔人が、人間領か、あるいは機械領の境界を標的にして、明確な殺意を持って攻めてきたのだ。
通信が返ってこない理由も、電波そのものが消失したかのような異常事象にも、すべてに最悪の形で納得がいってしまった。事態は、俺たちが生ぬるい馬車の中で想像していたよりも、遥かに致命的な領域へと突き進んでいる。
「もう良い。喋るな……!」
ルーツが声を絞り出すが、しかし、その静かな命令が彼に届くことは二度となかった。
兵士の瞳から、すっと光が消える。引き絞られていた身体の緊張が抜け、ただの物言わぬ肉の塊へと変わる。
「…………ッ」
胸が、激しく締め付けられた。
俺は、生まれて初めて「人が死ぬ瞬間」を、その命が指の隙間から溢れ落ちる様を目の当たりにした。
この世界において、死とは、これほどまでに呆気なく、隣り合わせにあるものだったのか。
途端に、胃の底からせり上がってくるような、泥ドロとした悍ましい「恐怖」が俺の全身を支配し始める。足の震えが止まらない。
これがルクレチアのいう、仮初の平和だとでも言うのだろうか。
何かを間違えれば、次の瞬間にこうして物言わぬ骸に変わるのは、俺や、フェリクセンや、セシルや、ピピなのかもしれないのだ。その恐怖が、現実の質量を持って脳髄を殴りつけてくる。
だが――だからこそ、ここで退くわけにはいかないのだ。
もう、こんな理不尽な犠牲はたくさんだ。奪われるだけの世界に抗うために、俺はあの機械剣を手に取ったのではなかったか。
ここで立ち上がらなければ、あの日、絶望の中で流した涙も。
ルクレチアと交わした、未来を護るという誓いも。
すべてが、無意味な塵となって霧散してしまう。
俺は、ガチガチと震える両足の膝を手のひらで強く叩きつけ、無理やり地面を踏ん張った。そして、奥歯を噛み締めながら、掠れる声を絞り出す。
「フェリクセン……」
「……あぁ。お前の言いたいことは、痛いほど分かってるぜ」
フェリクセンが、いつになく鋭く冷徹な、けれど確かな戦意を宿した瞳で俺を見返した。
「行くっきゃねぇよな。ここで待ってたら、ブリジットにまたしごかれちまう」
その声を背中で聞いていたセシルとピピが、到着した本職の看護師たちに負傷者を託し、こちらへと歩み寄ってきた。
「あんた達ならそう言うと思ったわ。……ルーツ、車でも馬車でも何でもいい。この屋敷で一番足の早いやつを、今すぐ私たちに貸して」
「セシル! 本気で言っているのか!? 魔人が来ているのだぞ。戦場にも出たことがないお前たちが赴いたところで、犬死にするのが関の山だ!」
「今まで何のために厳しい訓練を乗り越えてきたと思ってるの?それに、このままここで震えて待ってたって、事態は何一つ好転しないでしょ! もし来賓が全滅して、その足でこのセレスティアに魔人が攻め込んできたらどうするの!? その時になってから戦うくらいなら、今、盾を張るわ!」
ルーツは苦渋に満ちた表情で、激しく思い悩む素振りを見せた。ヒューメブルグにいる当主に連絡を取り、判断を仰いでいる猶予など一秒たりともない。彼は深く目を瞑り、数秒の間、セレスティアの夜の風を浴びながら考え込んだ。
そして、諦めたように重く肩を落とした。
「……承知した。すぐに用意させる。……ただし、これだけは約束しろ。必ず生きて帰ってこい。お前たちの葬式を上げるほど、私は暇ではないのだからな」
「へへ、私も無駄死にしに行くつもりはないよ。ありがと、ルーツ」
「おい! そこのお前、すぐに4輪車を準備しろ!」
ルーツが折れた。セシルの決死の説得が功を奏し、俺たちはすぐに出発の準備に取り掛かった。ルーツの鋭い怒号に、近くの召使たちが弾かれたように走り、手配へと動く。
「デウステクスまでは、どれくらいで着くんだ?」
俺の問いに、セシルが防具のベルトをきつく締め直しながら答える。
「普通に行けば丸半日はかかる。でも、あの車で全力で飛ばせば……二時間ちょいで着く! ……ただし、道中に何かしらの『障害』はあるでしょうね」
セシルは言葉を濁したが、それが魔人の手先や残党との「戦闘」を意味していることは、火を見るよりも明らかだった。
まさか、こんなに早く本物の魔人と刃を交えることになるとは、夢にも思わなかった。
突如、邸宅の前庭に、これまでの魔動車とは一線を画す、爆発的なエンジンの重低音が高らかにこだました。
先ほどの召使が、狂ったような速度で一台の車両をドリフトさせるようにして滑り込ませてきたのだ。
ヘッドライトの光に照らされたその車体は、洗練されたセレスティアの車両群の中でも明らかに異質だった。こじんまりとしつつも、卵のような滑らかな丸みを帯びた、どこか可愛らしくも前衛的なデザインの四輪車。
「え、これ……?」
呆然と呟くセシルを、フェリクセンがニヤリと笑って小突く。
「車にあまり興味のないセシルは知らないのも無理はないでしょう。この四輪車には『新型の魔素流過給機』が搭載されております」
「過給機……?」
首を傾げるセシルに代わるように、ルーツが厳しい表情のまま一歩前に出て言葉を補足した。
「左様。そちらの試作車は、魔素流ジェネレーターの出力を一時的に限界を超えて高める過給システムを備えております。現状、我が国で最も『速い』乗り物です」
「……なるほどな」
確かに呆然とするセシルの気持ちもよく分かる。魔人と戦いに行くための車両と聞いて、どちらかと言えば俺も、装甲をガチガチに固めたかなり無骨で強固な代物が出てくるものだと勝手に想像していたからだ。
だが、ルーツの説明を聞いて合点がいった。この絶望的な状況下で境界まで強行突破するならば、中途半端な装甲など魔人の一撃の前には紙切れ同然だろう。ならばこれくらい車体を小さくまとめた方が、無駄な被弾を避けることができ、かつ走行時の空気抵抗を極限まで減らして、圧倒的な最高速度を叩き出せるというわけだろう。
困惑しているセシルを無視するように、フェリクセンは降りてきた召使と入れ替わりで、俊敏な動作で運転席へと滑り込んだ。
「よし、お前ら! 遅れるな、全員乗り込め!」
「ちょ、ちょっと! なんであんたが当然のように運転席に座ってんのよ!?」
「一回こういうスゴい奴、思いっきり運転してみたかったんだよ! ほら、時間がねぇんだろ、急げ!」
「うわ〜、本当に心配……。ていうか、もし上手くいったとして、代表の人たちは一体どこに乗ってもらうつもりなのよ!」
セシルの指摘はもっともだった。どう見てもその車内は四人乗りが限界のスペースだ。ピピだけをずっとホバー移動で並走させるわけにもいかない。
「そんなの、向こうに着いてから考えりゃいいんだよ! 今は兎にも角にも、一秒でも早く現地に着くのが先決だ!」
「……ま、フェリクセンの言う通りだな。早く乗ろう!」
俺は迷いを振り切り、フェリクセンの助手席へと滑り込んだ。
本物の「車」に乗るのは、これが人生で初めてだ。シートを通じて身体に伝わってくる、四輪車独特の小刻みに震える強力な駆動の感覚が、緊張した俺の皮膚を心地よく刺激する。
「も〜! 男どもはこれだから後先考えないんだから……! 仕方ない、ピピ、後ろ乗るよ!」
ピピは「了解!」とばかりに頭部のランプを緑色に点灯させると、セシルと共に後部座席へと滑り込んだ。
「何が起きているのか、私どもには分かりかねます。……くれぐれもお気をつけて! 通信が復活したら、すぐに連絡を。ヒューメブルグの当主様へは、私の方から直ちに伝書鳩を飛ばしておきますので!」
「うん、ルーツ、頼んだわ!」
「じゃあな、爺さん! ――行くぞおおお!!」
フェリクセンが床まで思いっきりペダルを踏み込んだ。
次の瞬間、卵型の四輪車は猛獣が駆動音を鳴り響かせ、俺たちの身体は加速によってシートへと深く押し付けられた。
夜の闇を切り裂き、見たこともないスピードで咆哮する車内。
慣れない圧倒的な速度感に対する本能的な恐怖が胸を締め付けると同時に、不謹慎にも、この限界の状況がもたらす「未知の高揚感」が、俺の心臓を激しく脈打たせていた。
この先に、一体どれほどの絶望が待ち受けているかは分からない。
けれど今は――この荒ぶる駆動音と、引き返せない速度(G)の感覚に、己の全てを委ねて突き進むだけだ。一体この夜道の先、未知の国に何が起きているのだろうか。




