新たな暁光 アレン&ラグナ
朝、ヒューメブルグの正門近く。
まだ早朝だというのに、目覚めたばかりの往来には様々な人々が行き交い始めていた。朝早くから商品を並べる商人や、これから出発する、あるいは遠方から到着したばかりの観光客たちが、各々の目的地へと活気ある足取りを向けている。
俺もその賑やかな一員に混ざるようにして、胸を高鳴らせながら待ち合わせ場所へと赴いた。
登りたての太陽が、目覚めたばかりの街並みを黄金色に照らし出している。
空には天高く鳥たちが羽ばたき、爽やかな朝の風が建物の隙間を軽やかに吹き抜けていく。俺たちの出発を祝福してくれているかのような、これ以上ないぴったりの快晴だ。
今日の俺の装いは、これから始まる三日間の移動任務と、その先で待つ他国の代表者たちとの謁見、およびヒューメブルグまでの護送を両立させるためのものだった。
仕立ての良い清潔なシャツの上に、防風性と耐久性に優れたジャケット風のアウターを羽織る。下はタイトながらも動きやすさを重視した、決して失礼にならない格調高い黒のロングパンツ。腰には相棒である愛用の機械剣を帯び、手元には使い慣れたグローブを嵌めている。
立場としては一介の護衛任務ではあるが、間違いなく重要な来賓を迎えに行くのだ。俺なりに用意できる最高の正装だった。
そんな往来の喧騒の脇に、少々目立つ上質な馬車が一つ、静かに佇んでいるのが見えた。
馬車を覆う幌布は重厚な漆黒で染められており、所々に施された金の装飾が、いやらしさを感じさせない上品な格式の高さを醸し出している。馬車の側面には、アルバニア家の家紋が堂々と中央部分に鎮座していた。
その脇では、既にセシルが木箱に腰かけ、膝を抱えるようにして気持ちよさそうにうたた寝をしていた。足元には、彼女の愛槍と盾が丁寧に立てかけられている。
だが、俺が近づく足音に気付いたのか、彼女は「ん……」と寝ぼけ眼をこすりながらこちらを認めると、一瞬で現役士官らしい鋭い意識を覚醒させた。
「アレン、おはよう~。早いねぇ……ふぁぁ~あ」
木箱から立ち上がり、両手を天高く突き上げて身体を精一杯伸ばしながら、大きくて無防備なあくびを一つ。
どうやら彼女も、機能性と品格を兼ね備えた装いを選んだらしい。今回の長旅に備えたその出で立ちは、アルバニア家お抱えの精鋭にふさわしい、見事な機能美に溢れたものだった。
上半身は、軍服らしい端正な印象を持たせる紺のブラウス。肩回りをすっきりと見せる袖口に、胸元の装飾は最小限のシンプルさに抑えられている。一方の下半身には、先進的なセレスティアの技術を感じさせる、ストレッチ性の高いスマートな仕立てのショートパンツ。そこに黒のタイツと編み込みのショートブーツを合わせることで、全体のシルエットに洗練された品格を漂わせていた。無駄な装飾を削ぎ落としたその着こなしはスタイリッシュで、どこか中性的な美しさすら感じさせる。
運動性能を最優先した軍人らしい佇まいでありながら、それが彼女の健康的に引き締まった身体のラインにぴったりと馴染んでいた。
――それだけに、目の前で無防備に思いっきり胸を張って伸びをされると、少々目のやり場に困ってしまう。
普段が凛々しく中性的な装いだからこそ、衣服越しに優しく主張する柔らかな膨らみが、彼女が頼れる戦友であると同時に、魅力的な一人の女性であることを俺に否応なしに意識させてくるのだ。つつましくも、確かにそこに存在する女の子らしさに、朝から少しだけ鼓動が跳ねる。
「おはよう。準備してくれてたのか? 声、かけてくれればよかったのに」
内心のドギマギを隠すように、あえて視線をあさっての方向へと逸らしながら返事をする。
よく見ると馬車の中には、既に旅に必要な物資が隙なく詰め込まれており、後は俺たちが乗り込むだけの状態になっていた。つなぎ留められている馬たちも、静かに俺たちの号令を待っているかのように上品に佇んでいる。
「いや、ほとんどは家の人たちがやってくれてたよ。さっすが私の当主さま、手際が良すぎ」
セシルは誇らしげに胸を張った。やはりアルバニア卿は様々な配慮が行き届いており、仕事に一切の余念がない。
セシル自身、卿のそんな恐るべき手腕と先進的な思想を心から尊敬し、評価しているからこそ、自ら望んでセレスティアでの勤務を志願したのだと、昨日嬉しそうに語っていたのを思い出す。
「そういえば、ピピちゃんは? 一緒じゃないの」
「フェリクセンが心配だからって、直々にアパートまで迎えに行ってもらってる」
「はは、さすがに今回は大丈夫でしょ? もう彼も働く立派な士官なんだから」
「…いくら連絡しても、一切返事がなかった」
「うそでしょ……」
デウステクスの連絡塔で遠くの人ともすぐに連絡できるのもありがたいことだ。
まだそこまで多くは建設できていない為、要所にしか設置できていないという不便さはあるが。
呆れつつも、どこか懐かしい学生時代のやり取りを思い出したのだろう。
セシルはクスクスと、悪戯っぽく笑った。それにつられて、俺の唇からも自然と笑みがこぼれる。
「あーあ。それを言うなら、私もアレンから朝のモーニングコール欲しかったな~」
羨ましそうに頬を膨らませ、唇を尖らせるセシル。こちらを少々にらみつけるような、茶目っ気のある視線だった。
「いや、セシルは大丈夫だろ。俺たちと違って、士官学校時代から一度たりとも遅刻したことないじゃないか」
「ちっちっち。アレンくん、それとこれとは話が違うの!」
人差し指をチチチと横に振り、俺の真っ当な正論をユーモラスにシャットアウトしてくる。
「いやいや、やっぱりさ。久しぶりに会うアレンたちとは、少しでも長く一緒にいて、たくさん話して交流を深めたいんじゃん? セレスティアに赴任してからは、中々みんなと会える時間も無かったんだしさー」
「昨日、あれだけ浴びるように飲んでおいてよく言うよ……」
どうやら彼女は、見ないうちに相当なお酒好きになっていたようだ。
昨夜の酒場では、俺たち三人が若干引くほどの凄まじいペースで大ジョッキを空けまくっていた。
流石に最後の方はかなり酔っており、今にも空きジョッキだらけのテーブルで寝落ちしそうだったはずだ。
別れ際、あのふらふらとした足取りで無事に家まで帰れるのかと内心ハラハラしていたのだが、どうやらまったくの杞憂だったらしい。今では二日酔いの気配すら一切なく、完全にケロッとしている。
裏を返せば、それだけ日頃のストレスを発散したい環境なのかもしれないと、タフな彼女を少し心配にすらなってくる。
「仕方ないじゃない、お酒があんなにおいしいものなんだから! それにさ、大好きなあんたたちと一緒なんだから、なおさら美味しくなっちゃうんだよ」
「そういうもんか……?」
「そういうもの! 全く、卒業した後にこまめに連絡をくれてたのはピピちゃんだけだしさ。あんた達男子陣も、もっと連絡くらいよこしなさいっての!」
腰に手を当て、屈屈のない満面の笑顔でまっすぐに言い切られ、俺は苦笑するしかなかった。
こうも直球で好意や信頼を前面に押し出されると、さすがに調子が狂うというか、ひどく照れくさい。その感情をごまかすように、髪をくしゃくしゃとかきながら、俺は何とか次の言葉を絞り出した。
「ま、まぁ……今から嫌でも三日間は付きっきりだ。嫌になるほど話せるさ。道中、頼むぜ?」
「もちろん! 私を誰だと思ってるの。こちらこそよろしくね、アレン」
パチン、と元気よくウインクを飛ばしてくる。相変わらず周囲の空気を一瞬で明るく照らす、太陽のような奴だ。士官学校時代、過酷なしごきの中で彼女のこの明るさに何度救われたか分からない。
彼女はそっと自分の足元に立てかけてあった槍を手に取ると、慣れた手つきでそれを背中のホルダーへと収めた。その一連の無駄のない動作が、妙に格好いい。
「……でもさ」
槍を背負い終えたセシルが、ふと声をワントーン落として、一歩距離を詰めてきた。
「あんたが一緒で、実はちょっと安心したんだ」
「え?」
「だって、今回はオニカドとかデウステクスとか、色々複雑な国が絡む任務でしょ? なんか、今までとちょっと雰囲気が違うっていうか……。でも、あんたが隣にいてくれるなら、私は余計なことを考えずに、前だけ見て槍を振れる。……ありがとね、引き受けてくれて」
いつもの大雑把な調子とは違う、まっすぐで真摯な響き。朝の光の中で、彼女の美しいヘーゼルワッツの瞳がまっすぐに俺を射抜く。
そのあまりの真っ直ぐさに、俺のほうが思わず気恥ずかしくなって目をそらしてしまった。
「よ、よせよ。俺だってブリジット隊長に強制連行されただけだ」
「あはは! 分かりやすーい! 照れちゃってさー!」
照れ隠しのセリフを完全に見透かしたように、彼女はまたいつもの爆発するような笑顔に戻った。
それに比例するかのように、雲間から完全に顔を出した朝日が一段と眩しく輝き、俺たち二人を優しく包み込む。朝の爽やかな風が心地よく肌を撫ぜ、二人の間を軽やかに駆け抜けていった。
やはり彼女や、他の元級友の前では肩肘を張らなくていい。この心地よい軽やかさが、これから始まる任務への不安を、確かに和らげてくれていた。
そんな昔の記憶と、目の前の眩しさに小さく目を細めていると――後ろから、待ちわびた賑やかで騒がしい二人分の足音が、こちらに近づいてくるのが聞こえた。
「わ~るかったって! おいピピ、そんなに強く引っ張らなくてもいいだろ……千切れる、腕が千切れるって!」
「( ゜Д゜)」
ジト目をこれでもかと全開にして、フェリクセンの腕をギチギチと力任せに引っ張ってくるピピ。
ようやく残りのメンバーも到着したようだ。
なぜかフェリクセンは髪が滴るほどびしょ濡れである。
「すまねぇな、昨日の酒が中々抜けなくて……。だけど、まさか朝一番に寝室で冷水をぶっかけられるとは思わなかったぜ……」
「(੭ु´・ω・`)੭ु⁾⁾」
「あはは! それは完全にフェリクセンが悪いよお?」
「じゃあ悪いけど、一番遅刻した奴が馬車の御者ってことで決定な」
「お~い、おれ一応今回の隊長だぜ!? 扱いひどくないか!?」
不満をたらたらと述べるフェリクセンの背中を、ピピが背後からパシコーン!と勢いよく叩いた。
「つべこべ言わずにやりなさい!」と、彼女が態度で語っている。
「わ~ったよ、やりゃあいいんだろ! コホン…よし、じゃあ俺たちは今から任務のためセレスティアに向かう。……まぁ勝手知ったるメンツだし、おれもセレスティアには行ったことはある。ちょい特殊で緊張する任務だけど、肩肘張らずにいこうや!」
「「了解!」」
ピピも元気よく片手を上げて応じる。
全員が慣れた動作で馬車へと乗り込み、フェリクセンが観念して馬の手綱を握った。それを合図とするかのように、馬たちはパカパカとゆったりと蹄の音を響かせて進み始める。
朝のまばゆい光を浴びながら――俺たちの賑やかな任務が、ついに始まったのだ。
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「さてと」
旅の支度を整え、マントを肩に羽織る。
昨夜はバー『ハイドアウト』に併設されている簡易の寝室を借りさせてもらった。
毛布を蹴飛ばしてすやすやと寝ているポポロの姿を一瞥する。……こいつは、ここに置いていく。
部屋を出てバーのフロアへと入ると、昨夜の狂騒が嘘のように静まり返っていた。マスターも奥のスタッフルームに引っ込んでいるようだ。わざわざ起こして改めて挨拶をする義理もないだろう。
次の目的地は鬼国<オニカド>。長居は無用だ。
バーを後にし、ひんやりとした静寂が満ちる朝の森へと踏み出す。
廃墟の敷地を出ようとした、その時だった。後ろから、草を踏みしめる軽やかで、けれど酷く必死な足音が聞こえてきた。
「おーい! おれをおいていくなーっ!」
短い手足をバタつかせ、猛スピードで足元に滑り込んできたのはポポロだった。
先ほどまで鼻提灯を膨らませて幸せそうに眠っていたはずなのに、いつの間にか目を覚ましていたらしい。急いで飛び出してきたのだろう、衣服は派手に乱れ、呼吸はゼーゼーと荒い。
一人で旅をしたい私にとっては、鬱陶しいことこの上なかった。何とか言いくるめて煙に巻こうと、冷徹な視線をそいつに見下ろす。
「ついてこないでくれる? 私は一人で行きたいの」
「いやだ! おれは、ついていくんだ!」
「ポポロにはポポロの目的があるでしょ。だからここのバーに来たんじゃないの?」
そういえば、そもそもこいつがここへ来た本当の理由を、私はまだ知らない。
「それはもう、だいじょうぶ! それに『おにのしま』、おれもいってみたい!」
キラキラと目を輝かせる姿に、呆れてため息が出る。ただの冒険心に火がついたとでも言うのだろうか。めったに行くことができない鬼の島を、観光地か何かと勘違いしている。
「一緒に来たら、確実に大怪我するよ。魔人たちとも戦うし、鬼の島には不法入国するんだから、最悪現地の種族と命の取り合いになる」
「おう! おれはつよいからへいき!」
私の足を短い腕でぎゅっと掴んで離さないまま、ポポロはどこか得意げに鼻をフフンと鳴らした。どうやら、梃子でも離れる気はさらさらないらしい。
……だんだん面倒くさくなってきた。いっそ、ここでこいつを切り伏せて、文字通り置いていってやろうか。
そう思って腰の剣の柄に指をかけようとした瞬間、思わぬ方向から低い声が降ってきた。
「連れてってやればいいじゃねぇか。おまえに相当懐いてるみたいだしな」
声のする方を見やると、巨大な大樹の幹にもたれかかったディロックスがいた。
どうやら近くで野営でもしていたのだろう。一部始終を特等席で眺めていたらしい男は、その長髪を気だるげに揺らしながら歩み寄ってくる。
ノエも、その後ろをぴったりとついてきていた。
「どうせ、ずっとシンキくせぇツラして一人で歩いてたって、息が詰まるだけだろ? 別に連れてったってバチは当たらねぇよ。それに、たった一人あの魔人どもを相手に戦い続けるには限度がある。これはお世辞じゃねぇぞ。元戦術指揮官としての、ありがたーいアドバイスだ」
「……余計なお世話よ」
睨みつける私を、ディロックスは飄々といなす。
「それに、鬼の国に行くにしても、足がなけりゃどうやって海を渡る気だ? その情報をどうやって手に入れる? お前のあの『師匠』とやらは音信不通でどこにいるかも分からねぇ。完全に孤立無援だろ。――だが、俺なら紹介できるぜ? そいつを連れて行ってやるってなら、今回は特別に『タダ』でその情報を売ってやってもいい」
相も変わらず、こちらの痛いところを突くのが上手い男だ。
できればこいつとは二度と会わずにここを離れたかった。
だが残念ながら、現実的な移動手段についての彼の指摘は、一言の反論もできないほど正論だった。
ここから鬼の島に最短距離で向かうには、砂漠地帯を統べる鱗獣族の領地<サハラド鱗皇国>を突っ切る必要がある。かつて数多の種族が共に暮らし、平和に生きた地。
だが大昔に滅び、当時の生活の営みの痕跡は、今や広大な廃墟となって砂に埋もれている。私が一度も足を踏み入れたことがない未知の国だ。
そんな土地に対する情報網が、今の私にないのもまた事実だった。これまで行き当たりばったりに魔人を狩り続けてきた弊害が、ここに来て出ている。
「……わかった。あんたの条件、呑むわよ」
優先順位をはき違えてはいけない。
私の目的は、一刻も早く魔人たちの首を討ち取ることだ。そのための最短ルートが買えるなら、多少の妥協は泥を呑むより安い。
「おー! ディロックス、やっぱりおまえはいいやつだな!」
「お前が昨日言ってた例のアレ、完成したらいつか俺に見せろよ?」
「おう、まかせろ!」
私の知らないところで、いつの間にか男の友情でも育まれていたのだろうか。駆け寄るポポロに対し、ディロックスは屈んで、ごく自然な動作で拳をコツンと突き合わせた。
私はそんな光景を冷ややかな流し目で見つめながら、コホン、とわざとらしく軽く咳払いをする。
「で? 早くその情報を教えなさいよ。……どうせあんたが『タダ』なんて言うときは、まだ何か裏があるんでしょ」
「ハッ、話が早い奴は好きだぜ。……まぁ、裏ってほどのもんじゃねぇよ。ポポロのついでに、こいつも連れてけ」
ポポロと目を合わせたまま、ディロックスが親指で無造作に指し示したのは、なんと後ろに控えていたノエだった。
「は?」
当のノエも完全に初耳だったらしく、その端正な顔が信じられないものを見るように呆けているのを、私は初めて見た。いくら何でも、身勝手すぎる主人の言動に少し同情してしまう。
「……なんでノエなの? いや、なんとなく理由は察せるけど」
彼女の立派で逞しい尻尾、その恵まれた体躯。そして側頭部から雄々しく生えた角。彼女は、あの鱗獣領<サハラド鱗皇国>でも今や物珍しいはずの『竜人族』だ。きっと、現地での生きたガイドになると踏んだのだろう。
「鬼の島に行くには、ここからだと鱗獣領を抜けるのが一番はえぇ。なら、その国の出身者に直接案内させる方が、今ここで俺がペラペラ喋って教えるよりよっぽど確実だろ?」
正直、私は一人の方が気が楽だし師匠と離れてからはずっとこうしてきた。
しかし、ポポロが押し掛けてくる以上、連れが二人になろうが三人になろうが大差はない、か。
私は深く、大きくため息をついた。
「条件を呑んだ以上、別にかまわないけれど。……ノエ、あんたはいいの? その様子だと、何も知らされてなかったみたいだけど」
私の問いかけに、ノエは一瞬だけ驚きに瞬きをしたが、すぐにその凛とした表情に戻った。
「我が主がそう仰るのであれば、私は一向に構いません。ラグナ、ポポロ。これからよろしくお願いします」
「よろしくー」
「……順応、早すぎない?」
間髪入れずに、二人はディロックスがやったのと同じようにハイタッチを交わしている。
なぜ、そこまで簡単に人と人との距離を詰められるのか、私には理解できなかった。正確には、あの9年前のあの日から、分からなくなってしまったのだ。
私たち生きる者は、いつか死ぬ。
失って、あの時のような地獄の絶望を味わうくらいなら、最初から繋がりなんて作らない方がマシだ。
「……けど、どうして私にここまでしてくれるの?」
彼にとって、私はただの不遜な客でしかないはずだ。ポポロを連れていかせるための取引だとしても、どこか私の旅の肩を持ってくれている気がしなくもない。そんな疑問が、つい口を突いて出た。
ディロックスは歩き出そうとした足を止め、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「へっ、気分だよ。おめぇは口も悪いし、愛想の欠片もねぇが……顔が俺のタイプなんでな」
「さいってー…」
即座に吐き捨てた私に、彼は声を上げて笑った。
「ま、おめぇのその『復讐』ってやつが、どこまで届くのか。個人的な特等席で見届けたいのさ」
今度こそ、彼は踵を返し、朝靄の煙る森の奥へと歩みを進めた。
「ですが、ディロックス。あなたはこれからどうするのですか?」
ノエの至極真っ当な質問に、男は振り返りもしない。
確かに、これまでノエという強力な護衛をつけていたということは、それなりに危ない橋を渡る情報屋としてのリスクがあったはずだ。私の記憶が正しければ、彼自身に特別な戦闘の心得はなかった。そうでなくても、彼が泥臭く戦っている姿など想像すらできない。
「ま、のらりくらりやるさ。ちょっと色々と、面白い野暮用もできちまったんでな」
「承知しました。どうか、お気をつけて」
「おう。ノエ、お前もな」
二度とこちらを振り向くことなく、彼の細身の人影は森の木陰に呑まれるようにして消えていった。姿が見えなくなっても、しばらくの間、彼の外套が擦れる幽かな音が、朝の森の葉擦れに混ざって響いていた。
残された二人が、一斉に私の方向を向く。私の言葉を待っているように。
「じゃあ……私たちも行きましょう。足引っ張ったら、容赦なく置いていくから」
ディロックスが去ったのとは真逆の方向へ、私は力強く一歩を踏み出す。
すぐ後ろから小気味よいポポロの足音と、ノエの確かな足音がついてくる。
急遽、奇妙な成り行きで結成されたパーティ。
……けれど、私の背中を追うその二つの気配は、朝の冷気の中で、不思議と心強く私を支えていた。
朝の冷たい空気の中、二つの足音を引き連れて――私の果てしない復讐の旅が、静かに始まったのだ。




